リポート03,アキレスと亀!


 そこには、普段とは違う世界が存在した。
 この世界に色はない。
 周囲は、無音。
 感覚だけが、鋭敏になっていく。
 空気の流れの薄い厚いまでもが、はっきりと感じられる。
 躍動する、自身の筋肉を、一つ一つ、はっきりと感じられる。
 時間の遅延。
 これは、ゾーンとか、ピーク・エクスペリエンスとか、フローとか言われる現象だろうか。日本語で言えば、火事場の馬鹿力。脳のリミッターが何らかの事情(例えば、生命の危機など)で外れ、本来は封印されているはずの、本当の意味での全力が発揮される瞬間。
 犬塚シロは、確かに己の全力でもって疾走していた。
 短距離走。例えば、100メートル走などは、無呼吸運動である。あらかじめ体内に蓄えられた酸素を燃焼させ、疾走する。つまり、蓄えた酸素、それが尽きれば、失速してしまうことになる。しかし、実際は、尽きるなどと言う事はまず無い。尽きてしまえば、命が危険になる。だから、それ以前に、体内の安全装置が働くようになっているのだ。
 が、そのリミッターが外れてしまえば?
 人間の体で、一番酸欠に弱い部位は、脳である。充分な酸素が行き渡らなければ、簡単に脳細胞は死滅する。そして、二度とその死滅した部分が再生する事はない。結果、何らかの脳障害を受けるだろう。
 そして、その場合、酸欠の脳味噌は機能混乱により、幻覚やらを見せる事がある。
 例えば、ゴールの先に光が見えたりするような現象だ。
 神に出会う、そんなこともあるかも知れない。
「おお、神よ」
 何て呟いたりして。
 スプリンター現象。昔、GS美神以前から少年サ●デーを読んでいた者には、こう言えば分かり易いかも知れない。
 しかし、とてもそんな風に安らかな気分にはなれないシロだった。
 シロの目指すゴール。
 そこは、光に溢れてもいなければ、神様が見えたりもしない。
 代わりに、いたのは一匹の亀。
 シロは、その亀を、全力疾走で追いかけていたのだ。
(一体、これは何でござるか?)
 全力疾走。しかし、自分が無理をしているという感覚はない。
 だいたい、酸素を消費し尽くすほどの距離を走っているわけではない。
 亀に追いつく程度、人狼族であり、人を凌ぐ瞬発力その他を持つシロには、容易なはずだった。
 実際、かけだして数歩で、後もう少しで、手を伸ばせば亀の背中に届く、そんな距離まで接近していた。
 しかし──
 しかし、そこから先、シロにとっては悪夢のような展開が待っていた。
 後、僅かで届く。
 後、僅かで指先が届く。
 その距離が、一向に縮まらない。
 かと言って、亀の速度が驚異的に上がったというわけではない。
 当初と代わらず、鈍い動き。
 直ぐに追いついても不思議ではない。
 それなのに、何故か追いつけない。
 いつの間にか、時間の流れが遅くなっている。
 手をいくら伸ばそうとも、亀の背中に届かない。
 確かに、彼我の距離は縮まっている。
 そう、縮まっているだけだ。
 どうしても、その距離が、零にはならない。
 追いつけない。
 一体、これはどういう状況なのか。
 解らない。
 まるで、理解できない。
 じりじりと、僅かずつ、亀に近づく。
 しかし、まだ──
 まだ──
 まだ──
 まだ……
 眩暈すら感じる状況。
 そんな最中、シロは、自身の瞼が重く感じられた。
 眠い?
 一体、何故、こんな時に眠気を感じるのだろうか。
 理解できない。
 何故、こんなにも圧倒的で、抵抗不可能な眠気を……
 思考を続けることすら困難な眠気を感じ──
 シロは、意識を手放し、眠りに落ちた。


「シロ!」
 いきなり、砂浜にダイブしたシロを見て、横島忠夫は焦りきった声を出した。
 何が生じたのか、こちらも理解できなかった。
「亀を掴まえるくらい、簡単でござるよ」
 自信たっぷりに言って、駆けだしたシロ。
 実際、直ぐに追いつきそうだった。
 しかし、亀に接近するに連れ、目に見えて、シロの動きが落ちた。
 それは、まるでビデオの駒落としを見るかのように。
 必死の形相で追いかけるシロ。
 そして、のたくさと、こちらはさして速度も変わらずに逃げる亀。
 その追いかけっこは、シロが倒れることによって、決着が付いた。
 横島は、慌て、シロに駆け寄ると、その体を助け起こした。
 そして、絶句する。
「むにゃむにゃ、先生、駄目でござるよ。拙者はまだ……」
 シロは、熟睡していた。どんな夢を見ているのか、にへらっと、しまりのない笑いを顔に浮かべて、幸せそうに。
「……」
 横島は、助けを求めるように、美神令子の方を見る。
 その視線を受けた令子は、もったいぶった口調で告げた。
「解った? これが、アキレスの亀よ」
 と。


 今回の、美神除霊事務所へ来た依頼は、海水浴場に出没する「アキレスの亀」と呼ばれるモンスターの捕獲である。
 このアキレスの亀、別段、危険な存在ではない。死者負傷者が続出、そんな危険は皆無。
 だが、モンスターがでる海水浴場、それは、客寄せにはならない。逆に、敬遠されることになるだろう。実際、この海水浴場は閑古鳥が鳴いていた。何で水着のねーちゃんがいないんや〜!、と、横島は絶叫したモノである。せめてもと、美神らに水着になることを要求した横島だが、すげなく断られている。
 それは兎も角──と言うわけで、地元の人間達の依頼で、美神達が除霊することになったわけだが──
「で、アキレスの亀って、一体何物ですか?」
 どうやらシロは寝ているだけで、命に別状はない。それに気が付いた横島は、シロを近くのビーチパラソルの下に寝かせると、令子に尋ねた。
 礼子はこの質問に、顔を顰めた。
「何度も繰り返して言いたくはないけど、横島君、あんた、もう少し勉強しなさい」
 ここの所、何度も繰り返している説教だ。
 横島忠夫はゴーストスイーパーとして、霊力の強さは申し分ないが、知識の点では全く話にならない。殆ど何も知らないと言っても良いほどに、無知だ。──もっとも、その為の専門教育を受けていない高校生だから、仕方のない部分もあるのだが。
「そんなことじゃあ、いつまで経っても一人前と認めることは出来ないわよ」
 GSは、試験に合格することによって、公式にその資格が与えられる。──が、それは取りあえず仮のモノ。独立して開業するには、師匠のGSに、「こいつは一人前です」と言うお墨付きを貰う必要がある。横島の場合、実際は兎も角、書類上、師匠は令子になる。令子が認めない限り、横島は半人前の見習いでしかない。
 ……もっとも、令子が、途轍もなく安価で、これだけ使い倒すことの出来るアシスタントを、例え能力充分でも、易々と一人前と認めて独立させるとも思えないのだが。
「……まあ、それは兎も角、アキレスの亀というのは?」
 その辺りの事情を理解しているのかいないのか、横島は気楽な調子で質問を繰り返す。
 令子は、ため息を零し、説明を始めた。
「アキレスの亀というのは、数学的欺瞞世界を自分の周囲に発生させることの出来るモンスターよ」
「……すうがくてきぎまんせかい?」
 古の妖怪で、まともな教育を受けていないタマモが、理解不可能とひらがなで発音し、助けを求めるように、横島の方を見た。
 これは、きっぱり人選を間違えていた。
 横島も、タマモの横で、途方に暮れた表情を浮かべている。
 タマモは、まだしもましなはずの、オキヌの方に視線を移した。
 こちらも、同様だった。
 三人の様子を見て、令子はもう一度、ため息を零した。
「まあ、平たく言ってしまえば、出鱈目を現実にしてしまう、かしらね?」
「はあ?」
 と、やはり三人とも、訳が分からないと首を傾げた。
「良いこと」
 令子は、その反応は予想していたらしい。指を一本立てて、説明を始める。
「例えばよ。横島君が、100メートル先の亀を掴まえようとする。ここまでは、いい?」
「何とか」
 非常に頼りない返答だが、令子は構わず先を進めた。
「で、横島君は、計算を楽にするために、100mを10秒で走れると仮定する。つまりは、10m/秒なわけね」
 その早さで走れればオリンピック級であるから、令子の言葉通り、便宜上の数字だ。だが、横島は煩悩次第ではそれ以上の速さ──小竜姫の超加速に追いついたりしかねないから、油断できないが。
「一方、亀の方も逃げる。こちらは、10秒で1メートル進むとします。──つまりは、横島君が100メートル走る間に、亀は1メートル先に進んでいるわけ。ここまでは、大丈夫よね?」
「何とか」
 少々頼りないが、多分解っているのだろうと、思うことにした。
「つまり、まだ、横島君は亀に追いついていない。だから、更に1メートルだけ先に進んで、亀に追いつこうとする。でも、亀はその間に、1センチ進んでいる。──つまり、まだ追いつかない。だから、横島君は、更に1センチ前に進む。でも、その間に亀は0,1ミリ進んでいる。だから、まだ追いつかない。更に、横島君は0,1ミリ進む。すると、亀は0,001ミリ進んでいる。ほんの僅かな距離だけど、やっぱり、まだ、追いついてはいない。更に横島君が進む。でも、僅かとは言え、亀は前に進み、追いつくことが出来ない。更に、更に──とどれだけ繰り返しても、亀は横島君のほんの僅か、先を行く。その差は縮まる、限りなく彼我の距離は零に近づくけど、いつまで経っても、追いつくことは出来ない。厳密な距離は、零にならない。──つまりは、横島君は、亀に追いつくことは不可能である」
「……」
 三人は、令子の前で、首を傾げていた。
 何かが違うような気がする。だけど、その間違いを、上手く説明できない。
 そんな顔である。
「解った?」
「解ったような、解らないような……」
 うんうん唸りながら、横島が応じる。
「で、でも、普通、亀を掴まえることは出来ますよね?」
 オキヌも首を捻りながら、質問してくる。
「そうよ。普通、亀を掴まえること、亀に追いつくなんて、容易いこと。追いつけないなんて事、あるはず無いわ」
「で、でも……今の話を聞くと、追いつけないような気も……」
「だから、それが、数学的な欺瞞なのよ。──で、その数学的な欺瞞を、現実世界に持ち込んで、決して自分に追いつかせないフィールドを発生させてしまうのが、この、アキレスの亀、なのよ」
 結論、と言うふうに、令子が告げた。
「……で、シロは追いつくことが出来なかった、と言うことですか?」
 横島が、未だ首を捻りながら、尋ねてくる。
 タマモの方は、もっと訳が分かっていないのか、頭を抱えてしゃがみ込んでいる。
 古の日本では、アラビア数字などは存在しない。つまりは、四千三百二十一とか言う具合に、漢数字で計算をする必要があった。これは、非常な手間だろう。だから、昔の日本の数学レベルは、世界的に見て低い──かというと、間違いで、実際は、非常に高いレベルにあったりした。ただし、それは江戸時代以降のこと。回答の付いていない数学の問題集が、ちまたに出回ったりしたおかげである。もっとも、江戸幕府が数学を重要視しなかったため(天文学のための計算以外は殆ど無視)、そのレベルの高さは、殆ど世の中に生かされなかったのだが(難しい数式を解いても、神棚に飾るくらいしか使い道がなかったらしい)。それは兎も角、残念なことに、タマモの前世の頃には、流石にそう言うわけには行かない。
「そう言うこと」
 令子は、横島とタマモは解ってないな、そんなことを考えながら、それ以上の説明はめんどくさいので省略して、答えた。
「でも、何でまた、シロちゃんは眠ってしまったんですか?」
 オキヌが、不思議そうに尋ねる。
 追いつけない理由は解った。解ったような気もする。取りあえず、解ったことにする。しかし、それでは、眠ってしまった理由は解らない。いくら、海でござる〜と夕べはしゃいで寝不足だったかも知れないシロとは言え、全力失踪中に眠ってしまうのは、異常なことだ。下手をしたら、いつかのモンスター、ナイトメアの様に、眠っているだけ、とは言え、油断のならない状況かも知れない。
「何言っているのよ」
 それに対して、令子は呆れたようにして、当たり前の、この世の心理を告げるみたいにして答えた。
「亀と追いかけっこをしたら、眠ってしまうのはウサギの事例を見るまでもなく、当たり前のことでしょ?」
 もしもし亀よ〜亀さんよ〜♪、と、令子は歌って見せた。
「……」
 なんだか、非道く納得のいかないオキヌだったが、逆らうのはやめておいた。


「つまり、この亀は絶対に掴まえられない、と言うことですか?」
 見れば、亀は横島の方を見て、へっと言う顔で、馬鹿にしたような笑いを向けてきていた。
 くそ〜っと、思うが、追い掛けて掴まえられないのであれば、どうしようもないのではないか、と横島は、令子に問う。
 それに対して、令子は首を振った。
「プロのゴーストスイーパーを舐めるんじゃないわよ」
 自信たっぷりに告げる。
「と言うことは、掴まえることが出来るんですか?」
「当たり前でしょ!」
 と、私を誰だと思うの? 美神令子よ!、と、令子は胸を張って見せた。
 その胸に横島がさりげなく手を伸ばし──砂浜に大輪の、真っ赤な花を咲かせた。
「油断も隙もない!」
「だって、胸を突き出すから、俺に触って欲しいのかと……」
「誰が思うか!」
 と、もう一撃。
 横島は、もう一回、砂浜に真っ赤な花を咲かせた。
「まあ、それは兎も角、さっさと掴まえましょう」
 令子は気持ちを切り替えると、まじめな顔になる。
「横島君?」
「何ですか?」
 相も変わらぬ人間離れした回復能力で、早くも立ち上がった横島が問う。
「あなた、あの亀を追い掛けて頂戴」
「──って、掴まえられないんじゃあ?」
「掴まえるための、準備の一つなの。あんたは文句を言わずに追い掛けなさい!」
 逆らっても無駄だと解っている。それに、今回は危険はなさそうである。話を聞けば、眠ってしまうだけ。転んでも、砂浜。大した怪我はしそうにない。
 横島は心を決めると、その場で伸脚、体をほぐすと、亀を目指して走り始めた。
 亀は、駆け出した横島を見て、馬鹿にするように笑うと、逃げ始めた。非常に、のたくさした、亀らしいペースで。
 普通であれば、すぐに追いつく。
 そのはずが、シロの時と同様、目に見えて、横島の走る速度が落ちた。
 横島が、全力で走っていることは、間違いない。
 しかし、傍目には、非常にのったりした速度にみえた。
 亀もまた、のったりとした速度で逃げる。
 両者の距離は、少しずつ縮まっている。しかし、零にはならない。後少し、後少しで、伸ばした指先が亀に届く。だが、その後少しが、一向に零にならない。
「これが、アキレスの亀の、数学的欺瞞空間よ」
「なんだか、冗談みたいね」
 呆れたように、タマモが首を振る。
「──でも、このままじゃあ、シロちゃんの二の舞じゃ無いんですか?」
 小首を傾げ、おとがいに指先を当てて、オキヌが告げる。
 オキヌの懸念はもっともだろう。このまま行けば、横島もシロ同様、追いつくことなく、眠りについてしまうだろう。どこか胡散臭いが、目の前で実例を見てしまっているから、世の中とはそう言う具合に出来ているらしいとオキヌは諦観していた。
「大丈夫よ」
 令子は応じ、ゆっくりと歩き始めた。
 大きく、横島と亀を迂回して、亀の正面、その進行方向に移動する。
 そして、そこからやけにあっさりと亀に近づくと、これまたあっさりと、亀を掴まえ、持ち上げていた。
 亀がもがくが、それ以上のおかしな能力はないらしい。
 令子は、あっさりと亀を抑えていた。
「つまり、追い掛ければ、数学的欺瞞空間に囚われる。ならば、追い掛けなければいいのよ」
 と、指を立てて、自慢げに告げる令子。
 しかし。
 亀が、令子の手の中で暴れるのを止めた。
 その瞬間、数学的欺瞞空間は消滅した。
 残されたのは、全力疾走をしていた横島。
 それも、亀の方──つまりは、令子の方に向かって。
「美神さん、どいて下さい!」
「え?」
 横島の焦った声に、そちらに視線を向ける令子。
 欺瞞的空間の消失により、横島は、全力疾走の当たり前の速度を取り戻している。そうなってしまえば、どうにも避けようのない距離に、横島はいた。
「きゃあ!」
「むぎゅ!」
 二人は、ぶつかり、こんがらがるようにして、砂浜に転がった。
「……あいたたた」
「ううん、この感触……」
 頭を抑え、身を起こしかけた令子は、自分の上に、重みを感じた。
「え?」
 と閉じていた目を開けて見れば、横島が令子の豊満な胸に顔を埋めて、陶酔しきったように全身を弛緩させている。
「──!!」
「ああ、ええ感触や〜。生きてて良かった」
「死ね!」
 その横島を殴り飛ばす令子。
「ああ〜!」
 と、そこへオキヌの悲鳴。
「な。なによ、オキヌちゃん」
 吃驚して問う令子に、オキヌは何かを指さしながら、叫んだ。
「美神さん、亀が!」
「え?」
 と、亀を掴まえていたはずの手を見れば、そこは空。ぶつかった拍子に、逃がしてしまったらしい。
 見れば、オキヌの指さした先、そこに亀はいた。先刻までの、人を馬鹿に仕切った表情を改め、真剣な顔で、逃げ出している。──やっぱり、亀だけにその速度はのったりしているが。
「──! 掴まえて!」
 折角掴まえたのに、横島の馬鹿のせいで──。
 と、令子は立ち上がり、亀に向かって駆けだした。
 脅威の回復力の横島も立ち直り、令子に続く。更には、オキヌも。
「……あれ?」
 そこで、令子は自分の失敗に気が付いた。
 自分たちは、今何をしている?
 一番やってはいけないことをしているのではないか?
 その通りだった。
「ああ、拙い!」
 叫ぶが、既に時遅く、美神らは、アキレスの亀の数学的欺瞞空間に囚われていた。
 手足がもたつき、全力で走っているのに、先に進まない。
 伸ばした指先は、どうやっても亀に追いつかない。
 もがいている内に、問答無用の眠気が──
 令子、横島、オキヌは、折り重なるようにして、砂浜に倒れ、熟睡してしまった。


「ししし」
 と、日本名ケンケン、アメリカオリジナルではマットレイのように、亀は間抜けな人間をあざ笑った。
 一度、掴まえられたときには焦りもしたが、結局、この間抜けな人間どもは、自分を掴まえることは出来なかった。
 自分は、見事に逃げおおせたのだ。
 振り返り、折り重なるようにして眠る間抜けどもに視線を送る。
 全く、見事な間抜けぶりだ。
 とは言え、そろそろ危険かも知れない。
 この海岸に出没するのは、これで最後にするべきかも──
 等と考えていた亀は、何かの障害物にぶつかってしまった。
 障害物。
 それは、足だった。
 形のいい、長い足が、にゅっとばかりに伸びている。
 見上げるアングル。横島ならば感涙を零しそうな眺め──スカートの中が丸見えだったが、アキレスの亀には、人間に欲情するような趣味はない。だから、そんな眺めは、どうでもいいことだった。
「全く、美神さんも、肝心なところで間抜けね」
 呆れたような少女の声。
 慌て、亀はきびすを返し、逃げだそうとする。逃げ出してしまえば、追い掛けてくる者は決して自分を捕らえることは出来ないのだ。
 ──が、それより一瞬早く、少女の白い手がアキレスの亀をすくい上げるようにして掴まえていた。


 亀を掴まえたのは、タマモである。
 タマモ一人だけ、冷静に、亀の前に回り込んだのだ。
 どのみち、美神の仕事などどうでもいい。そうした冷めた態度のタマモだから、とっさに、焦って追い掛けたりはしなかったのだ。
 タマモは、逃がさないようにしっかりとアキレスの亀を掴まえたまま、途方に暮れたように視線を巡らせた。
 皆、仲良く熟睡している。
「──どうしろって言うのよ」
 その言葉に、誰も答えてくれなかった。
 結局、美神らが目覚めたのは夕暮れになる頃で──美神、横島、オキヌの三人は、非道い日焼けに苦しめられることとなった。

 めでたし、めでたし。

アキレスと亀
確か、筒井康隆の小説に、そんなタイトルがあったと思う。
読んだはずだけど、内容を失念しています。
この話は、岸和田博士の科学的愛情ですね。
数学的欺瞞の話については──いい加減に見ておいて下さい。


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