美濃のマーヤンと駿府のフーさんの いけいけ珍道中

 

 ◆青崩峠

遠州と信州の県境に位置し、秋葉街道最大の難所として知られました。峠付近は崩落防止工事が進んでいますが、小嵐川沿いには現在でも、青みがかった崩れやすい断崖がそびえています。国道152号は現在でもこの峠に阻まれ、分断されたままになっています
◆梁ノ木島番所

遠山土佐守景直が徳川家康の命を受け、豊臣方の落人を取り締まるために設けたのが始まりです。遠山氏滅亡後もその末裔が番所を守り、許可のない材木の搬出などを取り締まりました。

かつては青崩峠のふもとにありましたが、天明七年(1787)の山崩れによって倒壊したため、現在の小嵐川岸に移築されました。
 明治三年に払い下げられましたが、現在でも遠山氏ゆかりの宮下家の
俺んちの住んでいた所は中馬街道沿いにあったが、元の道は消えているところが多い・・・

中馬街道
信州飯田から伊奈谷に沿って南下する伊奈街道は、信州・三河境の根羽で二筋に分かれ、一つは南へ下って吉田(現豊橋)へ、一つは西南に向かって足助を通って岡崎・名古屋へ至る。 

この中馬街道の脇道として、根羽からいったん三河の大桑へ出、すぐ美濃国に入り小笠原・横道を経て、上村・明知・柿野を通って尾張の瀬戸・名古屋へ通じる街道があった。東美濃の南部を東西に走り、これらの村々を南信州と名古屋を結び付け、商い荷物の中継地となっていた。

村人の中には馬士として地方産物の運送に従事し、生計を立てるものもいた。明治初年頃、中馬街道筋の恵那郡内25か村の牛馬数は、馬が694頭・牛が89頭であり、農間稼ぎ・駄賃稼ぎの外に馬方を本業とするものがいるなど、商品の動きが活発になって来ていたことを表している。
◆小川路峠

 飯田市千代と遠山上村を結ぶ峠。一説には遠山氏が開道したといい、戦国時代に武田信玄の軍勢が通過したことで知られています。

 秋葉街道の脇道の一つとして、峠を越えたその先は飯田市松尾で中馬街道と交わります。秋葉参りの参詣人ばかりでなく、遠州方面からの善光寺・御嶽参りの参詣人で賑わいました。
◆秋葉・金毘羅碑
 長野県下伊那地方では、秋葉大権現(火の神)と金毘羅大権現(水の神)がともに祀られる場合が一般的です。

とにかく速い! マッサ1号樣

おいらがまだ,別の添付写真を送ろうとしてたら あらら×2 なんと  さっと マッサメール が跳んできたぁ! マサに 恐れ入谷の鬼子母神だね。  

先ほどのメールの間違い写真の 104617 この花の名は なぁに? この花のこの色ノモノは珍しんだそうです。 

博識!の真人さん ドゥ ユウ アンダースタンド? 判ったら次メールで アンサー を・・・ 『 ゆ う こ 』 憧れて 秘めたるその名 愛しけり マーサーの添付写真は おいらの ゆうこ が写ってるけど・・・?
    
                  川は流れる 橋の下  ふーたろ
ゆうこ
川は流れる 橋の下  ふーたろ呑

野球でいえばピッチャーが投げて、キャッチャーが捕球をしてとき もうピッチャーに届いている。 

そんな感じじゃないのかな? 又は、バットに当たった瞬間 スタンド入り・・・俺んちが送った写真がフーさんから送られたものなんて、可笑しいね。 104617 このNOは どこで間違ったのかは不明です。

フーさんの添付写真 修整してみたけど この程度までです。 白鳥が暗く 寂しい 幻想の湖ですね。
         
                     なんでも修正の マサ

上村と大鹿村との境。現在でも道中の安全を守る地蔵尊が祀られています。南朝の宗良親王が転戦のために行き来し、のちに遠山氏が江戸への参勤のために往復した峠です。秋葉街道はこの峠を越え、分杭峠・杖突峠を経て甲州街道に至ります
54
次へ