愛知航空機動員学徒の手記8

名古屋での学徒動員
                      西村漱子(東京女高師家政科)

 昭和二十年二月、大雪を踏み分けながら、学校の寮から名古屋へと出発した。四月の新学期には帰れるということで、身の廻り最小限のものを持っての動員であった。
熱田に近い稲永新田という埋立地にある宿舎は、やや傾いていて、突っかえ俸がしてあった。到着したその晩、東京では見なかった大空襲であった。B29の大編隊が夜空一面にごうごうと、市内の方へ向かって行く。
彼方のものすごい炎上を反映して、紅く染まりながら行く。この世のものとも思われぬ光景を、防空壕の中から呆然と見上げ、衿元に舞い下りた雪の結晶の一片を、もの悲しくながめ、凍えた。
動員された工場は、宿舎から大分離れていて、毎朝、隊列を組んで出掛けた。支給された戦闘帽に日の丸鉢巻、国民服にゲートルというカーキー色のいでたちで、防空頭巾や非常袋を背負い、冬枯れの川辺の堤の上を、軍歌や国民歌謡を歌いながら、歩調を合せ寒風をついて、兵隊のように行進して行った。
工場では、一、二年の人達は現場で、ドリル打ちなどの作業、三年生の私達は庶務会計などの補助員として働いた。全国的に動員された男女の学徒(主として師範系)や、女子挺身隊の人々であふれているようだったが、愛知航空の方々は温かく迎えて下さった。
 三月十日には、東京大空襲の報があり、私達の寮も全焼し、帰って学業を続ける望みは断たれた。それでも、なお必勝の信念をもって、学徒としての本分を守ろうとした。若く純粋であった。空襲の合間、灯火管制の暗い廊下の片隅で読書する姿も見られた。東京を出る時、持って来た僅かの書物を交換し合って読み、語り合った。友人から借りた本の中で私は、ゲーテの「詩と真実」「イタリア紀行」(岩波文庫・相良守峯訳)にめぐり合った。ゲーテが、その時代や政治の制約を受けながら、個人として、自然や芸術の中に光を求めて分け入り、その遍歴を詩人の言葉で書き残したからこそ、はるか後世の、戦時の暗闇に閉ざされていた一女子学徒の心をも、ひろやかにあたためてくれたものと思う。
 戦局が進むにつれて、空襲は激しくなり、毎晩のようにサイレンが鳴り、…,敵機は志摩半島を北上中…」の警報が発せられる。直ちに壕に避難出来るよう、しまいには着のみ着のまま、ゲートルも巻いたまま就寝した。無事に壕から帰って来ると、今度は蚤との戦いが待っていた。寝床のあたりをさかんに跳び回るのを、皆で大さわぎして退治するのだ。夜が明けると、近くの田んぼに焼夷弾筒がめり込んでいたり、あちこちの被害状況が伝わって来る。
 爆撃の犠牲になった学徒の人達もあったと言う。家からも学校からも離され、若い命を断たれた人達の無念は如何ばかりか。本当に命がけの毎日であった。そのうちに、壕に入るのも間に合わず、畠の畝に突っ伏して、ザーッという投下音を聞いたり、白昼、グラマン機に襲われたりするようになった。ついに、敵の上陸にそなえて竹槍の練習をする事態となったが、一夜の爆盤で工場は焼失し、瀬戸の山中に疎開したが、もはや作業出来る状況ではなく、八月十五日、無条件降伏の訳もわからぬまま解散だった。
戦後、教職にあって、生徒に戦争体験を伝えねばならぬと思いつつも、学徒出陣や、戦没学生の遺書を語ろうとする時、痛恨の涙と声無き働実がこみ止げて、言葉にならない。せめて、若者たちが、二度と集団や組織の狂気に巻き込まれないような、強い個人と成ってゆくのが平和への道と、学校図書館での幅広い読書・自己教育を勧めたこともあった。生き残った者として、死んで行った人達の分まで生命を大切にし、学んでゆきたい。拙い手記ながら記して鎮魂のまことを捧げる。