新潟から学徒動員
相馬光男さん(新潟市)
県立新潟商業高校(当時は第2工業高校)3年生を中心に、約200人は、新潟中学校、長岡商業学校の生徒とともに、 昭和19年の夏、愛知航空機永徳工場に学徒動員された。 私は、第5工場で、主翼の鋲打ちをし、その後、仕上げ工場(第1工場)で働いた。 昭和20年6月9日、1時間も続く猛爆で工場は消失。 危うく命拾いをした私たちは、6月下旬、約40人が瀬戸へ移った。 この間多くの同級生が病気などで家に帰った。 瀬戸では、道泉小学校が宿舎で、丘陵地に穴を掘り、かまぼこ型の屋根をつけ、名古屋からの工作機械を運び込む仕事だった。 工場は、上部が草木でカモフラージュされ、「覆土〇号」と呼ばれていた。大きさは50メートル、プール2つ分ぐらいのような気もするし、 友達は、3百坪くらいと言う。名鉄瀬戸駅で荷物運びをしていて、艦載機に狙われたこともあった。 教室は、1階端で、名古屋空襲の時はグランドに立って、赤く焼けた名古屋の空を眺めていた。 監督は、沼津海軍工作学校の下士官で、永徳工場のようには怖くなかった。 8月に入ってから仕事も減り、綱紀も緩みがちで、私も、出勤の途中で隊列を離れ、氷水屋で氷削り機を回していて、「玉音放送」もそこで聞いた。