ほとんど人の通わないような山奥にある、一つの小さな村が炎に飲み尽くされようとしていた。
田舎風の古い家が、瞬き一つの間に炎に包まれて崩れ落ちる。
押し寄せてくる火の粉や煙を風で払いながら、少女は自分より幼い一族の者の手を引いて逃げまどう。
周りは焦熱地獄がこの世に顕現したかのような有様。
どこへ逃げるのか?
逃げ場など無い。
炎は、村の全周を囲んでいる。これは間違いなく人為的な火災。そしてこれを起こした者──敵は、自分たちを誰一人として逃がすつもりはない。徹底的に族滅するつもりだと知れる。
また、家が一つ崩れた。
家は少女の進む先を通せんぼするように崩れ、炎の壁を作り、盛大に燃えさかっている。
「──」
少女は足を止め、背後に向き直る。
この道はもう進めない。別の道を──
そう考え、振り向いた先が、さらに崩れた建物で塞がれてしまう。見事に逃げ場を塞がれてしまった。
歯がみする。少女にもう少し力があれば、道を切り開くこともできただろうに。だが、現実少女の力は足りず、それは無い物ねだりにしか過ぎない。現状を改善するに、全く役には立たない。できるのは、おびえる子供を抱きしめるだけ。少女は、酷く無力だった。
「おやおや、年寄り子供ばっかりだと思っていたのに、結構かわいい子もいるじゃないか」
そこへ、この火事場に置いて不似合いとしか思えない、気合いの抜けたのんびりとした声がかけられる。次いで炎を割って、少女の正面に男が現れる。
男の身は、確かに炎になぶられている。しかし、それを全く意に介さず。平然とした顔で、男は炎を乗り越えてくる。
「……神凪の、結城英俊」
「あれ? 僕って有名人?」
男は、うれしそうに笑った。
「……最低のゲス」
少女の吐き捨てるような評価の言葉に、男の顔から笑顔が消える。軽薄そうな表情の下から、本来のモノであろう暗い、歪んだモノが浮かび上がる。少女の言葉、最低のゲス、それを証明するかのような歪んだ表情。
「よくこの状況で、そう言うこと言えるよね。普通、助けてください、とか言うもんじゃないのかな」
それでも、男は表情を薄笑いに戻すと軽口を少女にぶつけてくる。安っぽく激高したりしない。大物ぶって、余裕のあるところを見せつけるつもりなのだろう。
少女は、無言で英俊をにらみ付けていた。
命乞いなど、するつもりはない。したところで、助けてもらえるはずもないと分かっている。命乞いをすれば、楽しそうに自分たちをなぶり殺しにするだろう。しなければ、楽しそうに自分たちをなぶり殺しにするだろう。結果に違いなど無い。ならば、無駄なことをすることはない。
「……」
少女は、つれていた子供をかばうように背後に隠すと、わずかに腰を落として身構える。
それを見て、英俊は楽しそうに目を細める。
「オーケイ、オーケイ、君のやりたいことは、よく分かったよ。でも、知ってる? 僕、そう言う無駄な抵抗をする相手を嬲り殺すのも、結構好きなんだよ?」
結局、どうしたって君たちは僕を喜ばせるんだ。
嗜虐心に充ち満ちた笑みを、少女に向ける。
少女も、そんなことは分かっていた。自分たちが狩られるモノで、相手が狩るモノ。彼我の絶望的な力の差を。
だからと言って、無抵抗でやられるつもりもない。
せめて、一矢でも報いる。
それが、事破れて倒れた宗主達への、そして、この炎の中で死んでいった一族の者達へ、わずかばかりの手向けに──
「いいねえ、いいねえ。その悲壮感に満ちあふれた目。ゾクゾクしちゃうよ。──どうせだから」
獲物を嬲る蛇のように。
英俊は目を細めて笑う。
「もっともっと、絶望して貰おうか」
言葉ともに、炎が踊る。
少女は、束ねてきた力を解き放ち、それを迎え撃つ。
しかし、絶望的なまでに、少女の力は足りなかった。
英俊の振るった炎はあっけなく少女の力を消し飛ばし、炸裂する。
「──」
声にならない悲鳴は、少女の背後で上がった。
炎は少女を焼かず、その体を迂回して背後に抜けていた。そして、少女の後ろにいた、手を握りしめてこれまで共に逃げまどってきた子供の体を捉える。子供の小柄な体は、一瞬で炎に包まれていた。
「──」
少女もまた、悲鳴を上げる。
慌てて振り返った少女の視線の先、子供の体が炎に蹂躙されていく。
「あははははは。最高だよ、その声、その顔、その絶望! 全く、おまえ達みたいな劣弱で、のぞき見しか取り柄のない連中が、精霊王に選ばれた、偉大なる血筋に連なる僕たちに逆らおうなんて思うのが、そもそもの間違いだったんだよ」
狂喜に満ちた声で、英俊が体をのけぞらせるようにして笑う。目の前で、小さな子供が苦痛に満ちた死を迎えようとしているのに、そこに憐憫やらの感情は皆無。ただただ、楽しそうに笑う。
「さらに、さらに、君にはでっかい絶望をプレゼントするよ。手足を焼き払った後、陵辱して、殺して、さらに陵辱してあげよう。喜びなよ。君たちみたいな劣等人種が、偉大なる僕の精を受けることができるなんて、滅多にないサービスだよ」
好き勝手にゲスな事を叫ぶ英俊の声を、少女は聞いていなかった。
すでに事切れているのだろう。
未だ炎をまといつつ、ゆっくりと崩れ落ちる子供の体を。
少女の方に、ほとんど炭化した手を、救いを求めるようにのばした子供の体を。
思わずといった風に抱きしめたのだ。
「待てよ、待てよ!」
わずかに慌てたように、英俊が叫ぶ。
子供の体をまとっていた炎は、一際高く火勢をあげて、少女の体をも包んでいく。
「くそ、これじゃあ、せっかくのお楽しみタイムが台無しじゃないか」
あくまでも勝手な事をつぶやき、罵りながら英俊は少女に興味を失ったように背を向ける。
そこで、足が止まった。
ゆっくりと、信じられないという顔で、英俊は振り返る。
その表情には、これまであった余裕がすっかり消え失せていた。
もどしたその視線の先。
そこには、炎をまとい、しかし、倒れることなく二本の足で立っている少女がいた。
「そう。そう言うことなのね。──でも」
炎に包まれたまま、少女は両の瞳から涙を零し。
「何で、今更!」
少女の絶叫とともに、炎が踊った。
世界最強を自他共に認める炎術士の一族、その宗家である神凪の本宅には、重苦しい雰囲気が満ちあふれていた。
ここのところ珍しくもない出来事であるが、神凪分家の人間がここ一週間の間に3人ばかり、首をはねとばされて殺されるという事件が起きたのだ。
宗主の神凪重吾は難しい顔をし、彼に次ぐ実力と地位を持つ神凪厳馬はむっつりとした表情で、二人は無言で向かい合って座っている。
「……結城の英俊が行方不明になったらしい」
沈黙の後、ぼそりとつぶやいた重吾の言葉に、厳馬はほんのわずかに顔をしかめる。英俊のその人となりが理由でもあったし、行方不明という重吾の言葉の内容にもよる。
「4人目、ですか?」
「……いや」
重吾は、重々しく首を振った。
「英俊の行方不明は、それ以前の話らしい」
「では、なぜ?」
「結城の当主を問いつめたところ、英俊はこのところ、風牙衆の残党狩りをしていたらしい」
「風牙の?」
風牙衆。
かつては、神凪一族の下っ端としてこき使われていた風術士の一族である。しかし、その労働環境に耐えかね、よりにもよって妖魔の力を借りてまで、神凪抹殺を企てた。
その反乱は結局、重吾の娘、綾乃や、厳馬の息子、八神和麻や煉の活躍によって目的を果たすことはならず、兵衛をはじめとする風牙衆の主立ったメンツは抹殺された。
その後、神凪一族の手によって、他の風牙衆の残党もまた、ことごとく殺し尽くされようとしていた。
重吾の表情は冴えない。
神凪の一族の中にあって、彼は、彼だけは、風牙衆の全滅などは望んでいなかった。
妖魔の力を借りたことは、退魔の一族である神凪の宗主である重吾にとっても、決して許容できることではない。それだけで、風巻兵衛が始末されたこと、それは正しいと断言できる。
だが、他の風牙衆の者達。特に力のない女子供まで、族滅することは躊躇われた。実際、重吾は事件後、風牙衆生き残りの身の振り方についても真剣に考えていた。
しかし。
他の者達は──今、重吾の目の前にいる厳馬も含めて、強硬に風牙衆の族滅を主張した。
下僕が、主人に反旗を翻す。そんなことは許されることではない。彼らには、身の程を知らせる為にも、速やかな死を与えるべきだ。
その強硬な主張には、幾分かの恐怖も含まれていた。
これまで、取るに足らないと侮ってきた風牙衆が、妖魔の力を借りたとは言え、神凪の、最強の炎術士の一族の者を、幾人も倒している。
風牙衆の多くの術者は、この反乱によって倒れた。生き残りは、力のない女子供や老人ばかり。しかし、子供はいずれ大人になる。女はいずれ子供を産む。長じた彼らが、再び力を得て、神凪に反旗を翻さないとは限らない。いや、限らないどころか、必ず翻すに決まっている。風牙衆残党、彼らを生かしておくことは、未来に大いなる禍根を残すことになる。
彼らは、自分たちがこれまで、風牙衆をどう扱ってきたか、よく知っている。自分の行動だから当たり前だ。そして、それだからこそ、風牙衆が彼らを許すことがないと理解していた。
自分たちは絶対の優位に立っている。そう思っていたからこそ、これまで風牙衆を生かし、使ってきた。しかし、その前提条件が崩れたとき、彼らにとって、風牙衆は恐怖の対象になった。
そう、今はいい。しかし、将来は分からない。ならば、今のうちに一族ことごとく皆殺しにしておくべきだ。
重吾は神凪宗主である。しかし、長老方、そして分家のことごとくにこのように主張されて、自説を押し通すこともできなかった。重吾は、事件以前から、風牙衆の扱われ方については、問題を感じていた。改めようとも思っていた。今後の彼らの運命についても、同情する。だが、それでもやはり彼は神凪の宗主であり、風牙衆のことは人ごとである。優先順位の高い方には、神凪一族が来るのは当たり前のことだった。
それでも、重吾自身はさして風牙衆族滅に積極的ではなかった。特に自ら行動するわけではなく、煽るわけでもないが、分家の者達の行動を留め立てすることもない。
重吾の黙認を受けて、分家の者はそれぞれが積極的に狩り出しを行ってきていた。その中でも、結城の英俊はもっとも積極的な一人で、最近では警視庁の特殊資料整理室──その実態は日本政府の所有する、公的な唯一の退魔機関──の力を借りて、風牙衆が極秘裏に築いていた隠れ里を見つけ出し、喜々として出かけていったという。
その隠れ里は、英俊の力に依るのだろう。炎に飲まれてこの世から消えた。しかし、英俊の行方もそれと時を同じくして、分からなくなった。
「まだ、風牙衆にそれだけの術者が?」
厳馬の声には、若干の疑問が混じっていた。
風牙衆の力ある術者は件の反乱の際に総動員され、全滅したはずだ。自身の未来をかけた乾坤一擲の行動に、戦力を出し惜しむはずがない。最大戦力をつぎ込んだはずだ。また、そうでなくとも炎術士は風術士よりも強い。──厳馬は炎術至上主義者だが、これは贔屓の引き倒し、身びいきばかりもない。実際、同程度の術者であれば、炎術士の方が風術士よりも強いというのは常識である。結城の英俊は、性格に難点があるとはいえ、その能力は、分家の中でも高い方であったはずだ。──厳馬ら、宗家の者にしてみれば、取るに足らない能力だが。それでも、風牙衆残党の風術士くらいならば十分圧倒できる程度の実力はあったはずなのだ。
「実際にこうなった以上、いると考えるべきだろう」
重吾の言葉に、厳馬も頷く。軽く疑問を口にしたとは言え、結果を見れば、そうとしか考えられない事は、厳馬も理解している。
「それで、どうするおつもりですか?」
厳馬自身に関して言えば、さして問題視していない。分家の者が倒されたと言っても、厳馬ら宗家の人間と分家の者の間には、能力的に隔絶の感がある。来るなら来い。逆に自分を狙ってきてくれた方が、事が速く済むだろう、そんな風にまで考えている。そしてそれは、決して過信ではない。
「事を放っておく訳にはいかん……」
すでに分家の者は戦々恐々として、次々に本家に集ってきている。彼らには、厳馬らほどの実力も自信もない。だから、寄らば大樹の陰的に宗主の元に集まり、宗主らが事を納めてくれるのをじっと待っている。
分家の者のレベルの低下はいかんともしがたい。
頭痛をこらえるような表情で額に手をやった後、重吾は口を開いた。
「我々は隠れている敵を探し出す能力には欠けている」
地水風火、最強の攻撃力を持つ炎術士だが、逆に、それ以外の能力には劣る。逆に、風術士は正面戦力に欠ける分、それ以外の──探知、調査能力に長けている。風術士が本気で身を隠してしまえば、炎術士に見つけ出すことはまず不可能である。
ならば──
「和麻に依頼するしかあるまい」
風術士には風術士を──それも最強の──をぶつけるしかないだろう。
重吾の言葉に、厳馬は。
息子が誇らしいような、炎術士の欠点がおもしろくないような、何とも微妙な表情をつくった。
清陵学園は、神凪宗主の娘にして、時期宗主、神凪綾乃の通う学校である。
その二年B組──綾乃のクラスは、授業の真っ最中だった。清陵は私立の名門なだけに、基本的にまじめな生徒が多く、ほとんどの者は真剣な表情で授業を受けている。教室の中には教師の授業を進める声と、ノートに鉛筆を走らせる音のみが聞こえる、いつもと変わりない授業風景。
その教室の扉がいきなり開かれた。
「失礼します」
と言って入室してきた少女に、自然、一体何事かと言った視線が集まる。
しかし、少女は視線を気にした風でもなく、まっすぐに教卓へと向かう。
授業中である。教卓には授業を進めていた教師がいたが、とまどっている内に少女は教卓にまで達し。教師は、何となく気圧されたように、背後に数歩下がって場所を譲ってしまった。
「すみません」
場所を譲ってくれたことに穏やかな表情でお礼を言うと、少女は生徒達の方に向き直った。
その視線はまっすぐに──
あたし?、と綾乃は首をかしげた。
見覚えのない少女だ。それも、この学校の人間でもない様子。
別段、綾乃は学校の生徒を全員覚えているわけではない。無いがなぜ分かったかと言えば、理由は簡単。少女は清陵の制服ではなく、私服を着ていたからだ。
年の頃は綾乃と同じくらい。容姿はかなり整っている。
驚きに半分支配されつつもクラスメートの男子のざわめきは、好意の成分が大きい。
鴉の濡れ羽色の長い髪の毛。その癖、肌は抜けるように白い。どこかしっとりとした雰囲気の、純和風、とびきりの美少女と言っていいだろう。
「さて」
こほんと少女は一つ咳払いをして、まっすぐに綾乃に視線を向けたまま、その桜色の唇から言葉を紡いだ。
「私は、このたび風牙衆の宗主を継ぎました、風巻五十鈴です」
綾乃は少女の発言に激しく反応して、椅子を蹴倒すようにして立ち上がる。
「綾乃ちゃん、どうしたの?」
親友の篠宮由香里が不思議そうに尋ねてくるが、その声は意識から閉め出し、まっすぐに風巻五十鈴と名乗った少女を、少女だけを見つめる。
「そう」
あくまで朗らかに、優しく五十鈴は微笑み。
「あなたが今考えたとおり、意趣返しに参りました」
瞬間、綾乃の頭の中をかすめた思いは、正気か?、と言うモノだった。
別段、風牙衆の意趣返しを不思議に思ったわけではない。分家の人間を襲った件は、当然綾乃も知っている。知った上で、来るなら来なさい、と思っていた。綾乃もまた、厳馬と同じく神凪宗家の人間である。以前ほど風術士を侮っているわけではないが、それでも、分家の者ならばともかく、自分が負けるはずがないと思っている。
しかし。
こんなところで仕掛けてくるつもりか?
そう考え、即座にその思いを否定する。
綾乃がそう考えるからこそ、ここで仕掛けてきたのだろう。きっと。
果たして自分はここで戦えるか?
自分が炎術士であること。それには、誇りを持っている。選び取った結果ではなく、生まれたときからついてきた力だが、別段否定するつもりはない。炎術士、神凪宗家の娘、炎雷覇の正当継承者、次期神凪宗主──それらすべてが、神凪綾乃を構成する重要なパーツ。自分と分かちがたく結びついたモノ。
しかし。
ちらりと、親友の篠宮由香里、そして久遠七瀬の方に視線が向かう。
しかし炎術士の、炎を自在に操る超常の力は、普通の人間にとっては恐怖の対象となり得ることを、綾乃は経験的に知っている。以前、由香里や七瀬の前で初めて力を使ったときに向けられたあの視線。あの時は、乗り越えた。二人が親友だったこともあるし、認めるのは非常にしゃくだが和麻の助力もあった。
だが、あの時感じた絶望感は忘れがたく覚えている。
そして、ここにいるのはクラスメートとは言え、親友ばかりではない。
逃げるしかないのか?
屈辱とともに綾乃は考えたその瞬間には、その手を封じられていた。
「逃げないでください」
あくまで静かな声とともに、目前の五十鈴の周りに、風の精霊が集まっていくのを感じる。
鈍い炎術士と事あるごとに馬鹿にされるが、それでも目の前の事でもあるし、綾乃にも感じ取ることができた。
速い。
わずかに戦慄を感じる。
元々、風術士の技の発動は速い。それを差し引いても十分に速い。むろん、綾乃の知る最強の風術士である和麻には敵うすべもないが、神凪分家の人間では反応できないだろう。
件の反乱で主力はほとんど倒れた風牙衆に、これだけの使い手が残っていた。その事に驚きも感じる。
必死に自分も炎の精霊をかき集めつつ、いまだ、綾乃にはどこか半信半疑の部分もあった。
本気で、ここで始めるつもりなのか?
始めるつもりだった。
五十鈴は、ためらいなど欠片もなく風を放った。
あたしは馬鹿だ。
綾乃は自分を罵る。
あちらにはこちらの都合など考慮するつもりもなく──いや、考慮するからこそ、ここを戦場にしようと言うのだし、失うモノは、あちらよりもこちらの方が格段に大きい、そこを突いてきているのだ。族滅されようとしている風牙衆。彼女らに残されているモノは、本当に少ないだろう。なりふりかまう気は無く、こちらのイヤなところを躊躇無く突いてきたのだ。
先手を取られ。
それでも、綾乃は向かい来る風の刃を尽く焼き尽くしていた。
単純な戦闘能力では、炎術士は風術士を圧倒する。それを、証明した格好だ。
くっ。
しかし、綾乃は心の内で舌打ちする。
炎は、風に比べて目立ちすぎる。
クラスメート達が、明らかに驚きの表情を綾乃に向けてきているのを見るまでもなく感じる。
ピンポイントで効果を絞っていたらしい風は見えず。彼らには、綾乃の周りにいきなり炎が吹き出たとしか見えなかっただろうから、疑問の視線は綾乃ばかりに向かう。
どちらにしろ、それは後回しにする。
優先順位を間違えるな。
自身を叱咤する。
とにかく、相手が何と言おうとも場所を移す。それから、ぎたぎたにしてやる。
が。
五十鈴は柔らかな笑みを浮かべたまま、再び風の刃を放った。
反射的に自らの周りに炎を顕現させる綾乃だが、今回の風が狙ったのは、綾乃以外の場所だった。
教室の壁、天井、床。風の通り道にいたクラスメートを無視して素通りし、風の刃は、教室を存分にずたずたにした。
今度こそはっきりと綾乃は戦慄する。
崩れる?
風の刃は、壁を柱を天井を床を、きれいに切り裂いて突き抜けている。支えを失った壁が柱が天井が床が、音を立てて崩れ落ちていこうとする。そうなれば、クラスメート達は巻き込まれて──
すっと、静かに五十鈴が手を挙げると、風が舞って崩れようとしていた壁を柱を天井を床を支えて固定した。
信じられない。今回五十鈴の行使した力は、最初の一撃以上のモノ。風の刃の数、威力、そして今また、教室を支える力──そして五十鈴は、その力の行使を、全く問題ないという表情をしている。まだまだ、余裕がたっぷり存在するようだ。もしかしたら、和麻に遜色ない?
「陳腐ですが、逃げれば──と言う奴です」
悪びれた風もなく、五十鈴が綾乃に穏やかな声をかけてくる。
声は穏やかだが、言っていることはえげつない。
「……卑怯者」
思わず罵る綾乃だが、五十鈴は軽く受け流した。
「何とでも、どうぞ。最強の炎術士一族を、その次期宗主を敵に回しているのです。手段を選んでいる余裕はありませんもの」
綾乃が五十鈴をにらみ付け、五十鈴は穏やかな表情のままで綾乃を見つめる。二人の間にはぎすぎすとした雰囲気が満ちあふれ、クラスメート達は気圧されたように黙り込んでいる。それでも、落ち着かないのか、挙動不審に視線を踊らせ、一体何事が生じているのかと、疑問の表情をしている。
その疑問に、五十鈴が答えた。
「ええと、簡単に事情を説明しますと、私の一族、風牙衆というのですが──は、彼女、神凪綾乃さんの一族、神凪一族によって、皆殺しにされようとしているんですよ。それではたまりませんから、私が代表で意趣返しに来た、そう言うわけです。──で、あなた方は彼女に対する牽制に使わせて頂きました。言ってみれば、とばっちりを受けているというわけです。恨むなら、彼女の方をこそ、恨んでください。ま、私を恨んでくれても、全然気にしませんが」
「勝手なことを!」
勝手なことを言う五十鈴に、綾乃が切れて叫んだ。
「もともとは、あんた達の宗主が、妖魔なんかの力を借りたことが悪いんでしょうが!」
「──それで、つい先日に三歳になったばかりの、お隣の健吾君は生きたまま焼き殺された、と?」
あくまで静かに、五十鈴は言った。
思わず、綾乃が気圧される。
元々、綾乃にとって風牙衆のことは終わったことであり、さしたる興味もなかった。だから、気楽に考えていた。分家が騒ぐのもいつものこと。勝手にやればいい、そう思っていた。
だが、族滅とはそう言うモノだ。老若男女関係なく、尽く殺される。しかし、三歳児。改めて言葉にされれば、インパクトは大きい。
そこへ、さらに五十鈴が続ける。
「新婚ほやほやの水瀬さんは、手足を焼かれた後、犯されて、殺されました。私自身も、あなたの一族の結城英俊に、陵辱した後殺してさらに陵辱してやると言われました。──我々は、それをすべて許容しなければならないと?」
「そ、そんなこと……」
基本的に分家の人間にほとんど興味を持っていない綾乃であるが、英俊の噂くらいは多少聞いていた。英俊ならば言いかねない、そう考えたから、自然、言葉が詰まりがちになる。
クラスメート達が戸惑いながらも、綾乃に視線を向けてくるのも非常にいたたまれない。
「さらに言わせて貰えば、先の宗主が、妖魔の力を借りてまで──と追い詰められたのも、あなた達神凪の振る舞いのせいでしょう? 私たち風牙衆も、生きていて、喜怒哀楽を感じる人間なんですよ? 一族の者が日々罵られ、捨て駒、使い捨てにされたり、戯れに暴力を振るわれて壊されたり──禽獣にも劣る扱いを受け続けてきて、何も感じないとでも思っていたんですか?」
五十鈴の言葉は、蕩々と続く。
「確かに、我々風牙衆の先祖は罪を犯しました。とは言え、三百年も前の罪業にいったいいつまで縛られ続けなければならないのですか? 先祖が罪を犯したら、我々は永劫に咎人のままで居続けなければならないのですか?」
「だ、だからって、妖魔の力を借りるのは──」
「それが一族尽く滅ぼされるに足る問題というのですか?」
五十鈴は、綾乃の反論を軽く笑う。
「ならば、神凪一族も、一族尽く滅ぼされるべきでしょう」
「なによ、それはっ!」
神凪は退魔の一族である。それが妖魔の力を借りるはずがない、と叫ぶ綾乃の勢いは、五十鈴の一言、静かに挙げた名前に力無く消え失せる。
「大神操」
「──!」
なぜそれを!、と叫びかけ、寸前で止める。
考えてみれば、風牙衆は元々、情報収集等の分野にこそ長けていたのだ。それを知っていても、不思議ではない。
「彼女のしでかした罪は?」
「操は──彼女は、ミハエルに誑かされて──!」
「ならば、総勢で千に届こうとする人の命を奪っても許されると? これは是非とも、遺族の方の意見を聞いてみたいところですね。幸い、この学校の生徒にも、生徒の兄弟にも被害者がいますし」
あくまで穏やかな表情で。
しかし確実に、五十鈴は綾乃を追い詰めていた。
「そんな……だって、それは……」
「あるいは、自己満足の為に出家してみせたから、すべて許されたと? だったら、私の方も明日にでも出家して見せますが。それで、神凪による風牙衆の族滅は止めて頂けるのですか?」
そんなはずがあるわけがないと承知で、五十鈴は問うてくる。
風牙衆は、神凪一族に恐怖を感じさせた。だから、分家の者は彼女が何をしようとも、主張を変えるつもりはないだろう。風牙衆が生きていては、彼らは安心できないのだ。宗主重吾に、綾乃に、厳馬に、風牙衆の生き残りの皆殺しを求めるだろう。
「──まあ、確かに」
五十鈴は、薄く笑う。
「あなた自身にしたところで、罪のない人間を何人も殺しているんですものね。例えば──この間の、新宿のレストラン。上二階をきれいに吹き飛ばして。何人、死んだんですかね。神凪に関係ない人間が何人死のうが、そんなことは、きっと気にする必要もない事なんでしょうね」
「あ、あれは、ハンバーグ屋が」
「すべて、マクドナルド家の令嬢のせいにしますか?」
尽く、綾乃の反論は潰されていく。
「でもさ〜」
そこで、思わぬところから反論が出た。由香里だ。
「あなたも、私たちのことを人質にしている時点で、偉そうなことは言えないんじゃ?」
綾乃は、萎えかけた心を叱咤して、意識を集中させる。
五十鈴が、よけいなことを口にした由香里を攻撃したら守らなければならない。それだけは、譲れない。
しかし、五十鈴は全然気にした風でもなかった。
「別に、あいてが罪を犯していれば、自分の罪がなかったことになる、なんて思っていませんよ」
あくまでにこやかに、五十鈴は由香里に答えていた。
「それに、あなた達には申し訳ないですけど、私は、あなた達の事なんてこれっぽっちも気にしていませんから。必要があれば、殺すし、そうでなければそれなりに。その程度です。あなた方が神凪綾乃さんのクラスメートでなかったならば、一生関わりを持つこともなかったでしょう。──ああ、そこの、確か久遠七瀬さん。やめておいた方が良いですよ。私、これでも、ずいぶん前から風術士やってますからね。素人の内海みたいに簡単につけ込まれたりはしませんから。──ほら、綾乃さんからも言ってあげた方がよくないですか? 私は、必要とあれば、彼女の首をはねるのに躊躇なんてしませんよ」
「七瀬、止めて」
「それが幸いです。──で、篠宮由香里さんに対する回答の最大のモノ。それはですね。私は、風牙衆は悪役ですから。何しろ、神凪の浄化の炎に対して、我々、風牙衆の使う風は穢土の風。穢れた土の風ですよ。もう、見事なまでに悪役。悪役なんです。ね。悪役が悪い事するのは当たり前のことでしょう? いちいち、気にしてられませんよ」
にっこりと、魅力的とすら言える笑顔で、五十鈴は告げる。
「で、正義の味方の神凪さんは、関係のない人間を巻き込んだことについて、どうお考えですか?」
「……」
「沈黙ですか? まあ、良いです。私も言いたいことを言わせて貰って、幾分すっきりしましたから。そろそろ、終わりにしましょうか」
五十鈴は、静かに右手を挙げた。
集まって来る風の精霊。
「まあ、べたべたで申し訳ないのですが、これをかわしたり、防いだりした場合、ここにいるクラスメート達がどうなるか? わざわざ言わなくても分かりますよね。──では」
しごくあっさりと風の刃が解き放たれる。
綾乃の首をはねとばすには十分なだけの威力を持つそれが、迫ってくる。
綾乃は態度を決めかねたままでそれを見つめていたが、自分の体を切り裂く寸前、ほとんど意識しないままに、炎によって焼き払っていた。
それは、これまでぎりぎりの戦いを幾度となく繰り広げてきた、綾乃の本能のようなモノだったかも知れない。
直後、綾乃は自分のしたことに気がついて愕然とする。
「残念です」
五十鈴は、さして残念そうでもなく、当初からの予定通りだとでもいった風の表情をしていた。
「あなたはクラスメートよりも、自分の命を選んだと言うことですね」
「みんな、逃げて!」
もはや、綾乃に躊躇うつもりもなかったし、躊躇う必要もなくなっていた。躊躇う余裕すらなかった。
大きく叫び、炎雷覇を手の中に召還して。
綾乃は一気に五十鈴を倒すべく、走り出していた。
「間に合うはずもないのに」
五十鈴はあきれたような声を出し、綾乃から逃れて大きく横へ跳躍していた。
そちらには、壁があり、外があった。
すでに縦横に切り裂かれていた壁が、あっけなく外向きにはじけ飛び、開いた穴に五十鈴は飛び込んでいた。
綾乃は追って、そちらに向き直るが、その瞬間。
教室は綾乃を、クラスメートを巻き込んで崩壊していた。
2年B組とその下の教室が、まとめて瓦礫に埋まる。
その瓦礫をはねのけ、焼き尽くして、綾乃は立ち上がる。
五十鈴の方は外へ飛び出したまま、風をまとって宙に浮かんでいる。
「あなた、よくも──」
火山の鳴動を思わせる低い声をだして、綾乃は火を噴きそうな鋭い視線を向ける。
「自身の選択の結果じゃないですか。私ばかり、悪者ですか?」
「悪者でしょ!」
「そうです。悪者です」
あくまでも、五十鈴は穏やかに応じる。
「でもまあ」
楽しそうに笑いながら、五十鈴は手を一振り。
瓦礫の山のあちこちが動いて、その下から、風の結界に守られた、綾乃のクラスメート達の姿が現れる。
「え?」
戸惑う綾乃に、五十鈴はますます笑みを深める。
「彼らを殺してしまうより、生かしておいた方が、おもしろいじゃないですか? だって、あなたは、結果的に彼らを見捨てたわけですし。ねえ、どんな気分ですか? クラスメートを見捨てた気分は?」
クラスメート達の多くは、何事が生じているのかと戸惑い、困惑している。しかし、中には確かに、綾乃に向かって咎めるような視線を向けている者もいた。目の前で力を発揮したせいもあるが、これで絶対に、昨日と同じようには学園生活を楽しんでいけないことは明白だった。
「あんた、一体何がやりたいのよ!」
「最初に言ったように、意趣返しです。まあ、嫌がらせと言い換えても良いです。小さな事からこつこつと。私、結構堅実な性格なんですよ」
「ふざけんな!」
「じゃあ、まじめに殺し合いをを始めましょうか」
言葉と同時に、風の刃が来た。
もはや遠慮をする必要も余裕もない綾乃は、炎雷覇を振るって風の刃を切り伏せる。
五十鈴は、静かに距離を取ろうとしている。
炎雷覇の継承者である綾乃にとっては、接近戦こそが得手。ならば。
綾乃は瓦礫と化した教室を踏破し、躊躇いなく飛び降りる。
二年B組は元々三階。しかし、一階分低くなっていた高さを問題なく飛び降りて着地、一気に五十鈴に向かって走る。
五十鈴が放ち、正面から向かい来る風の刃は、炎雷覇で切り捨てる。一気に、剣の間合いに──
踏み込むところで、横合いからの風の斬撃。
これまで正面からばかりだったせいもあって、思わず綾乃の足が止まる。その斬撃は切り伏せたが、五十鈴には再び距離を
取られてしまう。
今度は頭上よりの斬撃。次いで背後、今度は右、前、左──
「なっ!」
一つ一つの斬撃の威力は十分に対処可能。余裕すらある。しかし、その数が尋常ではなかった。そして、五十鈴を見ていても、斬撃を放つ瞬間が不審なほどによく分からない。
何でこれだけの術者が、風牙衆に残っているのよ!
内心でうめきながら対処する。無数の斬撃を、あるものは炎雷覇で切り伏せ、あるものはかわし。それでも、際限がないかのように風の刃は綾乃に迫る。
「このっ!」
風の刃の数が、かわしたり切り伏せたりする限界を超えた瞬間、綾乃は炎雷覇の切っ先を鋭く一回転させる。
切っ先が完全な円を描く、その瞬間、盛大にふくれあがった黄金の炎が、すべての斬撃を焼き尽くし、無と帰す。
が、五十鈴との距離を詰める余裕すら稼げなかった。
その程度のこと、驚くには値しない。すべては想定の中にある。そんな余裕を感じられる表情で、再び無数の風が、綾乃に向かって迫り来る。
数もそうだが、スタミナも尋常じゃない。
あくまでも、五十鈴の顔は涼しげで、これだけの斬撃を加えつつも、疲労の色はない。
一つ一つの斬撃の威力を絞って、その分、数を増やし、長く戦えるようにしている?
どちらにしろ。
「上等じゃないの!」
負けるものか!、と自分を叱咤して、さらに力を高めていく。
長々とつきあうのは、自分の趣味じゃない。ならば圧倒的な力で、一気に焼き尽くしてやる。
シンプルな思考。シンプルな方法。そして、基本的に、風に対して攻撃力で優位に立つ炎の使い手である綾乃には、ベストな方法だろう。
「これで──、終わりにしてやるわ!」
綾乃は、圧倒的なまでに力を高めて。
大上段に振りかぶった炎雷覇を。
五十鈴に向けて振り下ろした。
その切っ先からほとばしる炎は朱金の輝きをして。
すべてを焼き付くさんと五十鈴に迫り──
その目前で、あっさりとねじ曲げられた。
「──え?」
間抜けにも聞こえる呟きが、綾乃の口からこぼれる。
なぜ、あんな風にねじ曲げられたのか。
ねじ曲げることができたのか。
不自然で、不可解だ。
今の一撃は、風で易々と曲げられるようなモノではない。
いや、和麻ならば可能かも知れないが、目の前の少女──五十鈴は、確かに高い能力を持っているようだが、それでも、可能なこととは思えなかった。
そして、それ以上に。
理由は不明だが、思いの外、炎の精霊が集まってこない。
何らかの結界か、何らかの術式か、それともそれ以外か。とにかく、いつもと同じだけの精霊を集めることができず、いつもの威力を発揮できない。
何とも、気持ちの悪さを感じた。
何かの、ペテンに引っかかっているような。
どうしようもない、気持ちの悪さ。
戸惑い、悩んだ分、周囲への警戒がおろそかになった。
「しまっ──」
我に返ったときには、斬撃がついに綾乃の体を捉えていた。
寸前で身をひねり、さらに、着ている制服が特注の代物であったせいもあって、軽く右腕をかすめた程度で済んだ。それでも、鋭い痛み。制服の袖は切り裂かれ、その下の肌にも赤い線が走っている。
「このっ」
疑問を一時棚上げし、とにかく身近に迫った脅威──風の刃に意識を集中しようとする。
しかし、ひとたび殺がれた意識が、頭の隅に残った疑問が、完璧な集中を阻害する。ただでさえ思うように集まってこない精霊達が、ますます集まらなくなったように感じる。
まずい、このままでは酷くまずい。
これでは、際限のない消耗戦に持ち込まれてしまう。
敵の思惑に乗ってしまうことになる。
自分たちが、スタミナで負けると考えていないからこそ、敵は消耗戦を選んだのだろう。
だから、それは酷くまずい。
再び五十鈴に向けて炎を放つが、最前と同じように不可解にも曲げられ、外れてしまう。
何だ、これは。
何故、そうなるのか。
焦りが焦りを呼び、さらに集中を殺いでいく。
その結果、さらにいくつかの斬撃を受けてしまう。
一つ一つの斬撃の威力は低い。まともに食らっても、かすり傷に毛が生えた程度のダメージしかない。だが、出血と痛みは、著しく体力を消耗させる。
長期戦には、消耗戦には──それは酷くまずい。
何とかして、流れを変えなければいけない。
焦りつつ、そう考えたとき。
遠くで巨大な風の精霊の気配が生まれ、それは一気にこちらに向かって接近してきた。
その気配は、綾乃のよく知るものだった。
「情けね〜なあ、おい」
あきれたような、人を小馬鹿にしたような、いつもの調子の声が、頭上から振ってくる。
「和麻!」
助っ人の登場に対する喜びはその言葉で一気に消え失せ、不機嫌が綾乃を支配する。
「気をつけてよ。あんたほどじゃないけど、たいした風の使い手だし、それになんか変なの!」
それでも、一応警告だけはする。
しかし、和麻はあくまで人を馬鹿にした表情を止めず、ますます呆れたようにして、やれやれと首を振る。
「炎術士が鈍いのは今更言うまでもないことだが──ここまでくると、罪悪かもしれねえな」
「なによ、それは」
「こういう事だよ」
無造作に、和麻は風を放った。
風は、五十鈴ではなく、全然関係ない、とんでもない方に飛んでいき──
何もない場所から、人がこぼれ落ちた。
「あぶな〜」
どうやら和麻の攻撃はかわしたらしい。ぼやきながら身を起こしたのは。
「子供?」
綾乃がぼんやりとした声でつぶやく。
綾乃の言葉通り、それは、小学生くらいの男の子だった。
「雅彦君、こちらへ」
少年──雅彦は五十鈴の声を受けて、ぱたぱたとした走りで、その背後へ逃げ込む。
「他の人たちも、これまでです。下がってください」
さらに五十鈴が告げると、次々と、どこからともなく──空気の中から現れるように、雅彦を含めて総勢5人の人間が姿を現した。皆、素早く動いて五十鈴の背後に控える。
「え? なによ、これ」
「全く」
和麻は、呆れたように綾乃を見やる。
「俺がよくやるだろうが。光学迷彩だよ。光学迷彩」
「え?」
空気の屈折率を操作して、とけ込むように消える──見えなくする技術。風を、空気を操る風術士ならではのスキルだ。言葉通り、綾乃も何度か和麻が使うのを目にしている。
「じゃあ」
「おまえは、一対一のつもりで、一対六の戦いをしていたんだよ」
それで、五十鈴にそのそぶりもないのに、思わぬ方向から風の刃が大量に飛んできたのか、とようやく思いいたる。六人が綾乃の周りにいたのであれば、五十鈴だけを注目していれば気がつかない方向から攻撃されるだろうし、手数も増える。言われてみれば、当たり前のことだ。
「攻撃力の弱い私たち風術士は、ここを使うしかありませんから」
手品の種がばれたというのに、あくまで様子を変えず、五十鈴は自分の頭を指さしながら軽やかに告げてくる。
「初めまして、八神和麻さん。私はこのたび風牙衆の宗主を継ぎました、風巻五十鈴と言います」
「へ〜、風牙衆に、こんな美人がいたとはねえ」
あくまで軽薄に、無遠慮な視線で五十鈴を上から下まで眺める和麻。
「和麻、あんたね〜!」
それに、あまり気の長くない綾乃が怒りの声を上げる。
「ありがとうございます」
しかし五十鈴の方は、和麻の品定めをするような視線に平然と応じる。
「ところで、我々風牙衆としましては、あなたと事を構えることは避けたいのですが、そう言うわけに行きませんか?」
風の精霊王と契約をしたコントラクター、八神和麻。
風の精霊を使う風術士にとって見れば、もっとも戦いたくない相手だろう。と言うか、本気を出されたら戦いにならない。使役しようとした風の精霊を、すべて奪われるのがオチだ。
「そう言われてもなあ。神凪の宗主に、一億で雇われているし」
「では、二億出します」
間髪入れず、五十鈴が言った。
「足りませんか? では、五億では?」
「…………一応、信用問題って奴があるからな」
「何よ、今の間はっ!」
「気にするな」
「気にするわよっ!」
綾乃が、炎雷覇で和麻に斬りかかりそうなほどに激高する。
それを和麻は軽くいなす。
「今なら、私もつけますが、それで、どうですか? あなたが望むように、好きなように抱いて頂いてかまいませんが。──ちなみに、初物ですよ」
「これはまた、魅力的な条件を」
「和麻、あんた何言っているのよっ!」
綾乃は叫び、それから一転、五十鈴の方に向き直ってさらに叫ぶ。
「あんたもあんたよっ! 一体どういうつもりで、そう言うことを言っているのよっ! 恥を知りなさい、恥をっ!」
ぶんぶんぶんと、怒りをそのまま現すように、炎雷覇をぶんまわす。
「安心してください。あくまでビジネス、取引の問題です。色恋とは全く関係ない提案ですから」
「だよな」
綾乃の激高をよそに、五十鈴と和麻はあくまで静かに佇む。
「色恋じゃなければ、なんで安心なのよっ!」
「あら、それが問題じゃなかったんですか?」
「当たり前でしょっ! あたしは──そう、同じ女として、女の体を取引の材料に使うなんて事が──」
由香里がここにいたら、「素直じゃないな〜」なんて呆れた風に言うところだが、それはともかく。
「でも、風牙衆宗主としては、結構まじめな提案なんですけどね」
「……風牙衆、宗主として?」
「ええ」
五十鈴は頷いた。
「何しろ、八神和麻さんは、この世界で最強の風術士。しかも、風のコントラクター。精霊術士の力は、その血統による。──ならば、風術士の一族である我々、風牙衆が、その血を一族に取り入れたいと考えるのは、当たり前のことだと思いません?」
「俺は種馬か?」
「似たようなものです」
あっさりと、五十鈴は肯定し、和麻はわずかに苦笑した。
「あんたねえ。その、男と女の間の、そのっ、それは、そう言うもんじゃないでしょっ! もっとこう、そのっ!」
綾乃がわたわたと、顔を赤くして叫ぶ。
「私も綾乃さんと同じく、女ですから、個人として、そう言う思いを否定するつもりはありませんよ。──ですが、私は風牙衆の宗主ですから。私個人の思いよりも、一族のことを優先しなければならない場合もあるのです」
「私個人の思い、か?」
和麻が確認するように問う。
「ええ、私個人としての思いを言うなら、まっぴらごめんですよ。決まっているじゃないですか」
五十鈴はにっこりと笑ったままで毒を吐く。
「神凪の汚れた血を、どうしてこれ以上一族に取り入れようなんて考えるモノですか」
「神凪の汚れた血って、俺は、神凪を棄てたんだがな」
「そんなモノはあなたが言っているだけで、他の者はだあれも信じやしませんよ」
「……だがまあ」
和麻は頭をかきつつ、確認するように言った。
「交渉決裂、ってことで良いか?」
「そう言うことでしょうね」
ふう、とため息を零して五十鈴が頷いた。
「本当に、あなたとは戦いたくなかったんですけど、こうなっては仕方がないです。切り札を一枚、切らせて頂きます」
「切り札、ね」
和麻は首をかしげて尋ねる。
「そんなモノがあるなら、俺が来る前に切っておいた方がよかったんじゃないのか?」
それから、あごで綾乃を示し。
「そうすれば、こいつくらいなら、十分に倒せたんじゃないか? もう、見事に、無様に、おまえ達の策にはまっていたみたいだしよ」
「誰が無様よっ!」
綾乃が叫ぶが、二人は無視した。
「残念ながら、この切り札は綾乃さん相手には、あんまり有効な札じゃないんですよ」
本当に残念そうに、五十鈴は首を振った。
「さて──早瀬を残して、他の者は即座に撤収してください。私達が戻らなかった場合、次の宗主は雅彦君で」
「はいっ」
鋭く発した五十鈴の命令に、風牙衆の他五人の内四人が、即座に逃亡を開始する。
「逃がすかよっ!」
「逃がしてください!」
鋭く和麻が叫び、追撃の風の刃を放とうとするが、それをそれ以上に鋭く、五十鈴の叫びが止める。
同時に、和麻に向かって。
膨大な量の炎が叩き付けられた。
「何っ?」
驚きながらも風を操作して、和麻は炎を防ぐ。
炎はごく短時間で吹き散らされ。しかし、四人が逃亡する時間だけは稼ぎ出した。
「な、何で……」
綾乃は逃げ出した者達にはまるで注意を払わず。
ただ呆然として、五十鈴を見つめていた。
「おいおい、ありかよ、そんなの」
和麻は、綾乃よりは余裕があったが、それでも十分に驚いた顔で、五十鈴を見つめた。
膨大な炎の精霊を従えた五十鈴を。
黄金色の炎を身にまとい、これまでがそうであったように変わることなく、あくまでも静かに五十鈴は立っていた。
その炎も、盛大に吹き上がっている割には五十鈴同様にあくまで静かで、無駄がなく、あくまでも自然だった。
従えた精霊の量は膨大。圧倒的なまでの力。
自分に、いや、それ以上に、厳馬や父、重吾に匹敵するかもしれないその力に──
「何でよっ!」
綾乃はこらえきれずに叫んだ。
「何で、風術士のあなたに、そんな真似ができるのよっ!」
信じられない、信じたくない。信じたら、これまで自分の信じてきたモノがすべて崩れ去ってしまう。自身の依って立つ根幹、足下にぽっかりと深くて暗い穴が口を開いた。そんな恐怖に、綾乃の叫び声はひび割れた。
「それ、ありかよ」
和麻も驚きを完全には隠せず、風牙衆宗主を継いだ、風術士であるはずの少女を見つめた。
「別に、これは不思議な現象ではないですよ。あくまでも世界の規則に沿った、ごく自然な力です」
五十鈴はやはり、静かに答えた。それから一転、顔をしかめて和麻を見やる。
「逆に、私たちから見れば、あなたの力の方が、ありかよ、です」
「俺か?」
不思議そうに自らを指さす和麻。
五十鈴はため息を零した。
「どうして、炎術士の一族の宗家に生まれ、血統的に風術とは全く関わりのなかったあなたが、世界最強の風術士になってしまうのか。──しかも、風の精霊王と契約を結んだコントラクターなのか。まあ、神凪や風巻の始祖同様に、最初の一人、と言うことなのかも知れませんが、まじめに風術をやってきた一族の私たちにとっては、それこそ、何でそうなるのか、そんなことありかよ、です」
「そうか?」
「そうです!」
珍しいほどに強く、五十鈴は和麻に告げた。
「これが、最強の炎術士になった、と言うならば、炎の精霊王と契約を結んだ、と言うのであれば、血統的に納得できますよ。感情論ですが。それでも、何故ですよ。なんで、よりにもよって、風のコントラクターなんですか?」
「いや、俺に言われても」
和麻は、わずかに困ったように苦笑して応じた。
「だいたい、おまえに人のことを咎める資格があるのか? なんでまた、風術士一族の宗主が、炎術を──それもとびきり強力な、最強炎術士、神凪宗家に匹敵するほどのモノを使えるんだ?」
「ですから、私の場合はあくまで世界の規則に沿った、正当なる力の行使ですよ」
「?」
と、首をかしげる和麻に、五十鈴はさらに解説の必要を感じたようだ。
「そうですね。私、風巻五十鈴は、先代宗主、風巻兵衛の末妹、風巻伊織の娘になります。先々代の孫、あなた方がよくご存じの、流也さんにとっては、いとこに当たります」
ここまでは良いですか、と尋ねる五十鈴に、和麻は頷く。
正直、これはどうでもいいこと。正統な風牙衆宗家の一人、そう言うこと。今の問題はそれではない。
「ですが、これは母方の家系についての話で、父方の家系を紐解けば、事情は大きく変わります」
いったん口を閉じ、間をおいてから、五十鈴は続けた。
「父方の家系で見る場合、私は、和麻さん、あなたや、綾乃さんの叔母さんにあたるんですよ」
正直、この年で叔母さんは不本意ですが。と言う五十鈴のぼやきはきれいに無視された。
「叔母さんって」
「まさか」
「そう、まさかですよ」
五十鈴は、思い通りの反応をしてくれたと、にこやかな笑顔を作る。
「私は、神凪宗主、神凪重吾の末の妹。異母兄弟ですが。──そして私の父は、神凪先代宗主、神凪頼道」
「まさか、そんなことがあるはずがないわっ!」
綾乃の叫びは、理性によるモノではなく、感情に基づいたモノだった。
だから、五十鈴はこれっぽっちも感銘を受けたりせず、淡々と事実を告げた。
「この力が、その証明になるんじゃないですか?」
五十鈴のまとう炎。
現神凪宗主、重吾や、厳馬、綾乃自身の炎によく似た──いや、同種の浄化の炎。綾乃は炎術士、すなわち炎の専門家なだけに、それが分かる。分かってしまった。神凪の炎に似ているのではない。似せているのではない。そのものなのだと。
「嘘よ」
だが、認められないと叫ぶ。
「嘘じゃありませんよ、現実を見てください」
淡々と、五十鈴は告げる。
「まあ信用したくない気持ちも分かりますけど、どうしても認められないというならば、おうちに帰って、おじいさん──私にとっては父ですね。頼道に聞いてみたらどうですか? あなたが戯れに弄んだ、風牙衆宗家の娘、風巻伊織を覚えていますか?、と。──もっとも、神凪の人間にとって見れば、風牙衆の人間など取るに足らない存在でしょうから、覚えていないと言うかも知れませんがね。たとえ自分の子供よりも年若い、当時十四の娘を無理矢理に犯して心を壊してしまったとしても、取るに足らない出来事なんでしょうから」
綾乃は俯いて黙り込んでしまう。
先代宗主、神凪頼道の評価は低い。いや、低いなどと言うには控えめな表現だ。一族のほとんど全員に嫌われていると言っても良い。綾乃にとっては実の祖父ではあるが、好きになれない人間だ。実力は無いのに、先代宗主の威光を嵩に着て、無理難題を言い、わがまま放題好き放題に振る舞っている。
実際、五十鈴が言うようなこと、それくらいはやりかねない──否、やるだろうと綾乃自身思ってしまうような人物なのだ。
それだけに、返す言葉が無くなってしまう。
「……まあ、こいつをあんまりいじめるな」
和麻が、黙り込んでしまった綾乃に変わり、口を開く。
「いじめてるつもりはないんですけどね」
どこまで本気か、しれっとした顔で、五十鈴が応じる。
「それに、いじめ云々を言うならば、私たち風牙の者は、神凪の者にはとうてい敵いませんよ」
なにしろ三〇〇年の歴史ですから、と、五十鈴が告げる。
「まあ、おまえが炎術を使える理由は納得したよ。しかしなあ」
和麻は、頭をかきながら尋ねた。
「納得できないことがまだ、いくつかあるんだが?」
「何ですか? 答えられることならば答えますよ」
「じゃあ、遠慮無く」
和麻は、言葉を探すように視線を宙に向けた後で、言った。
「その力があれば、わざわざこんな風に出向かなくても済んだんじゃないのか? 例の、おまえ達の神様とやらの封印を解けば、それだけで、神凪なんて全滅させられるんじゃね〜のか?」
かつての風牙衆の反乱、それを成功させる為に兵衛が求めたのは、封じられた彼らの神の解放。それは、和麻自身らの手によって防がれたわけだが、五十鈴がその気になれば、問題なく、簡単にできるはずだ。
風牙衆の神が封じられたのは、三昧神火の中。三昧神火とは、いっさいの不純物のない純粋な炎。そんなモノをかき分けて、封印にたどり着ける人間は、炎の精霊の加護を受け、炎に対する冗談じみたまでの耐性を持つ神凪宗家の人間くらいの者。
そして、五十鈴の力は、神凪宗家の人間に匹敵する。──と言うか、その言葉を信じるならば宗家の人間だ。
ならば、兵衛がしたように、宗家の人間、和麻の弟、煉をさらって従えるなんて面倒くさい真似をする必要もない。自分一人、その場に出向くだけで事が済んでしまうのだ。
封印を解除し、神を解き放てば後は簡単。風牙衆は絶大な力を得、神凪には神の怒りが降り注ぐ。いかに神凪が強力な炎術士の一族とはいえ、神を相手にして勝てるはずもない。神凪は確実に滅びるだろう。
ただ、その場合、風牙衆宗主でありながら神凪の血も引いているという微妙な位置にいる五十鈴自身も、神に殺される可能性はあるが、その程度のことを躊躇う様にも見えない。今そうしているように、わざわざ自分たちで神凪の人間を殺していくよりも、風牙衆全体で見た場合の被害は少なくなるだろうし、結果も確実だ。
だいたい、今のやり方では神凪の全滅なんてのは夢物語だ。綾乃に対して、うまいこと戦っていた様子だが、あくまでもうまく戦っていたと言うだけの話。六人がかりで五分以上に戦っていたわけだが、それは即ち、六人がかりでようやくと言うこと。全然、力が足りていないのだ。
はあ〜〜〜〜〜。
と、五十鈴は長い長いため息を零した。
「ん?」
と、首をかしげる和麻に力無く微笑み、疲れた声で五十鈴は言った。
「まあ、あれですよ。伝承とか言う奴は、中国とか韓国とかの歴史と同じくらい、当てにならないでたらめなモノだった、と言うことですよ」
「そーゆう事言うと、また暴動が起きるぞ……って言うか、解いたのか?」
「……解きました」
五十鈴はもう一つため息を零した。
「私としては、これで全部解決。神凪は滅びて、私たちには栄光の未来が、なんて思ったんですけどね。三〇〇年の封印の間に平和呆けしたのか、それとも元からそう言う性格だったのか、面倒くさいから勝手にやれって言われちゃいましたよ」
「それは、それは」
ご愁傷様だな。と、疲れた様子の五十鈴に和麻はねぎらいの声をかける。
「全く、あの腐れ神は〜〜。氏子が困っているんですから、きちんと力を貸しなさい、という感じですよ! あの、へたれ」
「……いや、俺は別にかまわないんだが、おまえ達の神様だろ? そんな風にぼろくそ言って良いのか?」
「……多分、神の偉大なるお心は、私たちのような下々のモノは理解できないんですよ、きっと。思考のロジックが違うんでしょうね」
若干慌てたように言い直す。
「……まあ、それでも一応、封じられていた私たちの力も解放されたんですけどね。──元々、二流にも届かないような人間しか残っていませんでしたから、力が解放されても、一流に届かないという悲しい現実が……。言っても詮無いと分かっているんですけどね。どうしてこういう順番なんでしょうか。私がもう少しだけ速くこの力に覚醒するとか、先代が反乱を起こすのをもう少しだけ待ってみるとか、あなたが日本に帰ってこないとか、本当にもう少しだけ、世界が私たちに優しければ、結果は大きく違っていたはずなのに」
「……本当に言っても詮無い事だな」
「……優しくないですね」
「おまえに優しくする理由があるのか?」
「ありませんし、優しくして貰っても全然うれしくありません」
きっぱりはっきり、五十鈴が答えた。それから、表情を改める。
「それで、どうします? やりますか?」
「あ〜、まあ、俺にとっては仕事だしな」
「そうですか、できれば私はやりたくないんですけどね」
のんびりと、言葉通りやる気のない声で呟きながら。言葉の途中でいきなり五十鈴は、和麻に向けて炎を放った。
「そう言っといて、不意打ちかよっ!」
罵りながら、和麻は十八番を奪われた気分で風で炎を弾く。
弾かれた炎は、欠片となって、和麻の周りを舞う。
欠片。しかし、その一つ一つが、膨大な熱量を持っている。軽く触れただけで人一人くらいは一瞬で蒸発させてしまうだろう。
無数に舞い落ちる炎の欠片を、風で弾き、体術でかわし。和麻は回避につとめながら、戦慄していた。
最初の不意打ち、その間に、五十鈴は十分な量の精霊を集めていた。精霊召還の速度で、風に炎は劣る。それを理解して、不意打ちで和麻の機先を制し、精霊を集める時間を稼ぎ出したのだ。
五十鈴のまとう炎が、さらに盛大に燃え上がる。
黄金の浄化の炎。
その色が変わり、炎が薄く透明になっていく。
「っ! 神炎かよっ!」
陽炎のように風景を歪ませる、わずかに青みを帯びた透き通った炎。
一般的に神凪の最強の炎は「黄金」と呼ばれている。しかし、宗家の中でもさらに傑出した力を持つ人間は、時として、さらに上の炎を顕現する。自らのオーラの色に染め上げた、その炎を、神炎と呼ぶ。
その高みに達した術者は、神凪一〇〇〇年の歴史の中でもようやく両手の指が余る程度の人数でしかない。今の時代では、当主の重吾、そして和麻の父、厳馬の二人が、神炎を使いこなす。綾乃も数回使って見せた事があるが、まだまだ、使いこなすと言えるまでには至っていない。
その至高の炎を、風巻五十鈴という少女は使いこなしている。
こいつ、まじに神凪宗家並み──って言うか、血統的には宗家の人間だが。それも、綾乃どころか、親父クラスだ。
しかも。
再び盛大な火球が、和麻めがけて放たれる。
かつて父厳馬と戦い、和麻は勝利した。しかしそれは、相手の油断につけ込んだ勝利。
今回の相手は、見た目どうあれ、欠片も油断していない。何しろ和麻がコントラクターだと知っている。油断などするはずもない。
遠慮会釈無く、しきり直す暇を与えるつもりもなく、圧倒的な攻撃力で和麻を押しつぶそうとしてくる。
「くそっ」
罵りながら放った風の刃は、こちらに向かってくる火球に当たり──あっさりと飲み込まれて消滅した。
風と炎。等量のそれが正面からぶつかった場合、風は炎に駆逐される。
攻撃力では、圧倒的に炎に分がある。
それは分かっているが、罵りたくなるのは止められない。
四大の精霊術の中で、攻撃力では炎が最強。対して風は最弱。単純な正面からの力のぶつけ合いとなれば、よほどの力の差が存在しなければ、炎が有利。風は火に押し切られてしまう。
相手はそれを和麻以上に承知し、正面からのぶつかり合いを強いてくる。
和麻は小細工を使って何とか状況を変えようとするが、それを許してくれない。
当たり前か。何しろ相手はもともと風術士の一族、風牙衆の宗主なのだ。あるいは和麻以上に、風術と言うモノを知っているのかも知れない。少なくとも、風術に触れてきた時間の長さは、あちらの方が長い事は確実。その長所も、短所も、よく知っている。戦闘に入る前、会話を交わしている最中も、五十鈴は炎をまとっていた。それは、いったん炎を散らして再集結させようとした場合、風の方が圧倒的に速い事を理解しているからだろう。今もまた、当たり前に、常に膨大な量の炎の精霊を従えていて、隙を見せない。風に対する炎の優位を理解しているから、正面からの力のぶつけ合いと、戦いを単純化しようとしている。
酷く、やりづらい。
自分が負ける、とは和馬は思わなかった。
ここまで戦ってみて分かったが、実際のところ、支配する精霊の数で言えば、自分の方が僅かに多い。火の風に対する攻撃力の優位によって、一見、相手側優勢に事が進んでいるようにも見えるが、その実、互角と見ても良いだろう。
このまま、凌ぎきる事も不可能ではない。
このまま、相手の疲労を待って、逆撃に転じるのも不可能ではない。
しかし、それは酷く面倒くさい。
この仕事、全く持って割に合わない、と和麻は内心で嘆息していた。風牙衆の残党退治と軽く考えていたが、そんなかわいらしい相手ではなかった。
これ以上、この仕事に時間をかけるのも、酷く億劫だ。ちゃっちゃとけりをつけて家に帰りたい。
そのためにはどうすればいいか。
「綾乃っ!」
未だ、どこか惚けたような顔をして突っ立っている綾乃の名前を鋭く呼ぶ。
背中を思い切りはたかれたみたいに、綾乃がわずかに飛び上がる。
「な、なによ」
「おまえ、ちょっと時間稼げ」
「──って、彼女、悔しいけど私より力が上よ」
「それでもおまえなら、簡単に燃えたりしないだろうが」
綾乃には今ひとつ使えない切り札。五十鈴は炎術の事をそう言った。
同じ炎術士、同じ宗家。神凪宗家の人間ともなれば、耐火能力がでたらめに高いせいで、炎術ではさしてダメージを期待できない。即ちそう言う事。
和麻もまた、血統的には神凪宗家の人間だが、こちらは欠片も火の精霊の加護を受けていない。それこそ、分家の人間ですら問題ない程度の炎でも、和麻の体は焼かれてしまうのだ。
「でも、私の精霊も含めて、このあたりの火の精霊のほとんどは、彼女に──」
「おまえには炎雷覇があるだろうが!」
最強の呪法具、炎雷覇。
「おまえだったら、あの炎をくぐり抜けて、一撃かます事だってできるだろうが。──任せたぞ」
言うが速いか和麻は返事を待つことなく距離をとり、綾乃を盾にするような位置に下がっていった。
「どうしてあんたはいつもいつも〜〜!」
罵りながら綾乃は、それでも炎雷覇を構え、五十鈴に対峙する。しかし。
「早瀬、彼女の相手を」
そう言い捨てて、五十鈴の方も距離を取っていた。
「何で?」
綾乃は首をかしげた。
この男を捨て駒にして逃げようと言うのだろうか?
和麻がコントラクターの力を解放させれば、いかに父、重吾や厳馬に匹敵する能力を持つ炎術士とは言え、一蹴されてしまうだろう。それほどの、精霊王に聖別されたコントラクターの力という奴は圧倒的なのだ。
しかし、五十鈴は綾乃から距離を取ったところで、足を止めた。
何をしようと言うのか。
距離を取るよりも逆に、距離を詰め、和麻が聖痕を解放する前に攻撃、集中を妨げる方が正しいはずなのに。
言いようのない気分が、綾乃の背筋を忍び上がっていく。
まさか。
そんなはずがない。
軽く頭を振って、目の前に出てきた男に意識を向ける。
要は、和麻に対して五十鈴の攻撃を向けさせなければいい。
ならば、すでにその目的は達したと言える。
わざわざ、自分が無理をして戦う必要はなくなっている。
それでも、油断無く炎雷覇を構え、綾乃は目の前の男──早瀬を見つめる。
早瀬は二〇代半ばほどの、隻眼の男。大きな黒い眼帯で右目を覆っている。そして、その大きな眼帯でも隠しきれない、引きつれたような火傷のあとが、顔の右半分に広がっている。
戯れに暴力を振るわれて──綾乃脳裏に五十鈴の言葉が蘇る。早瀬の顔の火傷のあとは、炎を、炎術士を容易く連想させる。
そのせいで、綾乃はどうしても戦いに踏み込む事ができなかった。炎雷覇を握りしめる手に、どうしても力が入りきらなかった。
男の方でも、無理に戦おうと言うつもりはない様子だ。ただ静かに、綾乃の前に立っている。
「……その傷は?」
綾乃は、こらえきれずに質問していた。
「あなたの想像の通りですよ。結城の慎吾に焼かれました。仕事が遅くて使えないから、だそうですよ」
「〜〜〜!」
綾乃は唇を噛み締める。
五十鈴の言葉、それを事実として目の前に突きつけられた格好だ。
早瀬は、さらに続ける。
「正直、自分でも、人として間違っているとしか思えませんがね。結城の慎吾が流也様に殺されたときに、私は快哉を叫びましたよ。いえ、本当ならば、自分でやりたいところでしたが、残念な事に力が足りませんでしたからね」
綾乃は、返す言葉を見つけられなかった。
こうした場合に常識的、一般的な言葉をあげるならば、「復讐に意味はない」だろうか? 「復讐なんて事は間違っている」だろうか? 陳腐きわまりない上、当事者の一方が口にして言いせりふでもない。
変わりに、綾乃は囁くような声で告げた。
「……さいよ」
「何ですか?」
「逃げなさい、って言ったのよっ!」
綾乃は叫んでいた。
「良い事、あんた達の当主が、どんなに優れた炎術士でも、本気になった和麻には絶対に勝てないっ! 死にたくなかったら、逃げなさいよっ!」
コントラクター。理論上は、この星の全ての大気を自在に操る事ができる。人の身の限界もある為、さすがにそれだけの力は振るえないが、それでも、圧倒的な力には違いない。ただの──いかに至高の炎、神炎を使いこなそうとも、ただの炎術士では、絶対に勝てる相手ではない。
「……逃げて、どうするんですか?」
しかし、早瀬は静かに応じた。
「逃げれば、見逃してくれるとでも? あの風術士が。そして、あなた達、神凪の者達が」
和麻は敵に容赦はしない。事情など一切合切問わず、敵は、ただ倒す。大神操の時は、希有な例外だ。そして、風牙衆はその例外になりえないどころか、逆に、勇んで滅ぼそうとしている節がある。
神凪も止まらない。分家の者達は、風牙衆の存在を許したりはしないだろう。最後の一人まで抹殺しなければ、不安で落ち着けない。綾乃に止める事ができるかと問われれば、否。宗家の娘とはいえ、綾乃にそれだけの権はないし、あったとしても、分家の者達総掛かりで風牙衆抹殺を主張されれば、そうするしかない。綾乃はあくまでも神凪の人間。最優先すべきは神凪の人間の利益なのだから。
「我々は、戦って、居場所を作り出すしかないのです」
「だからって、勝てるはずのない戦いに──」
「勝ちますよ」
猛ることなく静かに、早瀬は言った。
「我々には、五十鈴様がいます」
「だからっ! どんなに強くても、ただの炎術士が──っ!」
綾乃の言葉は、途中で途切れた。
風の精霊が、爆発的に集まり始めている。周囲が蒼く清らかな風に満たされていく。和麻が、コントラクターとしての力を解放した。それを、見ることなく悟る。
同時に。
炎の精霊達が踊る。歓喜の声を上げるにも似て、周囲に透き通った鮮やかな炎が舞う。
「そ、そんな」
綾乃は、呆然としてつぶやいた。
「世の中には、皮肉が満ちあふれている」
こちらは平然と、早瀬が囁く。
「炎術士、神凪の一族に生まれ出でた風のコントラクター。そして──風術士、風牙の一族に現れた、炎のコントラクター」
綾乃の向ける視線の先、振り返った早瀬の視線の先。
瞳を薄く、どこまでも蒼く輝かせ。
先刻まで比ではない程の膨大な数の炎の精霊を従えて。
炎のコントラクター、風巻五十鈴が静かに立っていた。
風と炎のコントラクターは、向かい合って立っていた。
二人の間で風と炎の精霊がせめぎ合い、唸りをあげる。
「まじ、……かよ」
どこか呆然と、和麻がつぶやいた。
「まじ、ですよ」
五十鈴の方はまるで変わらず、静かに応じた。
「これが、私の、正真正銘、最後の切り札です。──ま、風牙衆の宗主としては、ちょっと思うところもあるんですけどね」
「だろうな」
と、和麻は納得して頷く。
「しかし、神凪も立場ねえなあ」
チラと綾乃に視線を向ける。
綾乃は、かわいそうなくらい呆然とその場に突っ立っている。
神凪の人間ではなく──実際は神凪の人間でもあるのだが──風牙衆の人間が炎の精霊王に認められる。多分、今日一番のショックはこれだろう。
「あなたがそれを言いますか?」
ちょっぴり不機嫌に、五十鈴がつっこむ。
それは、逆も言えるのだ。
神凪の人間が、風の精霊王に認められる。風術士、風牙衆のモノにしてみれば、やっぱりショックは大きいだろう。ただ、これを知ったのは前の事なので、今更ショックで茫然自失とはならないが。
「──で、どうします?」
僅かに首をかしげて、五十鈴が聞いた。
「戦いますか? それとも止めておきますか?」
「そうだな、どうするかな」
和麻は考え込むようにして首をかしげた。
風のコントラクターと炎のコントラクターの戦い。両者ともに、人の身には余る程の強大な力を宿している。まともにぶつかり合えば、周囲一帯、とんでもなく酷いことになることは目に見えている。
正直、和麻は自分と僅かな知り合い以外がどうなろうが、知った事ではない。
無いが、どうにも面倒くさいのは勘弁だ。
だいたい、こうなってしまえば、戦いは規模を拡大した先刻の焼き直しになりかねない。等量の風と炎の精霊では、正面からぶつかり合う限り、風の精霊に分が悪い事もある。それでも、負けると言う気はないが、全く、酷く面倒くさい。
「提案ですが、今回は痛み分けという事でどうですか?」
「痛み分けぇ?」
和麻は顔をしかめた。
「どっちかって言うと、おまえ達の方が好き勝手にやったって言う気がするんだがな?」
一方的に、こちらが──和麻本人ではないが──被害を受けている、と文句を言う和麻に。
「……気のせいですよ」
しれ、っと、五十鈴は応じた。
「まあ、このままでは下手をすると千日手で時間切れの痛み分け──となる可能性が高いと思いますけど」
「ま。確かに──」
炎の精霊に、風の精霊は押されるだろう。だが、押し切らせるつもりもない。両者ともに決め手を欠いて、時間切れ。確かにそれが一番可能性がありそうだ、と和麻は頷く。
「じゃあ、そう言う事で──」
静かに、何の気なしに。
そんな、ごく自然な雰囲気で、五十鈴は右手を伸ばした。
「え?」
と戸惑う和麻の眼前で、五十鈴の手の中に現れたそれは──
「炎雷覇? ちょっと待てっ!」
視界の外れ、コントラクターの力を解放して広がった認識力によって、見るまでもなく分かる──にいる綾乃が、突如自分の手の中から消え失せて五十鈴の手に移った炎雷覇に、驚愕の声を上げている。
五十鈴は和麻の懇願を無視して、驚愕のスピードで炎雷覇に炎の精霊をまとめ上げた。
そして、そのまま一気に和麻めがけて振り下ろす。
不意を打たれた事。最強の呪法具、炎雷覇の存在。その二つがあって、和麻の体は、大きく後方に跳ねとばされた。とっさに風の防御が間に合ったから、直撃を受けたわけではない。無いが、それでも一瞬意識を失いかけるほどの衝撃を受けた。
「くそっ」
油断した。
何が最後の切り札だ。さらに一枚、札を残していたじゃないか。
和麻自身だって、決して正々堂々と戦うタイプではないのだがそれを一時棚上げして、嘘つきな相手を内心で罵りながら、和麻が五十鈴の方をにらむと──すでに、そこにその姿はなかった。
風の精霊を通じてその姿を探すが、要所要所に散りばめられた炎の精霊がそれを阻む。
全く、もともと風術士だけに、その特性や得手不得手、重要な場所、弱い場所をよく知っている。このやり口に、半ば感心してしまった。
『残念ながら、正統の所有者でない私が無理矢理炎雷覇を使っても、本来の力は発揮できないみたいです』
そこへ、五十鈴の声が聞こえてきた。
木霊法と呼ばれる、風術士の遠距離会話術だ。これにも、きっちりと炎の精霊によるジャミングがかけられていて、探知を阻んでいる。その結果、こちらの声を届ける事は適わず、会話は一方通行になってしまうのだが、相手はいっこうに構わないようだ。
『今日のままでは、残念ながら殺し切れません。ですから、準備万端整えて──そうですね、三日後の日曜日に、神凪本家におじゃまさせて頂きます。神凪一族郎党、首を洗って待っていてくださいな』
軽やかに、遊びに行きます、と言う程度の響きの声で伝えるだけ伝えると、五十鈴の声は聞こえなくなった。
同時に、大量に存在した炎の精霊達が、静かに姿を消していく。
和麻は、これをチャンスと見て、風の精霊に命じて居場所を探らせようとはしなかった。
こちらも、いい加減時間切れだ。コントラクターの力は強大なだけに、長々と使えるモノではない。精霊王の力などと言うモノは、人の身に余る。一時的に借りるのが精一杯。無理をすれば焼き切れてしまう。
「──ったく」
和麻はがしがしと頭をかいた。。
綾乃は、いつの間にやら返却された炎雷覇を、大事に大事に胸にかき抱いてる。
「完璧にしてやられたな」
ぼやくように呟きながら、和麻は、ゆっくりと綾乃に歩み寄った。
静かに、少女は目を開いた。
古いお屋敷、天井の梁が、複雑に絡み合っているのが見えた。
少女は、自分が布団で寝ている事を認識すると、ゆっくりと上半身を起こした。
途中、額に乗せられていたらしい塗れタオルが、布団の上に落ちる。
「五十鈴様、気が付かれましたか」
声が聞こえ、視線をそちらに向けると、こちらを気遣う表情をした隻眼の男。
「早瀬、私はどれだけ寝ていましたか?」
「一週間です」
静かに、男、早瀬は答える。
「あら、そうですか」
少女──五十鈴は、楽しそうに笑う。
「それでは、神凪本家へお伺いする約束を、すっぽかしてしまいましたね」
元々そのつもりだったくせに、と早瀬はつっこむような無粋な真似はせず、静かに頷いた。
「あちらの様子はどうでしたか?」
「次期宗主殿が、口から火を噴きそうな程に怒り狂っておりました」
「残念、それは見たかったですね」
くすくすとその様子を想像したのか、五十鈴が笑う。
「──で、他の状況は?」
「神凪は、ひとたび我らの追撫を諦める様子です」
「それは幸い」
「石蕗一族との交渉は、おおむねこちらの予想通りに進んでいます。現在のところは、好意的中立、そんなところです。宗主は神凪に好意的な様子ですが、分家の人間は神凪を否定的です。宗主も、分家の意見を無視するわけにはいかない。──予定通りです」
「まあ、あれだけ好き勝手すれば、当たり前ですよね」
「他、警視庁特殊資料整理室を除く、様々な関係機関との交渉も、おおむね予定通り、こちら優位に進んでいます」
「神凪は、最強を嵩に着て、好き勝手にやりすぎましたからね」
「はい」
「一族の者の方は?」
「何故、我々に何もしなかった人間を殺しておいて、逆に我々を虐げた人間を殺さないのかと、さんざん文句を言われましたが、事情を説明して納得させました」
「ご苦労様です」
今回、五十鈴達が殺した神凪分家の人間は、無造作に目に付いた人間を狙ったというわけではなく、慎重に計算されていた。神凪分家の中でも、人間的にましだと思われた者。それを中心にして、殺害計画を立てて実行している。
結果、風牙衆にとっては恨み骨髄な人間は選択外になる事になり、納得のいかない一族の者は異議を申し立ててきた。
しかし、その異議も理由を説明する事によって、どうやら落ち着いた様子だ。
神凪には、今以上におごり高ぶって貰う。
それが、五十鈴の狙いだ。
「最強」神凪一族。その称号を良い事に、分家の人間は他の神凪以外の一族や、関係機関に対して必要以上に高飛車に振る舞う場面が多い。そうした人間に、好意を持つ者は少ないだろう。
五十鈴は、神凪分家内の常識的な人間──ストッパーになりうる人間を中心に、殺害計画を立てて実行したのだ。
「腐った蜜柑には頑張ってエチレンガスを発生させて貰って、周囲の蜜柑も腐らせて貰いましょう」
今以上に神凪がおごり高ぶれば、自然、今以上に周りの者達は離れていくだろう。そこへ、変わって風牙衆が浸透していく。それが五十鈴の未来設計図。
「今回見送った人たちが、もし改心するようだったら、ぺちって殺しちゃう予定だって事、伝えておいた方が良いでしょうか?」
「どちらでもよろしいのではないでしょうか」
「……まあ、わざわざ伝える必要はありませんね」
五十鈴は僅かに考えて、結論した。未来は確定ではないのだ。殺すとは決定していないのだから、変な期待を持たせるのも考え物だ。
「それで、今後の予定はどうなりますか?」
早瀬が、五十鈴に確認するように尋ねる。
「予定通り、しばらくは静観します。──神凪とまともにぶつかるのは、正直疲れるし、勝てるとも思えませんから」
今回は終始、こちらのペースで事を進め、満足のいく結果を導き出した。
しかし、次回もそううまくいくとは思えない。
ただでさえ、隠し札は全て切ってしまったのだ。もう、不意打ちも効かない。
五十鈴は炎のコントラクター、とは言え、その力は確実に我が身に余るとも思っている。実際、今回は力を行使したあと昏倒、一週間ばかり寝込んでいたようでもある。余裕をもって退場した様に見せたが、実はもう、アレでぎりぎりだ。八神和麻の方は力の行使のあと、寝込んでしまうなどという話を聞かないから、これはもう、自分が和麻に劣ると考えるしかない。正面切って戦うのは、もう勘弁だ。
「──でも、チャンスを逃すつもりはありませんから、監視は怠りないように。どうせあの人達は、アマルゲストの連中とまたぶつかるに決まっているんですから。我々は、せこく漁夫の利を狙いましょう」
「はい」
早瀬が頷く。
「それじゃあ、私はもう少し休ませて貰います」
五十鈴は言って、再び布団の上に身を横たえた。
早瀬が無言で出て行く気配を捉え。
五十鈴は、静かにつぶやく。
「きっちり健吾君達の仇は取ってあげるから。神凪の皆さん、お楽しみはこれからだからね」
そして、静かに目を閉ざした。