勇者アリオス・テオマンの逃亡者
第7,1話「こっぱみじんの恋」
アリオス・テオマン。
職業、勇者。
彼は、身に覚えのない犯罪のぬれぎぬを着せられ、
日々、官警の目を逃れる、逃亡者だ。
執拗に彼を追跡する、
魔想志津香、見当かなみ、キサラ・コプリ、
パステル・カラー、ホーネット、マリス・アマリリス、マリア・カスタードの手から逃れ、
彼を陥れた、右手に魔剣を持つ魔王を倒すため、
名前を変え、髪の色を変え、職を変えて、
逃亡と、冒険の日々を続ける。
果たして、彼は、魔王を倒すことが出来るのか?
今日も、彼の逃亡は続く――
「もう、あなたのことを信じることができません。別れましょう」
(ニーナのアリオスへの手紙より抜粋)
「魔王ランス!」
アリオス・テオマンは、乱暴に扉を開けて、魔王ランスの特別室に乗り込んだ。
魔王ランスの特別室。
それは、権力、そして暴力を使って各地より刈り集められた美しい処女達が、魔王ランスの慰み者になる部屋である。
ちなみに、入室のための合い言葉は「らぶらぶ」であり、魔王ランスの言語センスの片鱗が伺えるだろう。
部屋の中には、濃密な女の臭いが満ちあふれていた。
様々な肌色、様々な髪の色の美しい女性達が、一糸纏わぬ生まれたままの格好で中央付近のベッドのそばに集っていた。
嬌声、そして淫靡な微笑を浮かべながら、この部屋の唯一の男にしなだれかかっている。
この部屋唯一の男、ベッドの主は、もちろん、魔王ランスである。
愛欲の化身、大陸最大の甚助である恐怖の助平魔王。
両手に華どころではないその様は、まさしくと言ったところである。
アリオスは、入室して、凍り付いたように動きを止めた。
大陸全般に流布している噂、「史上最悪の変態勇者」の名前に背き、実際は生真面目な男である。
全裸の女性、そうした物に、思わず硬直してしまう。
下半身が……とか言うような、下品な意味ではなくて。
しかし、それ以上に衝撃的な光景が、アリオスを釘付けにした。
ベッドに寝そべる、魔王ランス。
魔王ランスの足の付け根の上に腰を下ろし、なまめかしく腰を振る一人の少女。
理性をとばし、愛欲に溺れた表情を浮かべている。
顔こそアリオスの方に向けられているが、その瞳は、アリオスを捉えていない。
ただ、己の快楽にのみ、その意識は向けられていた。
その少女は……
決して、こんな所にいて良いはずがない、決して、こんな事を許容することが出来ない。
アリオスの良く知る、その少女の名は……
「ニーナ!」
アリオスは、喉も裂けよとばかりに絶叫して、身を起こした。
そして気付く。
「……夢?」
全身に、気持ちの悪い汗をかいている。
想像することすら恐ろしい、夢。
「夢か。……夢に決まっている」
寂しく、呟く。
こんな、最悪の夢を見た理由は分かっている。
つい先日、アリオスに届けられた、一通の手紙のせいだ。
ふるさとよりの、待ちわびた人からの……
「……ニーナ」
それでいて、一番、貰いたくない類の手紙。
別れの手紙。
アリオスは、暗く沈んだ瞳でしばらく自らの手を見つめていた。
自分は、勇者だ。
だから、魔王ランスを倒さねばらならない。
先日まで、絶対の価値を有していたそれが、つまらない物に思えてくる。
自分は、何のために、魔王ランスを倒そうと思ったのだろうか?
人々の幸せのため、悪の化身である魔王を倒す。
勇者の使命であり、その理由は、アリオスの願いに適った。
しかし、現実には……
現実のアリオスの状況は……
「……僕は、いったい何をしているんだ」
人々の幸せ、その中にはもちろん、アリオス自身の小さな幸福も含まれていた。
魔王を倒し、世界を平和に導いた後は故郷に帰り……そして。
しかし、それは、もはや叶わぬ夢となった。
ぼんやりとしていたアリオスは、不意に、自分の状況に疑問を抱く。
自分は、今どこにいるのか?
そうした、基本的な疑問。
そう、基本的な疑問だ。
それに今さら気が付くとは、自分は思っている以上に失調しているらしい。
アリオスは、そう判断して、愕然とする。
全く、本当に、自分は何をやっているのか。
悲しく、自嘲の笑みを浮かべる。
ここは、見知らぬ部屋だ。
壁の様子を見るに、ログハウスなのか。
部屋は、上品で瀟洒に纏められている。
かなりの金銭がつぎ込まれている、しかし、それは決して成金趣味ではない。
その部屋の、白い、清潔なシーツの敷かれたベッドに、アリオスは身を起こしている。
魔王ランスの奸計に乗せられ、人生裏街道まっしぐら状態のアリオスである。
最近は、裏通りの怪しくて汚くて安い宿ばかりを利用していたため、こうした清潔なシーツには縁遠い。
いや、基本は野宿ばかり、ベッドで眠れることの方が、珍しかった。
「良かった、気が付きましたか」
アリオスが、前後の記憶を思い出す前に、扉が開いた。
思わず、反射的に自分の剣を探してしまうあたり、最近のアリオスの状況が良く分かる。
部屋に入ってきたのは、一人の美しい少女だった。
空色の髪の毛をポニーテイルにしている。
髪と同じ色の、空色のドレスが、よく似合っている。
美しさで人々を欺いている魔王ランスの魔人達を凌ぐとも劣らない、美少女である。
いや、ランスの魔人と比べること自体、間違っている。
あんな淫婦、毒婦達には、この少女の持つ清らかさは欠片もない。
そう、アリオスは判断する。
ちょっと、いや、かなり私情混じりの判断だが。
瑕疵も遺漏もない、そんな風情の美少女と見えた。
しかし、そうではなかった。
少女のドレスの右袖は、力無く垂れ下がっている。
どのような事情なのか、少女は隻腕だった。
もっとも、この少女の美しさを損ねることにはならず、かえって庇護欲をかき立てる要素となる。
少女は残された左手に洗面器を持っていた。
よく見れば、身を起こしたアリオスの足の上に、濡れタオルが落ちている。
アリオスの頭に乗せられていた物が、激しく起きあがったために落ちた、そんなところのようだ。
この少女は、アリオスの看病をしていてくれたらしい。
そう、結論する。
敵ではない。
しかし、容易に敵に回る可能性がある。
例えば、名乗った瞬間に。
最近の自分の立場を良く理解している、理解させられているアリオスである。
「あなたは……?」
「無理をしないでください」
ベッドからおりようとしたアリオスを、少女が慌てたように止める。
意外に、ハスキーボイスだ。
「事情は分かりませんが、もう少し、休んでいてください」
「しかし……」
「あなたは、疲れているんです」
少女は断言し、それは事実だった。
勇者専用アイテム、世界樹の歯の働きで、殆ど不死身に近いアリオスである。
しかし、精神の方はそうではない。
ここのところの逃亡生活は、アリオスの神経を削っていた。
竜角惨などの気力アップアイテムを使用しても、原因をのぞけない以上、一時凌ぎにしかならないのだ。
結局、アリオスは少女にあがらう事ができず、ベッドに身を横たえた。
「ここ二日、あなたは寝込んでいました。その間中、魘されていましたし、もう少し、休んでください」
「二日?」
驚く。
二日、二日。
二日前に、何があったのか?
「僕は、どうしてここに? いえ、それ以前に、ここはどこなのですか?」
「ここは、天蓋の山脈です」
リーザスとヘルマンを隔てる、巨大な山脈。
それが、天蓋の山脈である。
「天蓋の山脈?」
そんな場所に、用はなかったはずである。
アリオスの用事は、魔王ランスに収束しており、魔王ランスは基本的に女性のいない場所には興味がない。
ダンジョンに潜るのも、そこに女の子モンスターがいるからだと、アリオスは確信している。
つまり、こんな人気のない所に魔王ランスがいるとも思えず、同時にアリオスにも用がない場所だ。
「あなたは、空から降ってきたのです」
アリオスは、何をしても経験値になる、専用アイテムの存在など、様々な、常人にはない能力を持つ勇者である。
しかし、空を飛ぶという能力は持ち合わせていない。
「空から……」
首を傾げてつぶやき、その直後、アリオスは全てを思い出した。
あの日、ニーナの手紙にショックを受けたアリオスは、これも全て魔王ランスのせいだとばかりに何度目かの勝負を挑もうとした。
正面から行けば、またいつもと同じように魔人に邪魔されるだろう。
それは、避けたい。
そう考えたアリオスにタイミングを併せるかのように、魔王ランスは「チューリップ研究所の打ち上げ花火」とやらで、配下の魔人マリア・カスタードただ一人を伴って、どこかへ出かけるらしいとの情報が入ってきた。
これは、チャンスだった。
マリア・カスタードは魔人とは言え、基本的に技術者であり、個人の戦闘能力は高いとは言えない。
望みに望んだ、魔王ランスとの一騎打ちに近い状況が、目の前にあった。
そう考えたアリオスの行動は早かった。
即座に、チューリップ研究所に潜入、チューリップ100号製造工場内にまでたどり着く。
チューリップ研究所、そこは……地獄だった。
たくさんの人間が、まるで何かにせき立てられるように仕事をする、強制収容所。
栄養状態が悪いのか、一様に頬はこけ、睡眠不足なのか、目の下には隈を作り。
時々、薬液を摂取して、無理矢理に気力を振り絞る。
鞭を持った看守こそいない。
逃亡させまいとする足枷はない。
だが、おそらく洗脳でもされているのだろう、皆、ゾンビのように虚ろな表情、どこかへイってしまったような危ない瞳で、仕事をしていた。
「納期が、納期が……」
「打ち上げ期日まで、後……」
「へへへへ……眠くな〜い、眠くな〜い」
魘されているかのような寒々とした虚ろなつぶやきは、今もアリオスの耳に残っている。
その様に心を痛めたアリオスである。
しかし、今は、彼らを助ける余裕はない、とばかりに、当初の目的に向けて行動した。
魔王ランスを倒す。
それこそが急務であり、一番の冴えたやり方である。
魔王ランスを倒しさえすれば、彼らも解放される。
逆に、彼らを、真に救おうと思えば、魔王ランスを倒すしかないのだ。
ここで、先に彼らを助けることを優先したとしても、それは一時凌ぎにしかならない。
根本の原因の排除──魔王ランスを倒す、それがなされない限り、こうした凄惨な状況は、何度でも繰り返されるだろう。
どうにかして、チューリップ100号に隠れ、ランスが出発するのを待つ。
そうして、邪魔の入らない所で一騎打ちを……
アリオスは、手頃な隠れ場所を探すため、チューリップ100号にとりつく。
そこまでは容易だった。
何しろ、研究所にいた者達は一様に、自らの仕事のみに集中していた。
他のことは、目に入らない。
そこまで、追いつめられていた。
よそ者のアリオスがうろついていても、認識しないのか、できないのか、まるで注意を払わなかったのだから。
アリオスはチューリップ100号に易々とたどり着き、しかし、よじ登っている最中に、おそらくはトラップに引っかかったのだろう。
凍り付かされてしまった。
そして、目覚め。
凄まじい震動と加圧。
アリオスは、チューリップ100号と共に、空中にいた。
これは、最初から綿密に計算された罠だ。
アリオスは、そこで思い至る。
おそらく、これもあの毒婦マリスお得意の情報操作による物だろう。
アリオスを、どこかの放逐するために、綿密に計算された罠だったのだ。
絶体絶命の危地。
アリオスは、慌てて行動を開始した。
魔王の思うようにはいかせない。
その思いが、アリオスの行動を支えた。
そして……チューリップ100号を破壊したところまでは覚えている。
しかし、そこで爆発に飲み込まれたアリオスは、意識を失った。
そして、今……
「……大丈夫ですか?」
心配そうに、少女が尋ねてくる。
「……ええ」
アリオスは、頷いた。
「何故、そうなったのか、思い出しました」
「そうですか」
少女の声には、興味があった。
当然だろう。
人が、空から振ってくる。
そんな状況は、滅多にあるものではない。
理由を知りたいと思うのも当然である。
しかし──
「済みません、助けて貰って、こんな事を言うのは心苦しいのですが、細かな理由は、説明できません。……ただ、正義のため、大陸の平和のために行動していた、これだけは、確かです」
「そうですか……」
少女の声が、僅かに曇ったようだ。
心苦しさを感じる。
せっかく、助けて貰ったというのに。
しかし、真実を告げれば、少女がどういう態度に出るか。
魔王ランスの──その配下の毒婦マリスによる情報操作の確かさを、身をもって味わい尽くしているアリオスである。
容易に想像できる。
一時的に、少女を欺くことになるかも知れない。
しかし、最終的には、そう、魔王ランスを倒した暁には、アリオスの行動の真意を悟って貰えるはず。
そう考え、自己欺瞞を完結させるアリオスである。
「とにかく、助けていただいて、ありがとうございました」
アリオスは、再び、体を起こす。
そう、自分には、一刻の猶予もない。
ランス王の処女狩りは、日常的に繰り返されている。
おそらくは、今、この瞬間にも。
あの夢──悪夢を、正夢としないためには、休んでいる暇はない。
「僕の装備は、どこにありますか? 僕は、すぐに旅立たなければいけない」
「まだ、無理です!」
少女が慌てて、アリオスを押さえる。
抵抗しようとするアリオス、その鼻孔を、少女の良い香りがくすぐる。
そのせいというわけでもないが、アリオスは少女に押し切られて、ベッドに倒れる。
助平心を出した、と言うわけではなく、実際、かなり弱っていることを実感した。
そうでなければ、隻腕で細身の少女に押しきられるとも思えないから。
「どんな、目的があるのか、秘密というのであれば、尋ねません。ですから、もう少し休んでください」
「しかし、厚意に甘えるわけには……」
「ここは、節を曲げて、甘えてください。今のままでは、街にたどり着くことすら難しいですよ」
「……」
確かに、そうかも知れない。
自分の疲労の深さ、それを自覚する。
しかし……
「どんな目的があるにしろ、体力、気力が回復しないまま焦って行動するのでは、叶えることはできませんよ。ここは、休む。それから、目的に向けて動き出せばいいのです」
「しかし……」
まだ、煮え切らないアリオスである。
そのアリオスに、呆れたようなため息を一つ。
少女は、腰に片手を当てて、アリオスを正面から見た。
本当に、美しい少女だった。
魔王ランスの魔人、あの毒婦たちとは、まるで違う。
どこか、はかなさを感じさせる。
視線を逸らしたとたん、消え失せてしまうのではないかと思えるほどの、脆さ。
守りたい。
素直に、そう思わせる。
現時点で、守られているのは、アリオスの方ではあるが。
それが、この少女の印象だった。
「とにかく、少なくとも、今日一日は、休んでいてください。せっかく助けたのに、すぐに行き倒れされてしまうのでは、私の行動に意味がなかったことになってしまうじゃないですか」
「だが……」
「良いですね! これは、決定です」
少女の決めつけるような言葉に、アリオスは頷いていた。
何のかんの言っても、女性には甘いアリオス、そして、この少女は飛び切りの美少女、その言葉に押し切られてしまうのは、至極当然の流れかも知れない。
アリオスが、ようやく頷いたことに、満足げに少女は頷くと、部屋から出ていこうとする。
「ゆっくり休んでください」
その少女の名前を聞いていないことを、アリオスは思い出した。
「済みません、あなたのお名前は?」
「……名前を聞くときには、自分から名乗ることが礼儀じゃないんですか?」
別段、咎めるという響きはない。
アリオスとの、会話を楽しんでいる雰囲気があった。
「ああ、済みません。僕は──」
詰まる。
これまで、さんざん繰り返されてきた現実が、アリオスの口を凍り付かせる。
「僕の名前は、──ミリオです」
アリオスは、何とか口を動かして、偽名を名乗った。
本名を名乗る。
それに、これほど躊躇いを感じるとは。
とっさに口に出したのは、とある勇者の名前である。
「……ミリオさん、ですか?」
少々、不審な間が空いてしまったせいで、少女が、アリオスを問うような視線で見つめる。
しかし、すぐに瞳から疑惑の色が消え、くすり、と小さく笑う。
「どうも、偽名臭いですね。──でも、私も、人のことを言えないかも知れませんね」
「え?」
「私の名前は、ライン。そう言うことにしておいてください。ミリオさん」
「それは?」
「とにかく、ゆっくりと体を休めてくださいね」
アリオスの疑問に答えず、少女──ラインは、そう言い置いて、部屋から出ていく。
アリオスは、その背中を名残惜しげに見送り、それから、ゆっくりとベッドの上に体を倒す。
日向の臭いのする清潔なベッド。
柔らかく、アリオスの背を受け止めるそれは、即座にアリオスに眠りの世界への扉を開く。
しかし、熟睡する寸前、アリオスは嫌なことを思い出していた。
ミリオ。
それは、ヒロインを寝取られた勇者の名前ではなかったか?
嫌な符合に顔を顰めつつ、それでもアリオスは堪えきれずに、眠りに落ちた。
目覚め。
ベッドでの深い睡眠は、アリオスに体力を取り戻させた。
完璧に、とは行かない。
しかし、ずいぶんと疲労がとれている、そう感じた。
ベッドから降りるアリオス。
窓の外を見ると、夕暮れが近いようである。
そのまま、部屋から出る。
アリオスの眠っていた部屋、そこから推測はしていたが、かなり贅沢な作りの家である。
ログハウス風、であることには違いない。
壁は無骨であるが、装飾品などは品のいい、上質のものが取りそろえられている。
あの少女、ラインはどこかのお嬢様なのだろうか?
物腰、立ち居振る舞いも上品で、その考えを肯定する。
しかし、そうすると疑問が生まれる。
何故、お嬢様がこんな場所に住んでいるのだろうか?
ここは、天蓋の山脈と言った。
旧ヘルマンとリーザスの国境地帯、そうでなくとも、険しい山脈、お嬢様の住む場所には向いていない。
別荘、と言うにも、よりにもよっての場所である。
他に、いくらでも別荘向きの場所があるはずだ。
「……ラインさん」
詮索しても、仕方がない。
アリオスは、そう決める。
ラインが、話したければ話すだろうし、そうでなければ、それで良い。
こちらは、助けて貰った身分である。
根ほり葉ほり探り出そうとするべきではなく、立場でもない。
また、アリオス自身、いろいろと問いつめられては都合の悪い事柄は多い。
「……ラインさん」
声をかけながら、家の中を探す。
しかし、いない。
どこかへ出かけたのだろうか?
そう考えたアリオスの耳に、音が聞こえてきた。
家の外から。
音のしてきた方を探り、窓の外を見る。
居た。
家の裏手に当たるのだろう。
そちらの方で、鉈を片手に薪を割っているラインの姿があった。
お嬢様が、自分で薪割りをするのはおかしい。
どう言うことだろうか?
再び、詮索を初めてしまい、慌てて頭を振るアリオスである。
隻腕のラインである。
しかし、器用に薪を割っていた。
まず、薪に軽く鉈を食い込ませ、薪ごと持ち上げて、台替わりにしている切り株に打ち付けて割る。
その様は、ずいぶん手慣れているように見えた。
わざわざ手を貸すこともない問題無さだ。
しかし、である。
女性に薪割りをやらせて、ただ見ているだけ、そうした自分を許容できるアリオスではない。
基本的に、フェミニストである。
「僕がやりましょう」
家から出たアリオスは、ラインに声をかける。
アリオスに初めて気が付き、僅かに驚きの表情を浮かべるライン。
その顔も、美しいと、アリオスは思った。
「もう、動いても大丈夫なのですか?」
「はい、おかげさまで、ずいぶん回復しました」
アリオスは頷く。
嘘ではない。
ずいぶん、回復しているのは確かだ。
「ですから、せめてものお礼に、それくらいは僕がやります」
「お客さんに任せるわけには……」
「招待されていない客です。それくらいはやらせてください」
アリオスは言って、ラインから鉈を奪う。
その時僅かに手が触れる。
アリオスは、今が夕暮れで良かったと思った。
きっと、顔が赤くなっていたに違いないから。
まるで、小学生か、中学生の反応ではないか。
自嘲しつつ、ラインに代わって、薪を台に乗せる。
自分は、いったいどうしてしまったんだ?
ラインが、アリオスを脇から見つめている。
それを意識すると、それだけで鼓動が高まってしまう。
これでは……
これではまるで……
アリオスは、意識を何とか切り替えるように努力する。
しかし、上手くいかない。
仕方がないので、そのまま薪割りを始める。
ラインのように、一度鉈を食い込ませてからではなく、台に置いた薪に、直接鉈を振り下ろすという、男らしい(アリオスの勝手な思いこみ)でもって。
しかし──こちらも上手くいかない。
緊張して、手足がこわばっている、と言うわけではない。
しかし、上手くいかない。
そのうち、その上手くいかないことが、アリオスから落ち着きを奪い、ますます上手くいかない。
「あれ? なんでだ?」
情けなさに、涙が零れそうになる。
是非とも、良いところを見せたい。
そう思うのに、上手くいかない。
こんなに、情けないところを見せたくはないのに……
「あ!」
アリオスの悪戦苦闘。
それを見ていたラインが、小さく声を出す。
「もう少し待ってください。きっと、これから上手くいくはずです」
アリオスは、慌てて言い訳する。
しかし、やっぱり上手くいかない。
「アレ? 変だな、どうして、上手くいかないんだ?」
「あの〜、それって」
「大丈夫です、次こそは……」
「いえ、そうではなくて……その鉈のせいだと思いますよ」
「道具のせいにするような事は……」
男らしくない。
そう思うアリオスである。
しかし、道具のせいだった。
「あの、それは私用、つまり、左利き用ですから」
ラインの右手はない。
だから、左利き用の鉈である。
それを、右利きのアリオスが振るっているのだから上手くいかないのである。
「あ」
アリオスもそれを理解する。
鉈にしろ、その他、鋏なんかでも、右利き用、左利き用があるのである。
アリオスは、相当に間抜けな顔をしたらしい。
ラインが、微かに笑う。
その笑いに気が付いたアリオスも、なんだか笑ってしまう。
2人の、笑い声が、仲良く唱和した。
ラインの用意した食事を終える。
隻腕でもって、器用にラインは料理を作っている。
味、分量共に、申し分のない物。
いや、自分には勿体ないほどの食事。
アリオスが、そう考えるほどの食事だった。
特に、最近はろくな食事をしていない。
余計に、その感は強まった。
旺盛な食欲を見せ、食事を終えたアリオスは、お風呂にはいる。
全く、至れり尽くせりの状況だった。
たっぷりとしたスペースを持つ、豪華な浴室。
用意されている石鹸なども、高級品、ずいぶん、質のいい物だった。
アリオスは湯船に体を沈め、大きく息を吐く。
一つ、息を吐く毎に、体の芯に澱のように溜まった疲れが、抜け落ちていくよう。
心を、体を縛っていた重苦しい物が、はがれ落ちていくようだった。
「……ラインさんか」
ぼんやりと、呟く。
いい人だった。
外見が美しいだけではない。
その心も美しい。
そう、アリオスは、思う。
「はい? 何か、ご用ですか?」
そこで、あるはずのないと思っていた返事が返ってきて、アリオスは慌てた。
磨りガラスの向こう、脱衣所から、その声は返ってきた。
「ら、ラインさん!」
思わず、湯船の中から立ち上がってしまう。
それから、慌てて両手で押さえると、再び湯船の中に沈む。
磨りガラスである。
脱衣所から見えるわけではない。
しかし、アリオスは赤面してしまう。
「どうか、なさいましたか?」
「いえ、何でもありません!」
慌てて、叫ぶ。
「──?」
戸惑ったような沈黙。
「そ、それより、ラインさんは、そこで何を……」
「私は、ミリオさんの着替えを持ってきたのですが……」
「着替えですか?」
「はい。──昔、ここに一時期住んでいた者の服です。お気に召さないかも知れませんが──」
昔、ここに男が住んでいた。
それは、ラインといっしょに、だろうか。
アリオスは、ちくりと、胸になにやら不明瞭な痛みを感じた。
「いえ、そこまでして貰って、本当に申し訳ありません」
しかし、口にしたのは、恐縮の言葉だった。
「気にしないで下さい。──それでは、ごゆっくり、どうぞ」
脱衣所から、ラインの気配が消える。
アリオスは、鼻のすぐ下まで湯の中に沈め、それを見送る。
気配が消え、少ししてから、顔を湯船からだし、天井を見上げると、アリオスは大きく息を吐いた。
「僕は、何を考えているんだ?」
ラインが、男と一緒に住んでいたことがある?
その言葉は、思っても見なかったほどに、大きくアリオスを捉えていた。
どうでもいいこと。
アリオスが気にするようなことではないし、気にされたらラインに迷惑だろう。
だいたい、あれほど美しく、そして気だての良い女性である。
このログハウスの様子を見れば、同時にラインが裕福な暮らしをしていることもわかる。
嫁に恋人に、と志願者が多出したとしても、不思議はない。
招かれざる客人のアリオスには関係がないし、気にするような問題でもない。
しかし──
非常に、気になってしまう。
その男と、ラインは、果たしてどういう関係だったのか……
「僕は、いったい……」
アリオスは、呟き、頭まで、湯の中に沈んだ。
時は、夢のように過ぎていく。
そう、まさしく、夢のように。
楽しい時間は、そうでない時間比べ、過ぎていく早さが違う。
アリオスは、気が付けば、早、一週間、ラインの厚意に甘え、ログハウスに逗留を続けていた。
ラインは、嫌な顔を一つもせず、アリオスの為に食事を作り、アリオスの服を洗濯し──
家族のように、接してきた。
アリオスの方も、ただ世話になるばかりでは心苦しいと、様々な仕事をこなしてきている。
女性には、そして隻腕では厳しいと思われる仕事を中心にして。
水くみをし、自家菜園を耕し、屋根の修復をする。
心休まる、平和な、平穏な時間。
「ありがとうございます。どうしても、私一人だと、手が回らないことが多かったんです。本当に、助かりました」
ラインの、心からの感謝を向けられ、アリオスは赤面した。
そして、思う。
自分は、それほど、純粋ではない。
それほど、純粋に働いてきたわけではない。
世話になったお礼。
そうではない。
多分に、邪な──ラインに、良いところを見せたい、そうした思いを抱いていた。
「浅ましいことだ」
その日の夜。
アリオスは、自信にあてがわれたベッドの上で、自嘲気味に呟いた。
もはや、時刻は真夜中を過ぎている。
ラインも、眠りについているだろう。
しかし──
「……眠れない」
アリオスは、ベッドの上で、何度目かの寝返りを打った。
清潔なシーツ。
柔らかく背中を受け止めるクッション。
近頃では、否、それ以前から望むことすら贅沢だった、最高の寝具だ。
なのに、眠れない。
枕が変わったから。
そんなことを言うほどの繊細さは、アリオスにはない。
勇者──冒険者。
野宿すら、平然とこなしてきた。
枕など、問題ではない。
最近の疲労は、野宿と言うよりも、多くは精神から来た物である。
兎に角、そんな神経の細さは、アリオスは持ち合わせていない。
そのはずだった。
なのに──
「眠れない」
アリオスは、諦めて、ベッドに身を起こす。
眠れない理由は──
わかっていた。
ライン。
美しい少女。
彼女と、同じ屋根の下で眠っている。
それが、アリオスを落ち着かない気分にさせる。
「全く、僕は──僕には、ニーナが……」
ニーナがいる。
……本当に?
アリオスは、自分に尋ねた。
本当に、自分にはニーナがいると、胸を張れるのか?
あの手紙。
あの手紙から、視線を逸らしているだけではないのか?
既に、ニーナの心は自分から離れている。
なのに、自分だけが、自分だけが、それに気が付かない振りをして、未だ、その関係を修復可能だと、思っている、思い込もうとしているのではないのか?
意地悪な囁きが、聞こえてくる。
目を逸らすな。
お前には、もう、ニーナなんていないんだ。
わかっているんだろう?
「糞!」
アリオスは、舌打ちをする。
それから、ベッドから降りた。
このままでは、本当に眠れそうにない。
夜風に当たり、頭を冷やそう。
そう考え、アリオスは、部屋を出た。
ラインを起こさないように、静かにログハウスの外に出る。
満天の星空。
このあたりになれば、街の明かりはない。
星を見るのに、街灯りは大敵である。
光害、と言う言葉があるほどなのだ。
僻地、天蓋の山脈。
近くに、人工の灯りなど一つも存在しない。
だから、等級の低い星まで、はっきりと見える。
残念なのは、今日は満月で、星を見るにはその月明かりが強すぎることくらいか。
もっとも、月夜、と見るならば、これは最高だろうが。
心地よい風。
火照った体が、冷えていく。
「全く、僕は……」
しかし、頭の中の火照りは消えない。
「長居をしすぎたかも知れない。これ以上は──」
これ以上いれば、立ち去りがたい思いは強まるばかりだろう。
ラインといっしょに、平穏に暮らしたい。
そうした欲求は、ますます、一日毎に高まっている。
ラインも、それを望んでいるのではないか?
都合のいい、思いこみかも知れない。
しかし、アリオスは、それが真実だと信じかけていた。
信じたがっている。
「全く、僕は、何だ?」
僕は、勇者だ。
アリオスは、自分に言い聞かせるように、一人ごちる。
勇者ならば、何をするべきだ?
何をしなければならない?
疑問ですらない。
世界の敵、人類の敵──魔王を倒す。
確定だ。
それこそが、勇者の使命。
勇者の、存在意義。
なのに、今の自分の体たらくはいったい何なのだ?
自嘲の言葉。
それを吐き出しかけて、アリオスは口を閉ざす。
始めて、気が付く。
青い月明かりの下──
一人の美しい少女が──
月を、見上げていた。
ラインだった。
月夜は、女性を5割り増しで美しく見せるという。
そのラインの様は、本当に美しかった。
風に流される髪の毛を、左手で押さえ。
ラインは、静かに月を見上げている。
それは、一枚の名画のように──
アリオスの心に、感銘を与えた。
本当に、美しい。
ラインに降り注ぐ、月明かり。
その月明かりは、アリオスに降り注ぐ物とは、明らかに質が違った。
世界の全てが、ラインの美しさを讃えていた。
ラインの美しさを、高めようとしていた。
綺麗だ。
アリオスは、心の中だけで、呟いた。
目の前に広がる、ラインを中心とした世界。
美しい、一つの、完結した世界。
そこへ、無粋なアリオスの声が混じるなど、冒涜に等しい。
そう、感じた。
自分に許されていること。
それは、ここでこうして、黙ったまま、美しさを讃えつつ、鑑賞すること。
否、それすら、冒涜かも知れない。
しかし、アリオスは、見てしまった。
見てしまった以上、目を逸らすことは、出来なかった。
魅入られた。
世界の美しさに。
その世界の中心に立つ、ラインの美しさに
まさしく、アリオスはそう言う状態だった。
果たして、どれほどの時間がたったのか。
アリオスから、時間の感覚は失せていた。
もしかしたら、数秒の短い時間だったかも知れない。
もしかしたら、数時間の長さだったかも知れない。
ただ、呼吸すら控えるようにして、それを見つめていた。
しかし、永劫に続いて欲しいと思えた時間も、終わりを告げる。
ふと、ラインが顔を、月から下ろす。
そして、アリオスの方に──ログハウスの方に顔を向けたのだ。
幻想の時間は終わる。
「……ミリオさん」
僅かに、驚いた、ラインの声。
いつもの、ラインの声。
いつもの、ラインの表情。
しかし、アリオスは、気が付いてしまった。
ラインの顔、一瞬だけ。
こちらに向けた、その一瞬だけ。
儚いなどと言う言葉を超越するほどの。
深い悲しみの表情に、彩られていたことを。
「何時から、そこに?」
ラインは、静かに尋ねてきた。
「眠れなくて、少し夜風に当たろうと思ったもので……」
僅かにしどろもどろになりつつ、アリオスは応えた。
くすり、とラインが笑う。
飛び切りの、と表現するには、いささか、寂しすぎる笑顔だった。
「私と、同じですね」
ゆっくりと、ラインは、再び月を見上げた。
「こんなに、月の綺麗な夜は、あの人のことを思い出すんです」
あの人。
再び、アリオスの胸が痛む。
「私の人生を変えた人。強くて。綺麗で。優雅で。──私にとって、全てだったあの人を」
「この服の人ですか?」
アリオスは、自らの着ているタートルネックの服を示した。
ここのところ、アリオスを捉えていた疑問。
ラインには、誰か、相手が──好きな人がいるのではないか。
その疑問の答えをライン自らが、話してくれようとしている。
なのに、アリオスに喜びはない。
ただ、胸の奥で、何かが痛んだ。
「違いますよ」
小さく笑いながら、ラインが応えた。
「その服の持ち主は、ただのお客さん。どちらかと言えば、私とあの人の平穏な生活を邪魔した人。──でも、一寸だけ、憧れるかな……」
「憧れる?」
また、胸が痛んだ。
「ええ。男女としての好意という意味ではないです。その人の生き方に。その人の、死に様に」
「死?」
「その人は、好きな人のために戦って、好きな人といっしょに──。殉じたんです。自分の思いに……。私とは、大違い。あの人を失って、それでも、私は生きている。あの人との思い出の場所で、思い出に縋りながら。自ら、死ぬ勇気もなく、かといって、敵を討つ、その力もなく」
ラインは、自らの失われた右腕を、そっと押さえた。
「敵?」
「──リーザス王、ランス」
ラインは、静かにその名を口にした。
アリオスが、ぞっとするような、深甚な憎悪、それが、その口調には込められていた。
「それが、私のあの人を殺し、私の腕を奪った。──なのに、英雄ですか? 私に言わせれば、笑止です。誰も、あの男の本性に気が付いていない。あの男は、あの人を──私のあの人を──」
「……」
アリオスは、空を見上げた。
結局、自分は、勇者の使命を逃れることが出来ないのだ。
それを、知る。
勇者を止めて、平和に暮らしたい。
心から、そう考えた。
考えていた。
しかし、そこで出会ったのは、魔王の名前。
魔王を倒せ。
そう、世界がアリオスに命令している。
アリオスは、目を閉じた。
そして、開く。
迷いは、消えていた。
「ラインさん」
静かに、しかし、力を込めて、アリオスは少女の名を呼んだ。
「一つ、謝罪をさせて下さい」
「謝罪、ですか?」
幾分、戸惑ったかのような、ラインの声。
アリオスは、構わず続けた。
「まずは、助けて貰っておいて、自らの正体を隠していたこと。嘘をついていたこと、それを、謝罪させて下さい」
「別に構いませんよ。私だって、本名を名乗っているわけではありませんから」
「いえ、それでも──」
アリオスは、大きく息を吐いて、心を落ち着ける。
良いのか?
問う、声が聞こえる。
本当に、良いのか?
これまでと、同じ結果を迎えるかも知れないぞ。
いい。
アリオスは、内心の問いに、きっぱりと答えた。
それでも、構わない。
また、傷つくかも知れない。
今度は、これまで以上、飛び切りに。
それこそ、立ち直れないほどに、傷つくかも知れない。
それでも──
それでも、ラインを欺き続けること、その方が、心が痛い。
「僕の、本当の名前は、アリオス・テオマンと言います」
アリオスは、一語一語、聞き間違えようのない明瞭さで、告げていた。
「アリオス──?」
ラインの表情が、僅かに曇る。
「はい、勇者、アリオス・テオマン。それが、僕の正体です」
真っ直ぐに、ラインの瞳を見つめ、アリオスは、宣言する。
「──ですが、誤解しないで下さい。僕は、ちまたで流布されているような、悪質な性犯罪者ではありません。それは、全て、魔王ランスの奸計なのです」
信じて貰えないかも知れない。
否、信じて貰える、そう考える方が、都合の良すぎる想像だろう。
魔王ランス──否、毒婦マリスの情報操作の完璧さは、身に沁みている。
こんな、辺境の地だから情報が伝達されていない、等と考えることもできない。
ラインも、当然、勇者アリオスという名前を彩る数々のねつ造された噂を、知っている。
知っているに違いない。
「僕の使命は、魔王ランスを倒すこと。実際、倒そうと、何度も魔王に勝負を挑みました。──結果は、惜敗。否、言葉を飾るのは止めましょう。惨敗です。惨敗続きです。逆に、魔王ランスの計略に踊らされ、身に覚えのない犯罪を、犯罪歴を付け足される。そんな状況です。──当然、ラインさんも、勇者アリオスが、どんな人間であるか、連日報道されているのをご存じでしょう」
ラインは、頷く。
「魔王ランスを倒すどころか、性犯罪者の烙印を押され、日々、魔王ランスの手の者から、否、どころか、守るべき民衆からも追われ、逃れる日々です。しかし、僕は、決して、報道されているような、悪質な犯罪者ではありません」
信じて欲しい。
それは、都合の良すぎる、思い。
それでも、縋るように、アリオスは口にしていた。
それから、自嘲する。
女々しい奴。
自分を嗤う。
「……信じてくれ。それが、無理な注文であることも承知しています。しかし、僕は、魔王ランスを倒してみせる。勇者として──否、アリオス・テオマン個人としても、魔王を倒す。倒したい。否、倒さなければならない。そう思っています」
「……」
「長いこと、お世話になりました。明日──いえ、今から、僕はここを出ていきます。あなたの好意は、本当に嬉しかった。勇者としての使命を忘れ、このまま、ここで平穏に暮らしていくことが出来たら。──そんなことも考えました。勇者、失格ですね。……でも、何時までも、自分だけの幸せを感じているわけには生きません。魔王ランス、その脅威を取り除かない限り、世界に平和はありません。ラインさん、あなたのように、魔王ランスに不幸にされる人間を、これ以上出す前に、僕は、魔王ランスを倒す。倒さなければならないんです。──性犯罪者が何を言っている。そう思われたかも知れません。しかし、これが、僕の嘘偽りのない本心です」
それでは──
アリオスは、決意を胸に、ラインに背を向ける。
魔王ランスを倒す。
そうだ、倒す。
勇者、アリオスではなく、アリオス・テオマンが、それをしたい。
「……信じます」
小さな声。
しかし、それは、アリオスの背中を、ハンマーで力一杯打ち据える以上の効果を示した。
「──え?」
振り向く、アリオス。
ラインが、真っ直ぐにアリオスの方を見つめていた。
「信じます」
ラインが、繰り返す。
「私は、ミリオさん──いえ、アリオスさんと、短い間とは言え、一緒に暮らしてきました。その人となりを、僅かなりとも、理解できたと、思っています。私の知るアリオスさんは、言われているような、人間ではありません。それを、信じます」
「ラインさん……」
アリオスは、感極まったように、少女の名前を呼んだ。
「……でも何故それを、今さら告白なさったのですか?」
「あなたに、嘘をつくことが心苦しくなりました。嘘をついたまま、あなたの好意に甘えている。その自分が、嫌いになりそうでしたので……」
「何故?」
「……僕は、あなたのことを、好きになってしまったようです」
アリオスは、僅かに躊躇い、しかし、きっぱりと告げた。
これほど、はっきりと他人に対して、好きだと宣言したことはなかった。
ニーナにすら、無いことだった。
あちらは幼なじみ。
口にせずとも、そんな感じて、一緒にいた。
「──え?」
戸惑ったような、ラインの顔。
その顔が、哀しみに歪む。
「でも、私は。私は……」
ラインは、アリオスから、顔を逸らした。
「すみません。ラインさんを苦しめるために、告白したわけではありません。僕の、勝手な思いです。忘れて、下さい」
鉛を呑んだような気分、それでも、アリオスはなるべく軽い口調を心がけながら、告げる。
そう、ラインを苦しめることが、望みではないのだ。
ラインには、笑っていて欲しい。
あの、儚い笑顔。
それは、アリオスの胸の奥に痛みを感じさせる。
心から、そう、心から、笑って欲しい。
その笑顔をみたいと思う。
その笑顔を、アリオスこそが浮かばせて見せたいと思う。
しかし──
アリオスには、それは不可能だろう。
ラインの心は、「あの人」にある。
だが。
だが、その笑顔を取り戻す、助けになることは出来るのではないか?
アリオスに出来ること、それは──
「魔王ランスは、僕が倒します」
それしか、無かった。
アリオスは、ラインに背を向ける。
魔王ランスと血みどろの戦いを、泥沼の戦いを繰り広げる。
それが、アリオスの世界。
そして、今は、それを望んだ。
他に、何も考える余裕のない戦いの世界。
そうすれば、この胸の痛みも……
「……違う。違います!」
ラインが叫ぶ。
アリオスは、背中に衝撃を受けた。
「私は、アリオスさんが思うような者じゃない。私だって、私だって、アリオスさんを欺いている。だって、私は──」
ラインが小走りに、アリオスに駆け寄り、その背中に抱きついたのだ。
嗚咽。
小さく震える、ラインを感じながら、アリオスは、しばらく、そのままの格好で立ちつくしていた。
月が、静かに二人を照らしている。
世界には、二人しかいない。
その世界に、小さく聞こえる、ラインの嗚咽。
しばらく、固まっていたアリオスだが、再起動を果たす。
同時に、ラインの方も、アリオスの背中から離れていた。
振り向いて、ラインと正面から向き合う、アリオス。
「ごめんなさい。私は──」
目を、泣きはらしたライン。
そのラインに皆まで言わせず、アリオスは、自然な動きでその華奢な体を抱き寄せていた。
「──!」
「僕を欺いていた? そんなことは構いません。ラインさんが、僕の事を信じてくれたように、僕も、ラインさんを信じます。ラインさんは、いい人です。それは、間違いない」
「でも!」
まだ、何かを口にしようとするライン。
その唇を、アリオスは塞いだ。
「あなたの、過去を問うつもりはありません。正直、あの人、と言うのには嫉妬もします。だけど、僕は、それら全てを含めて、あなたのことが、好きになったんです」
唇を解放し、真っ直ぐにラインの瞳を見ながら、アリオスは、感で含めるように告げた。
涙に濡れた、ラインの瞳。
それは、アリオスを飲み込むような、深い光を讃えていた。
「僕は、魔王ランスを倒す。倒して見せます。──その暁には……」
アリオスは、一つ唾を呑み、喉を湿らせた。
「その時には、ここに戻ってきても良いですか?」
「え?」
「あなたと、一緒に暮らしたい。──死が、二人を分かつまで」
「……それって」
「プロポーズです」
アリオスは、顔を赤くして、告げた。
「でも、私は──」
「あなたの隠していること。それは、僕にはどうでもいいです。ただ、あなたの気持ちだけを知りたい。──否、今の気持ちじゃなくてもいいです。僕が、魔王ランスを倒して戻ってきたとき。その時でも──」
「……正直、私は、自分の気持ちが分かりません。アリオスさんの、気持ちは嬉しいと素直に思います。──でも、あの人のことも……」
「そうですか」
アリオスは、僅かな落胆、しかし、同時に、僅かな安堵も抱きつつ、頷いた。
少なくとも、決定的に拒否されたわけではない。
この恋が、こっぱみじんになったわけでもない。
今は、それで満足するべきなのだ。
「それでも、一度、ここに戻ってくる。それは、許可していただけますか?」
「……はい」
ラインは、頷いた。
今は、それで充分。
充分だと思った。
「あ、あの、アリオスさん」
一寸、赤面したかのような、ラインの声。
そこで、始めてアリオスは自分が、ラインを抱き寄せたままであることを思い出す。
どころか、更に力を込めてしまっていたことも。
「あ、すみません!」
アリオスも慌て、ラインを解放する。
しかし、お互い焦っていたせいで、勢いが付き過ぎてしまった。
慌てて離れようとするライン。
それを、アリオスは突き飛ばすような格好になってしまった。
「きゃっ!」
小さく、悲鳴を上げて、ラインはその場にしりもちを付いてしまう。
そして、どういう加減なのか、ラインのスカートはすっかりまくれ上がってしまった。
ラインの、両足の付け根を包む小さな、布きれ。
それが、ばっちり外気に、アリオスの視線に晒されてしまう。
「──え?」
悲しい男の性。
見ては行けない。
しかし、見たい。
脳内の天使と悪魔の争い。
結局、若い健康な男子であること──悪魔が勝利し、アリオスの視線は、その布きれに固定される。
そのアリオスの口から、戸惑いの声が零れた。
質の良さそうな、レースをふんだんにあしらった女性用下着。
ラインの清楚な雰囲気に似合った、上品な物。
……そこまではいい。
しかし──
しかし……
その、奇妙な膨らみは──
女性には、決してあり得ない奇妙な膨らみは──
「ラインさん、その、それは……」
呆然と目を見開き、アリオスはそれを指さした。
「え? きゃあ!」
慌てて、女の子女の子した叫びをあげ、ラインは、それを隠す。
その女の子女の子した叫びも、これまでとは、違った印象を、アリオスに与えた。
「あの、それは、いったい……」
「アリオスさんは、私が、何を隠していても、構わないとおっしゃって下さいました」
ラインが、応える。
「え? 否、確かに……」
戸惑いつつ、確かに事実であると頷く。
「これが、私の秘密です。──私の本名は、ラインコックです。ですが、これまで通り、ラインと呼んで下さって、構いません」
ラインコック。
ランスに倒された魔人カミーラの使徒。
外見は、飛び切りの美少女であるが、その性別は……男。
アリオスは、ラインコックという使徒の存在については、知らなかった。
しかし、わかったことがあった。
目の前のこの美しい人が、少女ではないこと。
そして、それは、それだけで充分以上のことだった。
「え? え? ええと」
アリオスは、助けを求めて、周囲を見回した。
何なのだろうか、これは。
ラインさんは、男?
男?
男に、僕はプロポーズをしたのか?
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
アリオスは、大声を上げた。
「そ、そうです。僕は、僕は、魔王ランスを倒しに行かなければ!」
まるきり、棒読みの口調で、アリオスは宣言した。
「それに、考えてみれば、僕にはニーナがいました。──すみません、ラインさん。今のは誤解、錯覚、気の迷いです。さあ、魔王ランス。貴様を倒すぞ!」
叫ぶと、アリオスは、後ろも見ずに、逃げ出した。
「え? 一寸、そんな。私を弄んだんですか?」
背後から、ラインの叫びが聞こえてきた。
しかし、アリオスは振り返らなかった。
翌日から、アリオスはふるさとのニーナに向けて、誤解を解くための手紙を大量に送付することを始めた。
その甲斐あってか、何とか、ニーナの誤解を解くことには成功した。
しかし──
アリオスには、新たに「男相手の結婚詐欺」の罪状が加わった……
……合唱。
第7,1話、終わり
後書き、もしくは言い訳
今さらかもですが、アリオスです。
投稿中、ネタとして考えてはいたものの、完成には至らず、お蔵入りになっていた物。
何となく、続きを書き始め、何とか完成しましたので、掲載します。
他にも、いくつかの途中放棄ネタがありますので、もし完成したら、第8,1話とかして、掲載するかも知れません。
本当は、鬼七さんの所に投稿しようかとも思ったのですが、大々的にアリオスは完結したと、最終話の後書きで書いてしまっているため、一寸、躊躇っています。
正直、どうしようか迷っているため、後で、投稿するかも知れません。
その時は、これはこのHPより抹消します。
まあ、ぬるい目で見守って下さい。
ええと、このお話は、ズバリ、ラブロマンスを書こう。
そうした思いから。
本来、8話の有力候補だったのですが、パブリック──の方が先に完成し、こちらは放棄していました。
7話で、take4の話は、ラブラブに走りがちなSSが多い中で、非常に世俗的でそうした要素に乏しいとの感想を頂きまして、それならば、ラブラブ話を書いてやろうと、思ったのが切欠です。
これは、けなされたのではないのですが、それでも、言われた逆をしようとするひねくれ者が、take4なんです。
で、まあ、始めたわけですけど……
照れるし。
だめ、背中がかゆくなる。
やっぱむいていないと、実感。
お蔵入りになっていたのでした。
今回、改めて続きを書いて──としたわけですが、やっぱり、照れるなあ、と。
おまけに、ううむ、と頭をひねるような展開。
何より、最初、一目でラインの正体が知れ、直後、オチもわかる。
何だよ、これ、と。
まあ、何事も経験と言うことで。
これ以後の、ラブラブ話に、少しでも生かせることが出来れば、と。
ぬるい目で見守って下さると、幸いです。
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