クオリア


   
学生の頃、自転車によるツーリングで四国の山を登っていると、涼しい匂いを感じ、その後川の水が流れる音が聞こえ、川が見えてきた。以後、川の匂いや音を感じるとそのときの情景が脳裏に浮かんでくる。
  また、以前、自分の指を見ながら「脳が指令して神経が筋に信号を伝え、指を動かすのは分かるが、何故指を動かそうと思った瞬間に、何故この指が動くのだろう。」と不思議に思ったことがある。人体の不思議は数多くあるが、心と脳の関係だけは一番難しいと思う。

  一つ一つの素粒子には心が無い。一つ一つのニューロンにも心は無い。脳の小さな部位を取り出してもそこには心は無い。心を産み出すのは脳全体にまたがって1000億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。喜びも悲しみも希望も絶望も私たちが主観的に体験する事のすべては脳というシステムである。
脳科学は現在、部分的な問題を究明することから心の問題を解明しようとしている。しかし、脳の中の物質的変化のプロセスをどんなに詳細に記述したとしても、それだけでは心の本質には迫れない。
  心と脳の不思議は、不定愁訴(痛みを含めて)、気分障害など心の問題を理解する上で、非常に役立つのではないか。
クオリア
朝の森を歩くと草の緑色、草の上の朝露のつやつやとした感覚、足の裏からしっかりと私を支えてくれる大地の感覚、しっとりと冷たく包む空気の気配、木漏れ日が地面に作るまだらの明るい模様、鳥のさえずり、その中を歩く自身の感覚、これら全てのクオリアが心の中に立ち上がってくる。

クオリアはもともと「質」「状態」を表すラテン語である。クオリアが物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにして生まれるのかという問題は、意識とは何かという問いに答える上での最大の鍵であるといわれている。

脳の中で起こる物理的・化学的過程は全て数量化できる。ニューロンを構成する蛋白質や脂質の運動状態、ニューロンから放出される神経伝達物質の量、その結果としてニューロンが1秒間に活動する回数。これらの過程は、それぞれ数や量をとおして定量的に記述することが出来る。しかし、脳のニューロン活動は単なる物理的過程ではない。ニューロン活動は私たちの心を生み出す。主観的体験を生み出す。そして主観的体験は様々なクオリアに満ちている。

例えば、色の知覚が波長という数量化できる光の性質と関係していることを知っている。しかし、色のクオリア(質感)自体は数量化できない。虹の中には色が波長の順番に並んでいる。虹を見るとき、隣り合う色同士はなんとなく似通っているような気がするが、それぞれの色自体はユニークな質感として心の中に感じられ、数量化することは意味がないようにさえ思われる。

私たちの心の中には、ほとんど構造化が不可能に思われるユニークな質感の世界が広がっている。これら全てのクオリアが、それ自体は物理的現象として数量化可能なニューロン活動によって生み出されている。

心と脳の
相対論


脳の中の140億個のニューロンの活動のうち、その一部だけが、私たちの意識に上る。残りは、無意識の活動として、意識の活動を支えている。
 意識と、無意識の間には、どのような関係があるのだろうか?
 意識される情報処理の方が高等であり、無意識に起こる情報処理は下等であると考えがちであるが、実際にはそう単純ではない。実際、意識されずに起こっている脳の情報処理のプロセスは膨大であり、意識されるプロセスよりも重要な役割を持っている場合もある。
 抽象的な概念を含む、高度に発達した言語は、意識を持つ人間に特有の能力だと考えられる。ところが、言葉の発話のプロセス自体は無意識に起こる。私たちは、「大体このようなことを言おう」ということは意識しているものの、具体的にどのような言葉が出てくるかは、実際に発話してみないとわからない。自分が発した言葉の意外性に、赤面することもある。私たちが意識的にコントロールしているのは、発話のおおよその方向性だけなのである。発話のプロセス自体が無意識に起こるということは、一般に、運動の具体的な遂行のプロセスは、無意識のうちに起こるということと関係している。発話も、口や舌の筋肉を用いた運動に他ならないからである。
 無意識は、私たちの生物としての生存に欠かすことのできない役割を持っている。林の中で蛇を見て驚くという経験を考えよう。大脳皮質の下にある、進化的に古い脳の部位である大脳辺縁系で起こる無意識の情報処理が先に起こり、「何か危険なものがある」と体が凍り付く。その後、やや遅れて、「あれは蛇だ」という大脳皮質で起こる意識的なプロセスが追い付いてくる。大脳辺縁系の情報処理は、粗いが、迅速に起こる。もし、大脳皮質の緻密だが遅い情報処理の結果を待っていたら、危険を避けることができないかもしれない。
 無意識のプロセスは、そのステップの一つ一つをあまりガチガチに意識でコントロールしない方がいいらしい。例えば、スポーツで、一番うまくいくのは、あまり運動の細部を意識せず、無意識に起こる運動プロセスを十分に開放してあげた時である。ヘタに意識すると、ぎこちない運動になってしまう。
  無意識のプロセスを開放するということは、もっとも人間らしい能力の一つである「創造性」と深く関わっている。創造性においても、発話と同様、意識のコントロールは、「だいたいこのようなものを生み出そう」という漠然としたレベルにしか及ばない。その結果、生み出されてくるものが意外で新しいものであるほど、私たちは創造性を十全に発揮したと感じる。このような時には、意識が無意識にいわば圧倒されているのである。
 
文 献 茂木健一郎:心を生み出す脳のシステム、NHKブックス、2001




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