多治見市スポンジテニス協会 番外編ページ

2008.01.10 微訂正しました

織部って?


人 物

 参考ページhttp://www.e-oribe.info/   

 古田織部は、1544年、現在の岐阜県本巣郡本巣町に生まれ、信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者として名を馳せました。利休が完成された「侘び」の精神を継承しながら、「織部好み」とよばれる大胆で自由な茶の湯を創りだしたのです。その精神は、今日にも多く残る織部焼に見ることができます。表面に即興的な絵を施した奇妙にゆがんだ茶碗や向付は、当時の日本人の価値観を一変させてしまったばかりではなく、いまもなお見る人の心を驚かせます。
 織部は、日本で初めて陶器産業に大量生産、大量消費の仕組みをもたらしたイノベーターでもありました。また、茶の湯文化に関連する、建築、造園、料理、製紙などのあらゆる職人技術、産業領域にも「織部好み」を波及させ、影響を与えています。
 織部焼はいまでは日本全国の料亭や各家庭にまで普及し、また織部が茶室の造営に発揮した感覚は、今日の日本人の住宅の中に生きています。


焼き物

参考ページ http://www.chuokai-gifu.or.jp/

千利休が確立し、さらに古田織部の茶の美学がいかんなく発揮されているのが織部です。 景光の長男、景延によって肥前唐津から導入された新式の窯連房式登窯により、焼き物も大きく変わっていきます。熱効率もよく規模も大きくなった新式窯により茶陶、高級食器の量産が可能になりました。
  しかし、志野のように熱効率の悪い大窯で長時間焼かれて出される深みのある鉄絵、釉調は見られなくなります。一般に織部というと銅緑釉を掛けた焼き物と思われていますが、古田織部の指導のもと、この時期、登り窯で焼かれた焼き物を総じて織部焼とよばれます。瀬戸黒の延長線上に織部黒、鼠志野からは、窓絵をあしらった黒織部や青織部、黄瀬戸からは総織部と、当時のさまざまな技術を組み合わせて様式面 上で大きな革新が行われました。他にも、鳴海織部、赤織部、志野織部、美濃伊賀、美濃唐津なども焼かれました。




多治見市観光情報

花火大会情報 : 市政67周年記念事業花火大会
 これは正式名称

2007年迄の花火大会は終わりました、今年はぜひお出かけ下さい。

ご覧の皆様を全員、多治見市内における 花火大会に招待致します。

みなさま、お誘いの上、どうぞ自力おいで下さい!!

7月29日(日) 朝7時スタート 昼の部 打ち上げ30発

見頃は、やはり夜の部19:30頃からかな?


では、またいずれ。




雨天の場合は、慌てて早打ちするか、8月2日(木)に延期らしい

2008年情報発表され次第お知らせします。



最後までお付き合い頂き誠に有難うございます。 「読んでくれんでもヨカッタのにチッチキチー」

情報寄せてもらえたらあり難いです、これマジ! : sponge_tajimi@msn.com へ