海部郡 後藤松夫さん
今年は、太平洋戦争開戦から60年の節目の年である。そのせいでもあるのか、今夏公開の、アメリカ映画『パール・ハーパー』が話題になっている。
この映画にも出てくるアメリカ陸軍機による、日本本土初空襲は、日本海軍の、思考の盲点を突いた奇襲作戦で、日本側から見れば空襲による損害は、大したことはなかったが、本土が空襲されたことによる軍首脳部のショックが、ミッドウェイ攻略作戦を強行する一因となり結果は虎の子の航空母艦4隻を、搭載機と熟練したその搭乗員もろともうしなって、以後日本は守勢一方に追い込まれ反撃も、ままならず、昭和20年8月15日の終戦をむかえる。この昭和17年4月18日の日本本土初空襲は,アメリカとしては非常に大きな、戦略的効果を挙げたわけだ。
私は名古屋で来襲したB25を目撃したのだが.その時の生活環境が異常であったため今でもよく覚えている。昭和17年4月1日付で愛知時計電機(株)に入社した私は、同時に愛知時計電機青年学校の生徒となり同校の寄宿舎から会社に通勤することになった。しかし2週間ほどして寄宿舎内で法定伝染病のジフテリヤ患者が、発生したため寄宿生は出勤停止、外出禁止で隔離された。毎日舎内でなすこともなく、ぶらぶらしていたが育ち盛りの14.5歳の少年ばかりだから、食欲旺盛で、規定の三食だけでは辛抱できず、こっそり塀を乗り越えて外出し一膳飯屋で腹を満たして帰るものが続出した。そして18日は土曜日でうららかな晴れた日だった、昼食がすんで1時間くらい過ぎたころ砲声のような音がドン、ドンと聞こえてきた、
しばらくして飛行機の爆音も響いてきた。何事だろうと皆が窓をあけて外を見たが何もわからない、演習でもやっているのかなと思って見ていると、やがて北のほうから一機の双発機がこちらへ向かって飛んできたが、機体のマークは、よく見えず識別出来なかった。我々の見ている上空で反転して西方に飛んで行った。これが、B25であると知ったのは戦後になってからで、その時は敵機であることさえも、わからなかった。とにかく敵機の空襲なら警戒警報や空襲警報が出るものと思い込んでいるので、何か見世物でも見るような気持ちでのんびりと見ていた。敵機が去ったあと、北の方で煙があがっているのを見て、本物の空襲だったのかと思ったりもしたが、寄宿合は隔離され、公式には外部との交流は出来ないので、情報はなにも入らなかった。
隔離は10日間ほどで解除になったが職場に出動しても、空襲の話はだれもしなかった。青年学校1年生の私は半日学校で軍事教練や学科の授業を受けあと半日は研究部設計課で製図見習工として働いた。日給80銭で1ケ月手当を含めて24、5円、1日につき、43銭の食費を引かれて、手取は11円余であった。
当時寄宿舎は本社工場のある、船方から北へ約1kmの熱田西町にあり通勤は、徒歩で12、3分で工員適用門から入場したがタイムレコーダーはなくて木の名札を出動の位置に掛け変えて自分の職場へ向かった、就業時間は午前7時から午後5時で、1年生の間は残業はできなかった。
職場は研究部設計課兵艤係と称し海軍用試作飛行機の兵装と艤装の設計をする部署である。総勢20余名で、係長佐久間技師以下職員が6割程であと4割は工員であったが、職員と工員では待遇に大きな差があった。出勤時間は職員は工員より1時間遅い午前8時で給与は月給制、年2回の賞与があった。工員は日給制で賞与はなく、毎月の生産高に応じて日給のなんパーセントかの加給があった。昭和17年前半頃は戦局も比較的好調で、職場でも緊迫感は無かった。愛艤会という親睦会があり毎月20銭ずつの会費を集め春と秋、行楽に出かけた事も、あったが翌年以降は厳しい戦局に比例して職場の雰囲気も厳しくなって会の行事も行われなくなった。翌18年には、愛知航空機鰍ェ設立されて航空機部門は新会社に移行し、9月頃には設計課も新設の永徳工場へ移転する事になった。それまで設計課がはいっていた4階建での研究館は、昭和20年6月のB29による空襲で1トン爆弾が地下室まで貫通し、そこに待避していた全員が犠牲になる悲劇の建物で犠牲者の方には、心からご冥福をお祈りいたします。