美濃のマーヤンと駿府のフーさんの いけいけ珍道中

遠山金四郎景元は、テレビ番組で有名な北町奉行の「遠山の金さん」です。

 この人は、明知遠山家の分家六代目にあたる人で、実在の人物です。この人の活躍した時代は、天保改革の真最中であり、老中水野忠邦のブレーンのひとりでした。

しかし、強行派の水野忠邦、鳥居耀蔵と異なり、庶民派であったようです。江戸歌舞伎三座取り潰し策を、浅草の外れに移転させ取り潰しを間逃れさせたのも景元が「芝居小屋を取り潰して、反感を買うより一カ所に集めて監視した方がよい」と水野忠邦を説得したおかげだと云われます。さて、遠山金四郎景元について以下にまとめて見ました。

明知遠山家分家系図

遠山景好→景義→景信→景好→景普→景元→景纂→景影→景之→景档

センチメンタルジャーニィー? まーやん

時代モノの話は嬉しいナ! 烏帽子姿で裾を引きずって歩む まさえもん! 裃の武士姿で登城する血気溢れる若侍 政右衛門! 大御所風に家臣を見下ろす将軍 家政候! 維新の為に、奔走する汚れた姿の 真人! それに アヒルじゃない ニヒルな凄腕の浪人 剣客トラエモン! いつも周りは盛り上がってるが もてない瓦版売り ふーたろ! そんな情景がおいらの心のスクリーンに浮かんできてるヨー 鎌倉時代の頃から由緒ある御先祖様の末裔筋にあたる 遠山政美殿は そう言われてみれば うーん なにかしら 武士の雰囲気・・

ある!ある! もう1歩! 飛躍して おいらは 夢を続けるのさ 美濃の政右衛門・・時は江戸幕府安定の頃、持ち前の才覚と器量?を発揮して・・やるときはヤル!らしい?親友鈴木寅右衛門氏の協力にて美濃一国を得る。 領民の幸せを常に考える 名君として慕われ、芳子姫を正室に迎えて いずれもあやめ か かきつばた かすみ草の 3人の美しい娘に恵まれる。

側室は好みにより・・藤純子風・上村香子風・菊川伶風を持って 毎夜、とっかえ、ひっかえの お渡り・・一杯、世継ぎをこしらえた 実に エライ 殿様だった ・・・
   
                時代ワールドにはまる  フーたろ

時代ワールドにはまる  フーたろ呑

織田信長、齋藤道三など美濃の国はかかわりが深い・・・士族の血は人を危めた歴史が長く、身内には自害するものも少なくないんだよ。 

俺んちも血気盛んなほうで 血の気が多いというんじゃないのかな。 俺んちの周りには一杯城跡がある。 こういう話ができる人は少ないし、歴史を語るのは なかx2いいもんだと思う。 ITの先走りが、歴史を辿る。 これをホリエモンたちは考えて欲しい・・・ホリエモンも歴史に残るが功績はチト寂しい。

時代はタイムスリップして、鎌倉時代  遠山氏の出自については、桓武平氏の末流鎌倉権五郎景政から出たとするもの、藤原北家利仁流加藤氏から出たとするものがあるが、利仁流加藤氏の分かれとするのが自然なようだ。 

利仁流加藤氏の祖は景通で、景通は前九年の役に活躍した鎮守府将軍源頼義の郎党であった。景通の子景貞(景清とも)が伊勢国に下向して伊勢加藤氏の祖となり、景貞−景員−景廉と続いた。景廉の代に伊勢国から東美濃に移り、治承四年(1180)、源頼朝が伊豆国で挙兵した時より仕えた。 

ちなみに、遠山とは美濃・三河・信濃の南部にまたがる山中の総名称で、その境を明確に定めることは困難である。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「遠山庄」または「江儀遠山庄」と見えている。  

いけx2珍道中が 価値あるページになりつつあるんじゃない・・・
           
                              藤原の子孫  加藤景正

 戦国時代遠山氏は、岩村城の本城を中心として十八支城と云われる城郭ネットワークを築いて甲斐武田氏に備えました。さて、以下が遠山十八支城と云われる城です。

 高山城苗木城明知城飯羽間城、串原城、鶴ヶ城、今見城、阿照羅城、馬籠城、大井城、鶴居城、瀬戸崎城、阿木城、中津川砦、幸田城、妻木城、大羅城、千旦林城、これらの城については、所在のはっきりしないものも多く私にも全ての城について分かっているわけではありません。

また、これらの城以外にも遠山氏の支城は存在します。

美濃・尾張撹乱
鎌倉時代、美濃国守護になった土岐光衡は土岐邑の一日市場に居館を設け、神篦のこの地に城を築いて鶴ヶ城と称し、四周を整えて美濃国統治の本拠とした。

その曾孫で室町時代初代の守護に任じられ土岐氏
繁栄のもとを築いたョ貞もこれに倣い、ここを美濃府城の地とした。 天正15年(1582)2月の武田との戦いでは織田信長、信忠父子もこの城に入城し、ここから、武田氏攻略の軍を発進させている。 城跡には屋敷跡や一ノ木戸、二ノ木戸、三ノ木戸、本丸がある。   
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