魔法使いの弟子
第一話「鏡の美女の話」
そのお客様は、どこか思いつめたような顔をしていた。
目の下にははっきりとした隈が出来ており、頬は、不健康にこけている。顔色は、何処か内臓に疾患を抱えているのではないかと思うほどに、色が悪くて暗い。身体は痩せ細っており、それは、ここ近日中にかなりの肉が落ちたらしい。無論、このお客様の近日中以前の様子を知るわけではないから、身体に合わなくなってしまっている、布地の余った服装から推測したのだが、多分間違っていないだろう。
「お砂糖やクリープは、どうなさいますか?」
来客用のカップにコーヒーを注ぎながら、私は尋ねた。おそらく、味わう、などと言う余裕はなさそうな様子であるが、だからと言って手をぬいて淹れたりはしない。お客様であるから、いつもより幾分念入りに淹れているくらいだ。
思いつめたような瞳が、初めて私のほうに向けられる。どこか病んだような光の灯る瞳。瞳ではなく、硝子球が代わりに詰まっているように、映ったものが視神経を通じて脳味噌まで届いているか疑問であるような視線だ。実際、焦点は私の顔を通り越し、後頭部の辺りで彷徨っているように見える。
「結構です」
力のない声で、そう告げてくる。自分が何を言っているのか認識しているのかも不明瞭な声だ。
「ああ、絵里君。僕は、砂糖もクリープもたっぷりお願いするよ」
うって変わって明るい声。これはご主人様の声である。
ご主人様の趣味は承知している。何しろ、今まで何度淹れたか数えられないくらいなのだから。
しかし、趣味を承知してはいても、納得は出来ているわけではない。ご主人様の飲み方は、コーヒーを楽しむと言うよりは、砂糖やクリープの味を楽しむような飲み方なのだから。
お客様と、ご主人様の前にコーヒーを差し出す。ついでに、ご主人様の前には砂糖壺と、クリープの入った容器をおく。ご主人様は、自称、「微妙な味の違いがわかる男」で、私が砂糖を入れたりすると、甘いとか、甘さが足りないとか五月蝿いのだ。自分で好きなように入れてもらうのが一番である。
それから、ご主人様に視線で促され、その隣に座る。古い応接用のソファーが、失礼なことに私のお尻の下で不平の声を上げた。確かに、最近体重がいささか増えているが、そこはそれ、気がつかない振りをするくらいの優しさを求めたい。最も、甘やかされて取り返しのつかない事態に陥る前に、忠告してくれたのだと、善意に受け取ると言う方法もある。だけど、私は確信している。このソファーは失礼な性格をしているのだと。
来客の際、私がご一緒するのはいつものことなので、自分用のコーヒーも当然用意している。ちなみに、私もお客様と同じくコーヒーはブラック派なので、砂糖などは必要としない。
ご主人様は、嬉々とした表情で、砂糖壺からスプーンで掬い、コーヒーの中に投げ込んでいく。
山盛りスプーンで1杯、2杯、3杯、4杯――
ここまでで、数えるのはやめる。見ていて、あまり気持ちのいいものではない。私とて、甘い物が嫌いと言うわけでは無いが、それでも限度と言う物があると思う。大体、激辛の、それでも美味しいものは存在すると思うが、激甘の美味しいものは思いつかない。辛さよりも、甘さに対する許容範囲は狭いと一般には言われているのだが、ご主人様の味覚は特別らしい。いや、仮にも私の主である。ここは、個性的な味覚と表現しよう。
ご主人様は充分以上に砂糖を投げ込んで満足したのか、今度はたっぷりとクリープを注いでいく。コーヒーの色が殆ど消え失せ、白くなるまで注いで、ようやく満足した様子だ。全く、甘党とか言うレベルの問題ではない。最初から、クリープにお砂糖を入れて飲めばよいのではないかと思うほどだ。
私は、そっとため息をつき、お客様の様子を窺った。
しかし、意外なことに、このお客様は全く意に介していない様子だ。
ご主人様の悪癖は数あれど、その中でもこれは最高の一つに数えあげても差し支え様のないものである。初対面の人は、大抵、これを見てギョッとしたような表情をするものである。
このお客様は、矢張り周囲の様子が目に入っていない様子だ。もしくは、目に入ってもそれを検証する余裕がないのか、どちらにしろ、随分思いつめているらしい。
飛び込みでご主人様に依頼をしようと言う物好き――失礼――の半分くらいは、こうした追い詰められたり、思いつめたりしているものだが、このお客様はその中でも飛び切りらしい。
「――熱いうちにどうぞ」
目の前のコーヒーに視線を落としているが、それが飲み物であると言うことを思いつかない様子のお客様を、ご主人様が促す。
「絵里君――うちの助手の淹れるコーヒーは、なかなかの一品ですよ。ぜひ、熱いうちにご賞味ください」
これはリップサービスの類だろうか。
少なくとも、ご主人様は、コーヒーの味を云々できる資格があるような飲み方はしていないと思う。――思うのだが、案外、本気で言っているのかもしれない。兎に角ご主人様は得体が知れないと言うのか、私を始めとして、他者の目からは理解が難しい人間なのだ。
「ああ、はい」
促されて、お客様はコーヒーカップを取り上げて、口をつける。どうも、コーヒーの替わりに泥水が入っていたとしても、委細気にせず口をつけかねないほどの、人形じみた動きである。味も全く解かっていないだろう。出された以上は礼儀上、と言う程度に口をつけると、カップを受け皿に戻す。そして、再び暗い瞳を、膝の上で組み合わせた自分の手に落とす。
私は、改めてこのお客様を観察した。
年齢は、30歳前後だろう。まだ、中年と言うには若く、青年と言うには年をとっているくらいの年代。もしかしたら、30歳前後はまだ青年と言うのかもしれないが、私くらいの年齢からしてみれば、どうにも区別し辛い。世の中の、私と同年代の者ならば、「オヤジ」の一言で片付けるかもしれない。
何より最大の特徴は、その不健康な顔色である。表情も暗く、陰気な雰囲気を周囲に撒き散らしている。見ている方も、陰気な気分に支配されそうである。
「それで、私に依頼とは、一体どう言うことでしょうか?」
ご主人様が、のんびりとした声をかける。いつも思うのだが、思いつめた様子のお客様にかけるには、いささか明るすぎ、軽すぎるように感じる声。表情も、上機嫌に緩められている。――最も、ご主人様が不機嫌な表情をしているところを見たことは、初めて出会って以来三年で、数えるほどしかない。
「ああ、はい」
先刻のコーヒーを勧めたときと同じ言葉で答えてはいるが、お客様は、今度はきちんとご主人様のほうに注意を移している。しかし、その先は言い淀む。その顔に浮かんだ表情は、僅かな縋るような熱意と、かなりの量の逡巡。個々のお客さんによって、その比率は多少異なるが、大抵浮かべる表情である。
それから、思いつめたような表情をして、お客様は口を開いた。
「上州屋の若主人から、ここの、あなたのことを紹介されました。なんでも、こうしたことには、あなたの知恵や力を借りるのが一番であると言う話で――」
上州屋の若主人と言うのは、ご主人様の、数少ない御友人である。そして、奇矯な性格や容姿を持っている、曲者揃いのご主人様の友人の中では希少な――と言うよりは、唯一の普通の人である。最も、ご主人様と付き合っている以上、その若主人も周囲からは変わり者扱いをされているかもしれない。ちなみに上州屋と言うのは、骨董屋で、稀に出物をご主人様に販売したり、逆に、ご主人様に鑑定や修復を依頼したりしている。元々は、そうした商売上の結びつきから形成された友情である。
ところで、ご主人様の職業を、なんと言って説明すればよいのだろうか。
ご主人様の自称をそのまま紹介すれば、「博物学者」と言うことになる。さて「博物」とは何を指すのだろうか。明治大正から、昭和初期まで、小学中学校で動物学、鉱物を内容とする教科があり、それを博物と称したらしい。しかし、ご主人様はこの学問を教える教師とは異なる。大体が、この平成の世に、博物などと言う教科は存在していない。江戸時代のエレキテルを作ったことで有名な才人、平賀源内も博物学者であった。どちらかといえば、こちらに近いだろう。博、と言う言葉には、見聞が広い、と言う意味があり、物ごとを良く知っている事を博物、もしくは博学と言ったりする。また、博物学とは、動物学、植物学、鉱物学、地質学、エトセトラ、エトセトラの、兎に角、天然物全体に渡る知識を得る学問であるらしい。最近では、それぞれの分野がどんどん細かく専門化してきて、動物学者、植物学者、そして、それを更に細かく、といった具合に、これはいくつも細切れにされてしまった学問である。いまどき、博物学者を名乗るのは、世間を舐めていると言われてもしかたがないかもしれない。しかし、ご主人様の場合、これが然程嘘では無いのである。最も、正確と言うわけでも無い。
だが、私が思うに、「博物学者」としてのご主人様は、これを職業にしていると言うよりは、趣味にしているようにしか思えない。日々の稼ぎをあげるわけでもなく、研究内容を学会に発表するわけでもない。自分自身のみが納得して楽しむような状況であるからして、これは、断じて職業ではない。
さて、それでは本当の職業はなんなのだといわれると、これもまた困ってしまう。正直なところ、ご主人様は、わざわざ額に汗して働く必要などないのである。既に、金額を言われてもピンとこないような莫大な財産を所有しており、どれほどの無駄遣いをしたとしても、容易に目減りはしそうにない。文字通り、遊んで暮らせる身分なのである。
また、今回のように、飛び込みで依頼を持ち込む人間は兎も角、ちょくちょくやってくる常連さんは、金払いのいい人間ばかりである。謝礼と称して、尋常ではない金額を置いていく。
ならば、一応は御金を稼いでいるこちらの方を仕事として、職業を決めるのが正しいのだろうが、困った事に、こちらもなんと表現していいのか解からない。
失せ物探しをすることもある。悪趣味なことに、浮気の現場を押さえたりするような真似もしたことがある。これは、「探偵」と呼ばれる人々の仕事だが、こればかりと言うわけでも無いから、この呼称は相応しくない。大体、ご主人様は、こう呼ばれることを非常に嫌がるのである。雇われ人である私としては、ご主人様が本気で嫌がる以上、この表現は避けるべきである。
この家を訪れる常連の依頼人には、「先生」と呼ばれることが多いようだ。しかし、この「先生」と言う呼称は、やたらとその範囲が広いのだ。医者も、議員も、学者も、そして、学校のそれも、皆「先生」である。そして、それ以上に、私自身の感情が、どうにもご主人様を「先生」と分類することに、違和感を覚えてしまうのだ。思うに、私は世間一般で先生と呼ばれているような職種の人物に対して、嫌悪感を抱いているのだろう。
「上州屋が、私のことをなんと説明したかは、詳しくは聞かないことにしましょう」
ご主人様はおっとりと言った。
それは正しい態度である。少なくとも、ご主人様と上州屋の若主人との間に、これからも友情を存在させつづけようとするならば、聞かないほうがいいことである。
「――で、私に相談とは、一体どうしたことでしょう」
水を向けられても、お客様はなお、逡巡の表情を見せている。
ご主人様は、それを面白そうな表情で見守っている。微笑んでいるが、人の悪そうな笑顔だ。状況を楽しんでいる。ご主人様は、何時でもそんな感じだが、それだけに、悪趣味に感じることは多い。
「あの、笑わないで聞いていただけますか?」
「人の悩みを笑うような、意地の悪い性格をしているつもりはありませんよ」
ご主人様は、平気な顔で嘘をつく。
お客様は、それでもその言葉を信用したのか、逡巡を投げ捨てるようにして、身体を机の上、ご主人様の方に乗り出した。
「恥ずかしながら、私、伊坂修三は、生まれてはじめて恋をしました」
お客様の告白に、きっと私の眉毛は不審の形を作ってしまっただろう。
しかし、どう見ても30近い年齢である。この年で初めての恋と言うのは尋常ではない。そして、その思いつめ方が、それ以上に尋常ではない。まあ、恋などと言うものは、年齢性別職業ツベルクリン反応郵便番号の如何を問わないものであると、高名な歌手が歌にしているわけで、こうした差別をするべきではないかもしれない。兎に角、恋をするのは結構なことだ。私自身、偉そうなことを言うほど、恋愛経験豊富というわけではないが、どうやら、人生を彩る大変重要な要素であるらしいし。しかし、それをよりにもよってご主人様に相談しようと言う当たり、思いつめ方が危険な領域まで進んでしまっている。大体、ご主人様は私の見るところ、私以上に色恋沙汰にはトンと縁が無さそうな人間である。ご主人様の名誉のために付け加えるならば、別にご主人様が女性にもてないと言うわけではない。言い寄られたことは何度もあるようだが、ご主人様自身に、女性とどうこうしようと言う熱意が薄いようなのだ。周辺住人には、血の繋がりのない私と同居していると言うことで、私のことを囲われ女と見る向きもある様子だが、これは間違いである。少なくとも、この屋敷の住人になって三年。ご主人様がそのような男の劣情を私に向けたことはない。同じように、多くのご主人様に好意を持った皆様方も、どれほど熱烈なアプローチをしようが、暖簾に腕押し、かえるの面に――失礼、では、気合も抜けようと言うもので、大抵は、早々とほかにいい人を見つけて去っていく。まあ、中にはいつまで経っても諦めないお方もいるが。
「はあ、それはおめでとうございます」
ご主人様は間抜けな対応をした。
ご主人様に相談しようと言う当たり、おめでたい話ですむとは考えられないのだから、この対応は間違いだ。
案の定、お客様、伊坂氏は、顔を苦渋の色に染めて、またもや組み合わせた自分の手のほうに視線を向けてしまう。視線を落としたところで、答えが見つかるとも思えないので、これが伊坂氏の考え事をするときの癖なのだろうか。
「しかし、私は告白代行は――」
間抜けなことを口走るご主人様。
私は、僭越ながら、口を挟むことにした。
「あの、何か問題があったのでしょうか?」
伊坂さんは、私の言葉に、初めて私の存在に気がついたと言うような表情をした。先刻、コーヒーを淹れたときに一度私のほうに視線を向けたわけだが、危惧したとおり、存在に気が付くまで行ってなかった様子だ。伊坂氏は本当に周囲のことが目に入っていなかったらしい。
「私は、ご主人様の――裁谷令真の助手をしております、絵里ともうします」
そうそう、ご主人様の名前は裁谷令真と言うことになっている。少なくとも、私にはそう名乗り、そう呼ぶように指示した。稀にやってくる外国人の客様などからは、それぞれ違った名前で呼ばれ、いちいち訂正している辺り、他にもいろいろな名前を持っている様子だが、この国ではそう名乗り、免許証に記載された名前もそうなっている。所詮名前など、ただの記号のようなものであるのだから、それはそれで構わないのだと思う。しかし、由来が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」であるから、趣味は悪いと言えるだろう。特定の宗教家を、丸ごと敵に回しそうな名前である。
私の名前、絵里を命名したのも、ご主人様であることを付け加えておく。
「ああ、私は伊坂修三です」
再び、お客様は名乗る。私が、今いきなり現れたとでも思っている様子だ。
「――それで、どういった事情でしょうか?」
ご主人様は、応対を私に任せるつもりになったらしい。幸せそうな顔で、コーヒー――元コーヒーを味わっている。
お客様――伊坂氏は、再び逡巡を見せた。
まあ、解からないでもない。私のような小娘に話をして、果たして何の役に立つのか。そう訝っていることは、表情を窺うまでもなく知れた。
「いや、絵里君はこれで、優秀ですから、安心して話をしてください。――さあ、どうぞ」
私をフォローするご主人様の口調は、あくまで軽い。
伊坂氏は、ここに相談に来たことを後悔するような表情を見せ、それでも、ほかに縋る糸を思いつかなかったらしく、私のほうに視線を戻して口を開いた。俗に、「溺れる者は藁をも掴む」と言うが、現在の伊坂氏の心情は、まさにそのような状況なのだろう。
「実は、私の好きになった女性と言うのが、普通では無いのです」
「普通ではないと言うと、鼻から食事をしたり、逆立ちをして町を闊歩したりするのですか?」
ご主人様が、相談する気力を削ぐようなことを口走る。当人は至って楽しそうで、実際にそうであったならば、どれほど悦ぶ事だろうか。
伊坂氏は、目に見えて消耗した。
私自身、身体から気力と言う物が抜け出していく様を、目にしたような気分になった。
「いえ、違います」
それでも、とりあえず相談すると決めた以上は、一応最後まで相談しようと決めたみたいで、力を振り絞って先を続ける。もともと、上州屋の若主人から、ご主人の奇矯な性格についての注釈を受けていたのかもしれない。
「とにかく、こちらを見ていただけますか?」
何を思ったのか、伊坂氏は自分の脇に、大事そうに置いていた風呂敷包みを、割れ物を扱う繊細な手付きでもって取り上げ、机の上に置いた。
「拝見します」
なにやら好奇心を刺激されたらしいご主人様が、率先して手を伸ばし、風呂敷を解き始める。うきうきと楽しそうで、誕生日にプレゼントを貰った子供を髣髴とさせる姿である。
風呂敷が解かれ、中から現れたのは、一枚の古い丸鏡だった。精緻な彫り物の施された木枠にはめ込まれた、今まで経てきた年代を示すように、表面に僅かに曇りを生じさせた一枚の丸い鏡。
「――鏡ですね」
ご主人様は、あたりまえの事を重大な事実を告げるみたいな厳粛な口調で言った。
「これが、その想い人の持ち物ですか?」
私の口にした、当り障りのない意見に、伊坂氏は目を閉じて首を振った。
「よく見てください。私の想い人は、この中にいます」
真面目な口調で、伊坂氏が口にする。
私は、鏡の中に移った自分自身にほれ込んだ、ギリシアだかどっかの神話の登場人物を思い出していた。自己陶酔症――自分自身を愛の対象にする精神の病。ナルシストと言う言葉が浮かぶ。してみると、ギリシア神話の登場人物の名前は、ナルシスだったか?
しかし、私の偏見かもしれないが、ナルシストと言うのは、もう少し見栄えのいい人間のかかる病なのでは無いのだろうか。伊坂氏を醜男と言うわけではないが、私の期待するナルシストの外見、耽美な美男子とは程遠い。
「成る程」
ご主人様は、納得したように頷いている。
「絵里君も見てみたまえ。滅多に見れないものが見れるよ」
釈然としない私に、ご主人様が声をかけてくる。
促されて、私も鏡を覗き込む。正直、乗り気でもなんでも無い。自分の顔などは、朝顔を洗うたびに眺めている。まだ化粧をする事も無いため、まじまじと見ることは少ないが、ナルシストの気はないつもりなので、そんな必要も感じない。
「――?」
私は鏡を覗き込み、首を傾げた。
金髪碧眼。輝きそうな、艶やかで豊かな金髪は波打つように緩やかに流れ、ミルク色、卵型の小さな顔には、絶妙な配置で眉目が並んでいる。大きなアーモンド形の目には、マスカット色の瞳が、宝石のように輝いている。何か難しい顔をしているのは、口紅を塗ろうとしているせいだろう。手にした筆を小さな唇に当て、真剣な表情でこちらを見ている。全体の印象としては、御伽噺にお姫様役で登場しそうな、艶やかな美女である。更に、鏡の曇りが全体を淡くソフトフォーカス仕立てにしており、益々夢の中の光景のように現実感を消失させている。
断じて、これは私の姿ではない。
私は黒目黒髪の、おそらく純粋種の日本人である。そうであるはずだ。多分……
私はなんとなく背後を振り返ってみた。そこにあるのは、部屋の壁。後は鎖でぐるぐる巻きにされ、お札をそこら中に貼られた、黒い西洋甲冑が立っているだけだ。人の姿はない。
どうやら、私の反応は、ご主人様の予想の範囲内から、一歩も出ていなかったらしい。予想が的中したことに、満面の笑顔を浮かべている。
「これは、何の仕掛けですか?」
覗き込んでいる私自身の姿が全く映っていない以上、鏡の下に、この女性の写真が嵌め込まれているわけではないらしい。大体、静止画ではなく、鏡の中の女性は私の動きには全く頓着せず、独自に動いている。現在では、唇に紙をはさんで、口紅を馴染ませにかかっているのだ。
ほかに思いつく仕掛けとしては、機械を使った方法である。最近では、壁架け式のテレビが市販されている。電気機器の進歩の度合いは、私のようなメカ音痴には甚だ辛い物があるくらいだ。だから、鏡の形をした映像投影機が存在したとしても、別に不思議ではない。
「絵里君は、鏡の向こうの世界、と言う物を聴いたことはあるよね」
ご主人様は薀蓄を傾け始めた。これがいつも長くなるのだが、まあ、ここは我慢するしかないだろう。私に話し掛けてはいるが、お客様の伊坂氏にも同時に、現状の説明を加えようと言うところなのだから。
「はい、一応は知っています」
私は控えめに応じる。
「古来より、鏡や、静かな水面――兎に角、こちらの風景を写す物の向こう側には、こちら側とよく似た、異世界が広がっていると言う考え方が存在した。もともと、その物を写す、と言う光の働きの仕組みがよく解からなかったせいで、適当な理由をでっち上げたもの――なんて理由も考えられていたけど、兎に角、こうした考えは珍しいものでもなかった。さて、鏡の向こうの世界が、一体どうしたものか、と言うと、これは色々な諸説がある。例えば、こちら側の世界に絵里君がいるように、向こう側の世界にも、同じく絵里君、ただし左利きの絵里君が存在すると言う、文字通り、左右が逆転しただけの鏡の世界。これが最も一般的かな。――他にも、こちらと向こうでは、左右だけではなく、幸不幸や、身も心もひっくり返った、さかしまの世界があると言う説。中には、こちらとは殆ど共通項のない、全く別種の異世界が広がっていると言う説もある」
「その、諸説は結構です。実際は、どうなんですか?」
私に解説の途中で遮られ、ご主人様は少しばかり不満げな表情を浮かべた。しかし、その表情一瞬で、すぐにいつものお気楽で、なんでもかんでも楽しそうな表情になる。兎に角、この場はご主人様の独壇場で、見せ場であることを理解しているらしい。
「見てのとおりさ」
ご主人様は、鏡を私のほうに向けて示して見せた。鏡の中では例の美人が服装選びを始めていた。身体の前にイブニングドレスを示し、にっこりと微笑んで見せたりしている。
「つまりは、全く別の世界が広がっていると言う説が、正しい。――厳密には、こちら側とはさかしまの世界が広がっていると言う説も、全くの間違いと言うわけでも無いけどね」
美女は、ようやくドレスを決めたらしい。今まで着ていた服を脱ぐと、選んだばかりのドレスに着替え始めている。
しかし――
この状況は、矢鱈と質の悪い、覗きではないだろうか。向こうは覗かれていることに気が付く術はなく、平気な顔で下着姿になっている。現在の人間から見ると多分に色気のない、古風な下着姿だが、それはこの際問題ではないだろう。まさか、鏡の向こうから覗かれているなどとは思いもよらず、美女は平然と半裸体を晒している。
当然の事ながら、私の部屋にも鏡があるわけで――
「大丈夫だよ。絵里君」
私の不安を正確に見抜いたのか、ご主人様が頷いて見せる。
「この家の鏡は全て、僕が封印をしておいたから、覗きに使うことは出来ないよ」
それはご主人様に素直に感謝する。でなければ、これからはおちおち、部屋着で寛ぐとか出来そうにない。
「それじゃあ、この鏡も――」
ご主人様は、なにやら口の中で唱えながら、鏡の四隅――と言っても丸鏡だったから、上下左右を右手の人差し指でつついた。それから、鏡の中央に指を当てる。指を当てた鏡の表面に、波紋のような物が広がって行く。その波紋が消えると同時に、鏡の向こうの風景は薄れ、こちらの様子が映し出される。具体的には、鏡を向けられた私の正面からの顔が、曇った鏡に映し出されている。それはもう、何の変哲も無い普通の古い鏡だった。
「これで解決ですね」
ご主人様は、鏡を机の上に戻す。
伊坂氏は、その鏡を覗き込み、目を剥いた。
「なんて事をしてくれたのですか?」
「今回のケースの場合、言語上の修飾とかではなく、また、身分制度による壁の存在などでもなく、現実に、世界が違うのです。それを弁えて、諦めるのが一番の正解です。正直、こうした覗きに似た行為にも感心しませんので、通路は封じさせていただきました」
ご主人様が道徳に関して云々するのは身の程しらずの言い草だとは思ったが、ここは沈黙を守る。少なくとも、覗きと言う卑劣な行為を禁じることは、鏡の向こうの美女と同じ性別の者として賛同する。
「なんて勝手なことを!」
しかし伊坂氏は、激高して立ち上がった。それでも、鏡は自分の座っていた場所の隣に、大事そうに置いている。冷静なのか、そうでないのか判断がつかない。
「私の32年間の人生で、初めて見つけた理想の人。その人との間を断ち切る権利が、あなたの何処にあると言うのですか?」
正直、断ち切る以前の問題だと思う。伊坂氏の思慕は一方的なものであり、向こうの美女には伊坂氏の存在すら知られていないようだ。ただ単に、美女のほうは着替えやらの生活を許可なく一方的に覗かれていたわけで、それを禁じたご主人様の処置は正しい。
「忘れることが一番ですよ。高々身分が違う程度で、悲恋に終わった事も少なくない。ロミオとジュリエットとか言う、中坊の恋愛話なんてのがいい例です。どうしても忘れられないと言うのでしたら、アフターサービスとして、忘れさせて差し上げますが――」
「冗談じゃない。これ以上、勝手なことをしないでくれ」
伊坂氏は完全に周囲を見失っているようだ。それどころか、正気が残っているのかすら怪しい。危ない目つきで、ご主人様との間に存在した机を跳ね除け、その場所に素早く踏み込んでご主人様の首筋に手を伸ばしてきた。
誰に、命令されたと言うわけでも無い。私自身、そう命じたつもりはないのだが、手足が勝手に動いていた。
私の手は、伊坂氏がご主人様の首筋に触れるよりも早く、その腕を掴み、ねじ上げていた。体のほうも勝手に動き、伊坂氏の方に飛び込んでいた。腰に、伊坂氏を乗せるようにして、跳ね上げる。もともと、腕を極められていたせいもあって、伊坂氏は私の動きに逆らうことは出来ず、短く宙を舞って背中から床に叩きつけられていた。
「有難う、沙耶君」
ご主人様にお礼を言われ、ようやく自分が何をしたかを理解する。
「ああ、ええと」
何を口にすればよいのだろうか、戸惑ってしまう。まさか誇るわけにもいかないだろう。
私に床に叩きつけられた伊坂氏は、呼吸もままならない様子で悶絶している。
ご主人様はその伊坂氏の脇にしゃがみ込んで、その手を取った。
投げ飛ばす際に私が極めたほうの手は、ご主人様に掴みあげられ、力なく揺れている。関節が一つばかり増えてしまったようで、健康な人間には不可能な場所で折れ曲がってしまっている。
「よいしょ」
ご主人様は間抜けな掛け声とともに、その新しい関節を逆側に向かって折り曲げた。
骨の鳴る音と、伊坂氏の悲鳴が同時に聞こえ、それからご主人様が手を離すと、新たな関節は消え失せていた。
「骨折の治療ともに、気付けまでする荒業だ。凄いだろう」
ご主人様が期待していることはわかったので、疎らな拍手をして見せる。お座なり以上の代物ではなかったが、それでもご主人様は充分満足した様子で、背筋をそらせて胸を張っている。やり方や態度は兎も角、骨折を一瞬で修復するような真似は、私には出来ない。私にできるのは、単純に破壊だけである。ここは素直に感心すべきだろう。
意識を取り戻した伊坂氏は、床に仰向けに倒れたまま、自らの腕を押さえていたが、その瞳に水分が盛り上がり、次の瞬間には大粒の涙として零れ落ちた。
テレビ以外で30年配の男性が大泣きするところは、初めて見た。それは、いささか奇異な代物だった。
「申し訳ありませんが、お引き取りください。これ以上、僕に出来ることはありません」
しかし、ご主人様は、何も感銘を受けた様子でも無い。淡々と、却って興ざめしたような口調である。
伊坂氏の、世も末も無いといった感じの号泣がぴたりと止まる。すばやく身を起こすと、正座して、その場に額を擦りつけた。平たく言えば、土下座と言う代物だ。
「お願いします。何とかしてください。先刻、あなたは異世界とをつなぐ「通路」とおっしゃった。その通路を、何とかして開いていただけはしないでしょうか。私は、どうしても、彼女を忘れることは出来ません」
心から吐き出すような口調だが、ご主人様の表情は、益々冷めていく。こうした演出過剰な態度は、ご主人様の好むところではないのだ。
「忘れるのが一番ですよ。世界が違うのです。思い込みで突っ走るロミオとジュリエットを気取るのは、中学生のうちまでです」
私はご主人様の言葉に首を傾げた。そのまま、疑問を口にして見る。
「先刻から中学生中学生って、どう言うわけですか?」
「実際に読んだことがあるわけではなく、人づてに聞いた話だけど、ロミオとジュリエットってのは、それくらいの年代の男女の話なんだそうだ。しかも、出会ってから一週間かそこらであそこまで盛り上がる。僕くらいの年齢になると、とてもついて行けない世界だね」
「成る程」
私は素直に頷いた。
それに対して、ご主人様はどこか傷ついたような表情をした。
「――?」
「絵里君、君、僕のことをオヤジとか思っただろう。そりゃあ、君くらいの年代からしてみれば、僕なんて――」
「そんなこと思ってませんよ」
少しばかりうんざりしながら、私は応じた。
大体、ご主人様は年齢不詳で、私は正確な歳を知らされていない。漠然と20代半ばくらいだろうかと思っていたが、実際はもっと歳が行っている様子だ。
さて、この間、伊坂氏が何をしていたかと言うと、先刻と同じ姿勢のまま、額を床に擦りつけている。その執念だけは、たいしたものであると感心してしまう。
ご主人様、私。代わる代わるに伊坂氏に声をかけ、御退席を願ったのだが、梃子でも動かないと言う風情。こうなると、基本的に飽きっぽいご主人様は、どうでもいいような表情で私に押し付けてくる。
「あの、どう考えても、世界が違うわけですし、諦めなさったほうが宜しいのではないでしょうか?」
「お願いします」
「あの、お願いされても出来ることと出来ないことがあるわけで、ここは現実を素直に見つめて――」
「お願いします」
「あの、そう言うわれましても――」
「お願いします」
もはや、何を言っても肯定の返事以外は聞くつもりがない様子である。こう言うのを、居直り商法とでも言うのだろうか。私は両肩に重い疲労感を乗せたまま、ご主人様のほうを振り返った。
ご主人様は、人事のような顔で、本を開いている。私のほうには全く気が付いていないと言う表情をしているが、それは本当ではない。
見つめることしばし。
ご主人様の頬を、一筋の汗が流れ落ち、ついに根負けしたみたいに本を閉じた。
「ああもう。2人して捨てられた子犬みたいな表情で僕を見るんじゃない」
焦れて叫んだご主人様の言葉に、ふと視線を向けると、伊坂氏が縋るような視線でご主人様を見つめていた。
「解かったよ。解かりました。何とかしましょう」
ご主人様の言葉に、病的な伊坂氏の顔に、初めて朱が上る。ただし、頬がこけて眼窩が落ち窪んでいるせいで、顔色の良い骨格標本といった感じである。然程、好ましい見物ではない。
「とりあえず、通路を開きましょう。しかし、これには幾つかの制約があります」
「どんな制約であろうとも、守って見せます」
力強く、伊坂氏が即答する。熱意があるのは見ていて解かるが、こう言うのは安請け合いと言うのである。少なくとも、その制約の内容を聞いてから、そう叫んで欲しかった。
ご主人様も、私と同様に感じたらしく、胡散臭そうに伊坂氏を眺めたが何も言わず、なんだか投げやりな表情で解説を続ける。もう、どうでも良いとでも思っているのだろう。
「先刻、鏡の世界はさかしまの世界だといいましたが、これは単純に、右利きの物が左利きになると言う程度の話ではなく、万物を構成する物質自体から、さかしまになってきます。所謂、正物質と反物質です」
何のかの言いながらも、ご主人様は解説をする段になって、盛り上がってきた様子である。なんとも難儀な性格をしている。世の名探偵と称される人間と同じく、人の注目を集めて推理――ご主人様の場合は蘊蓄か――を述べることが最大の趣味と言う、困った性癖の持ち主なのだ。
「正物質と反物質が接触した場合、対消滅と呼ばれる現象が起きます。これは、質量のほぼ100パーセントがエネルギーに転化されますから、ほんの僅かな量の対消滅で、莫大なエネルギーを得るわけになります。正物質で出来ているあなたが、反物質で構成される世界に行った場合、その瞬間に問答無用で対消滅現象が発生し、その結果、莫大なエネルギーが出現します。このエネルギーは勿論、何の制御もされていませんから、爆発的に周囲に撒き散らされて、委細構わず破壊の嵐を巻き起こします。つまり、あなたが鏡の中の世界に行った瞬間に、爆発消滅する、と言うわけです」
果たして、伊坂氏はご主人様の説明を、どの程度まで理解しているのだろうか? その表情を見る限りでは、殆ど理解していない様子だ。どれほどの問題が存在しても、切りぬけることが出来ると言う楽天性――それどころかなお悪く、すべての問題はご主人様が解決してくれると思っているように見受ける。
「で、この問題を解決するためにはどうすればよいのか、と言えば、あなたを構成する物質を、全て反物質にしてしまえばよいのです。勿論、これは口にするほど容易なことではありません。また、それ以上に、この世界であなたが反物質になった場合には、こちらの世界を構成している正物質と反応して対消滅が起きるわけで、何の問題解決にもなりません。すなわち、あなたがあちらの世界に言った瞬間に、反物質に転換する必要があるのです」
なにやら、聞いているだけで、難しいことをしようとしていることが解かる。
しかし、伊坂氏は……解かっていないのだろうな。
「これは、正直僕の手にも余ります。余りますので、ここは少しばかり搦め手を取り、誤魔化す手段を使うことにします。この、誤魔化しの手段のために、あなたにもしてもらうことがあります――」
その後数分、ご主人様はそのしてもらうことの説明をした。伊坂氏は、それに熱心に頷き、最終的にはご主人様の厚意に対して感謝し、充分以上の謝礼を用意することを確約して立ち去った。どの道、伊坂氏のこの世界の財産は、あちらの世界に行ってしまえば、使うことが不可能な物になってしまうのだから、太っ腹と言うには当たらないだろう。
ちなみに、鏡は通路を開くための儀式が必要との事で、ご主人様が預かっている。三週間後。それが、ご主人様が伊坂氏に示した、通路を開く日である。
「しかし、ご主人様、宜しいのですか?」
伊坂氏が立ち去った後、私はご主人様に話し掛ける。
「なにが?」
「伊坂氏があちらの世界に言ったとしても、上手く行くとは限りませんよ。何しろ、向こうの世界に行けば、伊坂氏は得体の知れない異邦人な訳ですし、正直、あれほどの美人な上、部屋の様子を見る限りではかなり裕福なようですから、言い寄る人の数も少ないとは思えません。そこにのこのこ出かけていって、上手く行くと考えるのは、あまりにも楽天的に過ぎないでしょうか?」
ご主人様は、にっこりと笑った。魅力的だが、悪意に溢れる笑いだった。そして一言付け加える。
「そこまで責任はもてないよ」
やっぱり。
三週間は、長いようで然程長くはない。
特に、今回のようにすることがある場合はなおさらである。
翌日から、ご主人様はなにやら大掛かりな儀式の準備に入り、私のほうはといえば、その小間使いである。具体的には、上州屋さんになにやら怪しげな薬草の類を仕入れに出かけたり、必要とされる小物の準備をしたり、ご主人様の言いつけに従って、その薬草を調合したりといったことから、日常の雑事、食事の準備や屋敷の掃除、お洗濯などをしているうちに、あっさりと約束の日は来てしまった。
伊坂氏の外見は、一変していた。頬には血の気と、肉が戻り、ふくよかな表情をしている。「恋煩い」と言うのは既に絶滅した病気であるとご主人様には教えられたのだが、どうやら人知れずに潜伏して、人間に対する逆襲の機会を狙っていたらしい。さしずめ、昨今の結核の復活のように。
「さあ、こちらの準備は万端です。素早く、通路とやらを開いていただけますか?」
子供のようにはしゃいだ声を出す伊坂氏。
「その前に、礼金に付いてのお話をしましょう」
ご主人様はいつも通りの表情で、伊坂氏の先走りを止める。
「既にご承知のように、向こうの世界に行ったならば最後、二度とこちらの世界に帰還することは叶いません。ですから、礼金は事後に払っていただくと言うわけには参りませんからね」
「こちらが、財産の譲与のための書類です。印鑑をお持ちいただけたでしょうか」
私はすかさず、束になった書類を伊坂氏の前に示す。
伊坂氏は、鷹揚に頷き、その書類を碌に確かめもせずに署名し、捺印していく。
あまりの能天気さに、僅かに呆れる。もし、ご主人様がただの詐欺師であったならば、どうするつもりなのであろうか。「恋は盲目」とも言うらしいが、まさしく伊坂氏はこの状態であろう。鏡の美女がこちら側の住人であった場合、下手をしたら昨今はやりのストーカーとやらになっていたかもしれない。
「さあ、全ての書類にサインをしましたよ」
伊坂氏が胸を張る。
「こちらの書類、はんこが薄いです。もう一度捺印をお願いします。後、ここに記載漏れがあります。――はい、有難うございます」
私に口を挟まれ、僅かに機嫌を害したような表情を浮かべたが、伊坂氏は素直に従ってくれる。
私はもう一度、書類を確認して、ご主人様に頷く。
「それでは、始めましょう」
ご主人様の言葉に、伊坂氏は我が意を得たりとばかりに、激しく頷いて見せる。目鼻を宙に置き忘れてしまいそうなくらいの激しさだ。
「まず、この薬を服用ください」
ご主人様は、この三週間かけて、私に調合させた薬を伊坂氏に差し出す。
薬の効能は、人の体質を劇的に変えると言うことらしい。今回は、伊坂氏を構成する、正物質を反物質に変えると言う薬効があるらしい。材料は――言わないほうが華と言うものである。少なくとも、調合に付き合った私自身は、口にしたいとは思わない。ヤモリの黒焼き、蝙蝠の生き血――そんなものは生易しいといえるような材料ばかりだ。
最も、伊坂氏の熱意は、それくらいの障害は平気で克服してしまいそうだが――
伊坂氏のためにコップに水を入れて用意する。
伊坂氏は、躊躇うことなく薬を口に入れ、水で流し込む。流石に、味の酷さに顔を顰めているが、その顔に浮かんだ期待感は減少することはない。今の伊坂氏は、いくつもの艱難辛苦を耐えて、姫君のために戦う騎士のような気分なのだろう。些か、人任せの部分が多いが。
「この薬は、これから一週間の間、毎日一粒ずつ、忘れないように服用してください。後、向こうに行ってから、同じく一週間、何も触れないようにして下さい。あなたの身体が反物質に作り変えられるのに、大体それくらいかかります。それ以前に何かに触れた場合、あなたは対消滅を起こして、周囲に破壊の嵐を撒き散らすことになります」
「あの、ご主人様、空気は問題にならないのですか? 空気だって、反物質ですよね」
私の質問は、ご主人様のツボに入ったらしい。嬉そうに微笑を向けてくれる。
「勿論、それに対する備えもしています。さて、次に、今きている服、下着もです。――を全部脱いで、こちらの服装に着替えてください」
そう言ってご主人様が差し出したのは、銀色のタイツだった。ゴムのように伸縮する生地で出来ているようだが、正直、正体不明の材質だろう。
流石に、伊坂氏が情けないような表情になる。手の内のタイツを見つめ、ご主人様に縋るような視線を向けるが、ご主人様はにべも無い。
僅かな躊躇の後、伊坂氏は意を決したように頷いたので、私は着替え用に隣室を示す。目の前で着替えられても困るのである。何しろ、乙女ですから。
隣の部屋に引っ込んでしばし。
伊坂氏は、銀色のタイツ姿になって登場した。
身体にぴったりした銀色のタイツ。その格好は、大昔に信じられていた宇宙人の姿を髣髴とさせる。たしか、ジャンプスーツとでも言ったのか、てらてらと安っぽく光を跳ね返しているその姿は、まさにキャトルミューティレーションに勤しむ、グレイ以前の古き良き時代の宇宙人だ。
しかし、30年配の男性が、こんな格好をする機会はまずないだろう。精々、お笑い芸人がするくらいだ。正直、確かに滑稽ではあるのだが、見ていて楽しめる格好ではない。
伊坂氏もそれを自覚しているのか、しばらくは情けない表情で我が身を見つめていたが、すぐに気を取り直した様子だ。随分打たれ強い人間のようだ。「恋煩い」と言う病は、想像以上に人を消耗させる代物なのか、逆に、恋と言う物が、人を異常に強くするのだろうか、私には判断が付かない。
「その服も、体が作り変えられるまでは決して脱がないようにして下さい。後、このマスクも着用して下さい」
同様の素材らしい、銀色の安っぽいマスクを手渡す。目、鼻、口の部分だけ穴の開いた、覆面だ。おしゃれな銀行強盗は、決して見向きをしないような趣味の悪いもの。更に、その上から金魚鉢のような一見硝子に見えるヘルメットをつける。まさしく、古き良き時代の怪しい宇宙人だ。
「――さて、準備は宜しいですか?」
伊坂氏は、頷く。流石に、その時が近付いていることを理解したのか、全身の筋肉に無用な力がこもり、僅かな緊張感が見て取れる。
「それでは、こちらへどうぞ」
ご主人様は、先頭立って、部屋から退出する。
「あ、荷物は置いていってください。どの道、向こうの世界へは持っていけません」
続く伊坂氏が、荷物を取り上げたのを見て、私が嗜める。下手にこちらの世界の物を持ち込んだら最後、対消滅である。
伊坂氏もそれを理解し、私の言葉に従って荷物を下ろす。
身軽になった伊坂氏は、先を行くご主人様に、まるでスキップでも踏みかねない歩調の軽さで持って追いつく。下手をしたら、追い越してしまいそうだ。
ご主人様は、書斎へと向かった。
一面、本棚に囲まれた部屋の一角、そこにあった本棚の中から、一冊の本を選んで手を伸ばす。その本を僅かに引くと、どこかで歯車の噛みあうような音が聞こえ、本棚が前にせり出してくる。そして、その本棚の向こうには地下へと続く石造りの階段が現れる。まさに、お約束に忠実に従った、絵に描いたような隠し通路である。
ちなみに、この隠し通路、ご主人様の仕業ではない。まさしく、ご主人様好みの仕掛けであるが、実際はこの屋敷を建てた人物の施した物である。高利貸しを営んでいた人物と聞いたことがあるが、どうやら、ご主人様と似通った趣味の持ち主であったらしい。以前、そう指摘すると、ご主人様は嫌そうな表情になり、男の子と言うものは、秘密の部屋と言う物が好きなのであり、自分とその高利貸しの趣味が似ているわけではないと、言い訳のようなことを口にした。私は女の子なので、ご主人様の言うことの半分くらいしか理解出来ていないかもしれないが、秘密の部屋が好きなことと、実際に作ってしまうことの間には、かなりの開きが存在するのではないかと思う。ご主人様は、無ければ自分で作ってしまうタイプである。どころか、実際、幾つかの新たな地下室を、自分自身で創造している位である。
薄暗いが、不自由しない程度の明るさの階段を下り、石造りの扉に行き当たる。その扉を開くと、広い部屋が広がる。半面は上の書斎と同じように、本棚である。こちらの本棚には、ご主人様の蔵書のうちで、質の良くないものが収められている。所謂「魔術書」の類である。他にも、質の宜しくない道具の類も、この部屋にある。そのせいか、気分的にこの部屋はいつも室温が低いように感じてしまう。元々地下室であるからして、室温が低いのは至極当然のことであり、これは気分的な問題であるのだろうが、矢張り、気味のいいものではない。
部屋の半分は、殆ど物の無い空間になっている。その石の床には、所謂魔法陣と呼ばれる物が描かれていた。この三週間、ご主人様が時間をかけて書き連ねていたものだ。二つの同心円。その中には正三角形が描かれ、円の周囲と内側の余白の部分には、様々な記号や魔術文字が並べられている。その細かさときたら、同じ物を書けといわれたら絶望を感じそうな位だ。よほどの根気がなければ、これを完成させることは難しいだろう。
その魔法陣の左右には、蝋燭が点されている。その蝋燭には、独特の香が混ぜられており、部屋の中に不思議な臭いが広がっている。否が応でも、雰囲気を盛り上げる小道具である。
伊坂氏の表情は、間違いなく、緊張に支配されている。
ご主人様は淡々と、作業を進めている。何処からとも無く取り出した例の鏡を、魔法陣の中央部に配置すると、伊坂氏のほうを向いた。
「それでは、この魔法陣の中央、鏡の前に立ってください。ポーズは不要です。ただ、目を閉じて、楽にしていてください」
目を閉じて、と言うのは兎も角、楽にする、と言うのは無理な注文だろう。伊坂氏の体には、どう見ても必要以上に力が入っている。
しかし、それは問題ではないらしい。ご主人様は伊坂氏の緊張には取り合わず、最後の作業を始めた。
壁にかけてあった一本の杖を持ち上げる。先端に一本の杖に巻きついた二匹の蛇の意匠を刻み込んだ杖。カドゥケウス――そして、メルクリウスの杖とご主人様が呼ぶ代物である。それを、掲げ、ご主人様は声量も豊かに呪文の詠唱を始めた。
「――其は、扉なり。其は、門なり。其は二つの世界を結び、二つの世界を隔てるものなり――」
魔法陣の中心に配置された例の鏡の鏡面部分が、淡い輝きを放ち始める。
「我は、鍵持て門を開き、二つの世界を繋げる者なり――」
光は、徐々に強さを増していく。目に痛くない、不思議な光だった。
「彼は、そちらの世界を望む者なり――願わくばその望みを受け、扉を開き、彼を迎え入れんことを――」
光が溢れ、伊坂氏を飲み込んだ。
――それで、終わりだった。
音は無く、劇的で荘厳なファンファーレがなるわけでもなく、伊坂氏の存在は、この世界から消えていた。
ご主人様は、別に大作業を終えたと言うような感慨は無い様子で、いつも通りの表情で魔法陣の中に進み入り、鏡を取り上げる。先刻まで、光を溢れさせていた鏡は、それ以前がそうであったように、僅かな曇りを浮かせて沈黙している。
「どうやら成功だね」
私はご主人様の手元、鏡を覗き込んだ。
そこには、どこか知らない森に立つ、銀色の全身タイツの男――伊坂氏の姿が見えた。
「初めての試みだったんで、いささか不安だったんだけど、うん、うまいこと行った」
伊坂氏が聞いたら、どんな顔をするだろうか。そんなことを呟いている。
「さて」
ご主人様は、それから鏡の四隅を指で突付いた。鏡の中の像が揺らぎ、消え、そして、鏡を覗き込む私の姿を映した。
「見守らないのですか?」
私の疑問に、ご主人様は人の悪い表情を浮かべた。
「熱意だけで、色恋沙汰が上手く行くとは思えないし、鏡の向こうとは言え、対消滅――人1人の大質量が対消滅を起こした場合には、下手をするとこちらの世界にも影響が及びかねない。君子は、危険には近付かないものだよ」
興味があれば、虎の口にだって顔を突っ込む人間の台詞とは思えない。道徳業者のまねごとは、似合わないと思うのだが、私は沈黙を守ることとする。何しろ、ご主人様なのだから、そう言う気遣いくらいはせねばならないだろう。
「そんな危険があるのですか?」
「別に、絵里君の作った薬の問題とか、僕の術が負充分だとか言う問題ではないよ。ここから先は、全て伊坂氏の責任に拠るものだ。だから、僕や絵里君が責任を感じる必要は無い」
ご主人様はそう言って、鏡を近くに用意してあった、頑丈極まりなさそうな箱に放り込んだ。更に鎖でその周囲を戒め、お札の類を張りまくる。
「さて、上に戻ってお茶にしようか。今回の仕事は黒字だから、贅沢をしよう。上州屋がこの間持ってきた特別のお茶。あれを入れてくれるかい?」
「解かりました」
私は頷き、隠し部屋の階段を上るご主人様に続いた。
これで、この鏡の話は終わりだ。
蛇足ながら、その後のことを少し。
伊坂氏は、この世界から消えた。それは間違いなく、これから先もそのままだろう。
伊坂氏がどうなったのかは、私には窺う術はない。
ただ、全世界に数多ある鏡の幾枚かが、この翌日、唐突に激しい光を放って割れたと言う怪事件があったことだけは記しておこうと思う。
第1話 終
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