リポート06 タワシが愛したゴーストスイーパー!


 そわそわと落ち着きなく、その男は美神除霊事務所の応接用のソファーに座っていた。
 視線が定まらず、左右に踊る。過剰なまでの緊張。落ち着きを大きく損なっている。
 ざっと観察した令子は、僅かに眉をひそめ、おキヌのいれた紅茶に唇を付けて口を湿らせると、水を向けた。
「それで、本日はなんのご用でしょうか? ファーザー……ええと、ファーザー……」
「オコーネルです」
「ファーザー・オコーネル」
 ファーザーと令子が言うだけあって、そこにいるのは神父である。唐巣神父と違い、破門されていないどころか、ヴァチカンの総本山で順調に出世をしているおえら方。実は令子は面識がある。
「それで、なんのご用でしょうか?」
 もう一度、水を向ける。
 宗教関係者と言えば、金が余っていると相場が決まっている。何しろ、何もしなくてもお布施とか寄付とか寄進とか浄財とか称して大金が転がり込んでくるようなシステムが確立しているモノなのだ。しかも、税制で非常に優遇されていたりする。令子などは、宗教法人からも税金を取るべきだと思うが、マネーロンダリングや確実な集票力、政治家にとって宗教団体という奴は非常に使い勝手が良いため、おそらく無理だろう。さらには最近の選挙で、カルト教団の一つ、●●●●傘下の政党の躍進もあり、ますます、それは難しくなっている。
 全く、こちらは税金払って、そちらは払わず。全く、不公平ね。
 と、自身がしばしば脱税をしていることを棚上げして、令子は内心で愚痴をこぼす。
 令子の内心には勿論気が付かず。
 オコーネル神父は視線をさまよわせ、躊躇し、ずいぶんな時間、葛藤していたが、思い切ったように令子に向かって口を開いた。
「実は、仕事を依頼したいのです」
 それはそうだろうと、令子は内心で頷く。それ以外の訪問理由など、思いつかない。
 少なくとも、近くまで来たのでお茶を飲みに来た。そんな、心やすい仲ではない。何しろ、オコーネル神父と以前出会った時には、令子は牢屋にぶち込まれているのだ。──思い出すだけで、腹が立つ。しかし、今は客と無理矢理感情をねじ伏せ、令子はよそ行きの声を出す。
「それは、どういった?」
 再び、オコーネル神父は躊躇を見せた。しかし、それではらちがあかないと自分でも思ったのか、深く息を吐いた後、ようやく続ける。
「──最近、聖遺物が狙われているのです」
「聖遺物?」
 思わず、令子の声が裏返る。
 聖遺物とは、聖人の遺品──遺した物のこと。有名どころでは、最後の晩餐でキリストが使ったとされる杯──聖杯とか、キリストの亡骸を包んだ布──聖骸布とか。
「はい」
 神父は沈痛な表情になって十字を切る。
「確認はされていませんが、非公式に聖遺物を所蔵していた者たちの元から、奪われたという噂も聞いています」
「ん?」
 と、令子は眉をひそめる。
 なぜに、そんな情報が入ってくるのか。非公式に所有していた者が、盗まれたからと言って、当局に届け出る訳にも行かないだろう。事件は闇から闇へと葬り去られるのが普通だろう。
「ああ」
 令子の戸惑いに気が付いたのか、神父は頷く。
「どうやら、言葉が足りなかったようですね。──そう、元々は、ラプラスの予言からなのです」
「……ラプラス」
 と聞いて、令子は顔を顰める。
 ラプラスとは、全知魔と呼ばれる悪魔。行く末来し方、全てを知るもの。ヴァチカンによって捕らえられ、地下に幽閉されている。ヴァチカンの法王のなす予言は、実はこのラプラスの予言である。
「いよお、お隣さん」
 と、そいつの言葉が脳裏によみがえり、ますます面白くない。
 令子の内心にはかまわず、神父が続ける。
「ええ、ラプラスによって、警告がなされたのです。聖遺物に気をつけろ、と。扱いを間違えると、世界を滅ぼすことになる」
「世界を?」
「最悪、聖書級破壊の引き金になると。──それで、詳しく調べてみると、怪しい噂があちこちで。秘匿していた聖遺物が盗まれたと言う噂がいくつも出て参りました」
「聖遺物を──」
 令子は、静かにつぶやく。
 聖人の遺した物。それだけに、聖遺物には強大な力が宿っている物だ。
 盗難は、それが狙いだろうか?
 なんにせよ、聖書級破壊とは尋常ではないが、それはともかく。
 もしかしたら、裏のオークションで出品する可能性もある。そうなったら、ちょっとくらいは無理してでも、手に入れたい。無理をするだけの価値がある。聖遺物には、それだけの効果、力があるのだ。
 そこで、はっとする。
 神父が、令子の方を訝しげな視線で見つめている。
「……そ、それで?」
 令子は、ごまかすように先を促す。
「……」
 神父は何も言わず、大きくため息を一つ。そして、もう一度十字を切ってから、続けた。
「幸い、ローマの地下に安置されている聖遺物は無事でしたし、これからも無事でしょう。──が、それ以外の場所にあるモノについては、不安を感じざる得ません。我々としては、各地に散らばっている聖遺物を、至急、ローマに戻すことに決定しました。やはり、セキュリティーの面で一番安全なのは、ローマですから」
「はい」
 ローマの地下には、一般人の知らない牢獄や、宝物庫が存在する。そして、神父の言うように、そこのセキュリティーは世界最高のレベルだろう。ここで盗難に遭うようであれば、他のどこに置いておいても同じだ。
 しかし。
 牢獄──令子は顔をしかめる。全くもってそこは、嬉しい思い出のある地ではない。
「そこで、私は日本にあった聖遺物のローマ輸送の任を受け、この地に参りました」
「日本に、聖遺物が?」
「はい、あったのです」
 信じられないという令子の叫びに、神父は頷く。
「その力はきわめて強大。これが、何を目的にしているにせよ、盗人の手に渡るのは、なんとしても避けねばなりません」
 わかりますね、と令子を見つめる神父。
 令子は、頷く。
 盗人の手に渡るくらいならば、いっそ私が──
「おほん」
 神父が咳払いして、令子は慌ててよけいな考えを脳裏から追い出す。
「そ、それで?」
「私の──そして、聖遺物の護衛として、テンプルナイツより、選りすぐりの人間を伴って来たのですが」
 神父は、悲しそうに首を振った。
「……まさか」
「その、まさかなのですよ」
 神父は、口にしている自分自身が信じがたいと、呻くように口にした。
「既に、残ったのは私一人という状況です」
 神よ、と天を仰いで、十字を切る。
「とんでもない相手が狙っているという訳ね」
「はい」
 神父は頷き──
「私は、ローマへさらなる人員の派遣をお願いしました。そして、その願いは受理され、現在、こちらにローマ最強の戦力が向かってきております。しかし──」
「しかし?」
「彼が到着するまで、私一人では耐えきる自信がありません」
「護衛、ですか?」
 自身に期待されている仕事はそれかと、令子が問う。
「いえ、私も、もはや疲れ果てました。それに、彼が来るといっても、ここまで迎えに来てくれるわけではありません。指定の場所へ、聖遺物を運ぶ必要があるのです」
 力無く、神父は首を振る。言葉通り、消耗しきっているように見えた。
「聖遺物の輸送ですか?」
「はい」
 今度は神父が頷いた。
「是非ともお願いしたいのです。むろん、報酬は十分に用意いたします」
 きらり、と令子の瞳が輝く。
 危険? それがどうした。世の中は金である。天秤さえ釣り合うだけの金額が用意されれば、危険は避けることではない。積極的に関与するべき事柄だ。少なくとも、令子にとってはそうだった。
「ありがとうございます」
 神父は令子が引き受けてくれたと見て、喜びの声を出す。
 そして、自分の鞄から、紫の紗に包まれた、何かを取り出した。慎重きわまりない手つきでもって、それをテーブルの上に置く。
 令子は、我知らずつばを飲み込む。
 これが、聖遺物。
 噂には聞くが、見るのは令子だって初めてだ。何しろ非道くレアで、そんなに簡単にお目にかかれるような代物ではないのだ。
 瞬きすら禁じるような勢いで注目する令子の視線の先で、神父は、静かに紗を取り払っていく。
 そして、紗の下から現れた物は──
「これが、神の子、イエス・キリストの聖遺物の一つ──」
 神父は、もったいぶった口調で言った。
「神の子タワシです」


 いやな沈黙。
 それは、タワシだった。
 見事に、タワシだった。
 それ以外の物に見えるとしたら、眼科に行った方が良い。いや、もしかしたら頭の病院の方がふさわしいか。
 どちらにしろ、すこぶる付きにタワシだった。
 タワシ以外の何物にも見えなかった。
「……タワシ」
「はい、神の子タワシです」
 神父は力強く頷いた。
「かつて、キリストが荒野で悪魔に出会った時にも、最後の晩餐の時にも、ゴルゴダの丘への道行きの時にも、常に傍らにあったタワシです」
「……なんの冗談?」
 令子は、絞り出すようにして口にした。
 非道く物騒な口調。横島だったら、大あわてで命乞いを始めるだろう。それくらい物騒な口調。
 しかし、神父の方は心外だという顔をした。
「私は聖職者です。嘘を口にしたりはしませんよ」
「じゃあ、これが本当に聖遺物だと?」
「それ以外の何に見えるんですか?」
 それ以外の何かにしか見えない、と、令子は思ったが、我慢して口に出すのは避ける。
 要は、お金さえいただければいいのだ。その金額が釣り合えば、引き受けるし、そうでなければ断る。それだけのことだ。これがただのタワシであろうが聖遺物であろうが、どちらでもかまわない。いただく物さえいただければ。
 それは、常の令子の考え方。
 しかし今回、令子は自分でも、必死でマインドセットをしているような気分になった。
 令子は頭を振り、やる気については一時棚上げして、必要と思える情報を求めた。
「他に、情報をいただけますか? どこへ運べばいいのか。妨害者について判明していること。その他、思いつくことを全て」
「運ぶのは、三丁目の教会へ。期限は、今日の午後三時までに。その時には、ローマから最強の男が到着している予定になっています」
 それほど、遠くはない。歩いてでもいけるだろう。時間的にも、十分以上な余裕。
 このあたりは悪くない。
「妨害者については──恐ろしいことです」
 神父は言って、沈痛な表情を浮かべた。またもや、十字を切る。口にするのも恐ろしい。そうした風情だ。
「それで?」
 令子は容赦なく、先を促す。これは、重要な情報である。敵を知っている、知らないでは、危険度が大きく違ってくる。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。これは、真理である。逆に、知らない場合の危険は桁外れになる。
「正体は、わかりません」
「正体不明? 襲われたのよね?」
「は、はい」
 またもや、十字。
 令子は、顔をしかめた。襲撃して、それでもなおかつ、正体を知られていない。これは、かなり厄介な相手かも知れない。
「それで、襲撃の手口は?」
 口にするのも恐ろしい。逡巡。しかし、令子に強く促され、神父はようやく口を開く。
「……私は12人の護衛を連れておりました。そのうちの半数が──」
 手で顔を覆い、神父は首を振る。
「……半数は?」
 令子も自然、慎重な口調になって尋ねる。
「──半数は、……ああ、恐ろしい。神よ──半数は。──そう、彼らは、地面に落ちていたバナナの皮を踏んで転び、再起不能の負傷を──」
「なんて恐ろしい──て? え? バナナの皮?」
 令子は神父の沈痛な口調につられて頷き、直後、我に返って素っ頓狂な声を出した。
「はい。バナナの皮です」
 神父は、沈痛な表情のまま、重々しく頷いた。
「敵は狡猾にも、バナナの皮を床に。──踏んだ者は例外なく転び、頭を打って意識不明の重体です」
「……バ、バナナの皮」
 呆然とした表情で、虚ろな声で、令子は繰り返した。
 何か、非道く質の悪い状況に陥っている。まっとうな状況ではない。頭の中で、激しく警鐘が鳴り響く。一刻も早くこいつを追い出して、日常に復帰すべきだ。それが、一番の冴えたやり方だ。そう思い、しかし、全ての気力が尽き果て、動く気になれない。
 そこへ、神父の言葉が続いていく。
「他にも、絶妙な場所に配置されていたタンスの角に足の小指をぶつけ、負傷退場した者が二人。ホテルの扉に、ちゃんと「ドントディスターブ」の札を掛けておいたのに、しかも、モーニングコールなど頼んでもいないのに、朝早くに起こされ、ノイローゼになった者が一人。無言電話の繰り返しに精神を病んだ者が一人。上履きの中に画鋲を入れられ、それと気が付かずに履いて負傷退場した者一人。椅子の上に仕掛けられたぶーぶークッションに気が付かずに腰を下ろし、恥をかいて人間不信になった者が一人。おお、神よ。──美神さん、敵は恐ろしく狡猾で、残虐です。私自身、ソースと醤油のラベルを付け替えられ、今日の朝ご飯は、……朝ご飯は。──ああ、もう思い出したくもありません。なぜに、あれほど非道な真似が出来るのでしょうか? 私には、理解できません。そう、アレは、人間の所行ではない。悪魔の仕業です。恐ろしい。本当に恐ろしい」
「はあ、左様で……」
「兎に角、私は疲れました。疲れ果てました。──後は美神さん、あなたにお願いします。どうか、どうか聖遺物を無事、運んでください」
「はあ……」
 令子は、呆然としたまま、──何も考えられてないでいるのを自覚したまま、ブリキのおもちゃのようなぎこちない動きで、しかし確かに頷いた。
 頷いてしまった。


 神父は、くれぐれもお願いしますと繰り返し、どこか煤けたような背中を見せつつ退場した。
「引き受けた以上は、きちんとしないと不味いんじゃないんですか?」
 令子の命令に従って玄関口に塩をまいて戻ってきたおキヌが、自身の席で不機嫌な表情をしている令子に声を掛けた。
 そう、引き受けてしまったのだ。
 確かに、金額的にはおいしい仕事だ。非道く美味しい。ここのところ、殆どなかったくらい、美味しすぎる仕事。そう、美味しい。美味しいはずなのだ。きっと美味しい。美味しいに違いない。
 しかし、令子は全く気乗りしていなかった。莫大な報酬。しかし、天秤が釣り合ってはいないのではないかという懸念が、どうしても頭から離れない。
「……横島君は?」
 令子は、不機嫌な表情のままで、おキヌに尋ねる。
「横島さんは、シロちゃんと一緒に散歩に。今日は珍しく、タマモちゃんもついて行っていますね」
 今日は仕事がない予定であったため、出かけるのを許している。しかし、タマモまでついて行ったというのは珍しい。
 天井を睨んで僅かに考え、その理由に思い当たる。
 そう言えば、昨日は横島の給料日であった。
 珍しくタマモがついて行ったのはそれ故だろう。おそらく、横島はきつねうどんをおごらされているに違いない。さすがは傾国の魔物、金毛白面九尾の狐の生まれ変わり。──と言うには、ちょっとセコイか?
「帰ってくるのを待つ──のも、時間がないか?」
 シロとの散歩。どこまで行った事やら想像も付かないし、想像もしたくない。想像だけでも、非道く疲れそうなのだ。特に今のような精神的に消耗している時には特に。これ以上疲れるのは、勘弁して貰いたい。──兎に角、横島らがいつ帰ってくるかはわからない。となれば。
「仕方がない、か」
 自身を叱咤して、令子は立ち上がる。
「おキヌちゃん、出かける準備を」
 既に、聖遺物はしっかりと梱包されている。紗に包み直し、呪縛ロープでぐるぐる巻きにし、その上にはお札を貼りまくった。そして、頑丈きわまりない耐圧耐爆のスーツケースに収めてある。アダムだってこれで運べそうなくらいだ。
 過剰なまでの梱包? いや、これが聖遺物であるならば、これでも不足かも知れない。
 本心を言えば、中身を見たくも想像もしたくないと言う所か。こうしておけば、只のタワシを運んでいるようには見えないだろう。見えなければ、少しは気が楽──かもしれない。
 令子はスーツケースを持ち上げ、おキヌをお供に事務所の外へ出ようとする。
 第一歩を踏み出しかけて──何かが、脳裏で警鐘を鳴らした。
 何か。
 それは、山勘とか第六感とか言うモノだろうか?
 そして、令子は素直にそれに従う。これまで、そうした勘に、何度も助けられている。
 疑うことなく、踏み出しかけた足を引っ込め、地面を見る。
 そこには──
 そこには────
 なんと、バナナの皮が転がっていた!
 おまけに、わざわざ水をまいたらしく、周囲は泥濘になっている。
 下手に踏み出していれば、バナナの皮で滑って転び、泥だらけになると言う寸法だ。
 そのダメージが如何ほどになるか、想像すら不可能だ。
 恐ろしい、恐ろしすぎるトラップ。
「どこが恐ろしいか!」
 令子は叫び、直後、ぐったりと脱力した。
 肩を落としたまま、令子は一歩下がって扉を閉ざす。
「美神さん?」
「もうやだ。私、今日はお家帰って寝る」
「──って、美神さん、仕事を投げ出すのは」
「もう、こんな仕事はいや!」
 令子が癇癪じみた声を出した時、外から賑やかな声が近づいてきた。


「なかなかやるじゃん。さすがは美神令子じゃん」
 電柱の影に潜んだ女が、美神所霊事務所の入り口を見つめながら呟いた。
「ヴァチカンの役立たずとは違うって、訳じゃん?」
 言って、女はもぐもぐと口を動かした。
「兎に角、あの女が出てくるならば好都合じゃん。いつぞやの恨みを晴らさせて貰おうじゃん」
 女の足下には、生産されたばかりのバナナの皮が、山積みになっていた。


 扉の外に、声が近づいてくる。
 耳を澄ますまでもなく、その正体は知れた。
「こら、シロ、少しは落ち着け!」
「後少しで事務所でござるよ。先生、ファイトでござるよ!」
 横島とシロ。
 声は、すばらしい早さで近づいてきている。
 どうやら、シロが力一杯横島を引っ張っているらしい。タマモはおそらく一歩引いた場所で、「ガキね」とでも言う視線を二人に向けているのだろう。
「美神さん、横島さんが帰ってきましたよ」
「横島君が?」
 お家帰る〜と繰り返していた令子が、元気を取り戻して立ち上がる。
 にこやかな表情で扉を開ける。おそらく横島に仕事を押しつけ、自分はバックレようとでも思っているのだろう。
「横島君!」
 その瞬間。
「うわっ、でござる!」
「なんだ〜」
 シロの叫び。
「あ」
 おキヌが口元を押さえる。
 油断しまくり、張り切りまくりで進んでいたシロは、当たり前のように、事務所の入り口に転がっていたバナナの皮を見落としてしまったのだ。
 バナナの皮を踏めば、滑って転ぶ。
 これは、この世の真理である。例えば、郵便ポストが赤いのと同じくらいに。
 そして、いくらシロが人狼族の少女とは言え、この世の真理からは逃れられなかった。
 シロがバナナの皮を踏んづけ、滑って転び、地面に背中から落っこちる。
 次いで、シロに引っ張られていた横島も、地面に引き倒される。
 二人は、泥濘の上に派手にすっころんだ。
「いてて、この馬鹿犬!」
 引き倒された横島が、まるでアシュラ男爵のように、体の右半分だけを泥だらけにした格好で身を起こし、叫ぶ。
「犬ではないでござる。拙者は狼でござるよ!」
 答えながら起きあがったシロはと言えば、体の前面は無事だが、背中が泥だらけになっている。
「うるさい、口答えすると、薬殺するぞ!」
 いつものやりとりを繰り広げる横島、シロ。
 が。
「横島く〜ん」
「シ〜ロ〜」
 と、地獄の底から響いてくる様な声で呼びかけられて、舌戦を中断する。
 二人してびびりまくった表情で視線を巡らせると。
 泥だらけになった令子と、泥だらけになったタマモが物騒な視線で二人を見下ろしていた。
 被害を受けたのは、シロと横島だけではなかったのだ。
 シロと横島が転んだことによって、周囲に、盛大に泥がまき散らされた。それは、横島らを迎えようとして、ちょうど扉を開けた令子に。二人の横を、「ガキね」という視線で見ながら歩いていたタマモに。二人に、情け容赦なくぶちまけられたのだ。
 そして──惨劇。


「全く、ずぶ濡れじゃないの! 風邪を引いたらどうしてくれるのよ!」
「全くよ、この馬鹿犬!」
「……拙者は、犬ではないでござる。狼で──」
「何?」
 訂正しようとしたシロは、令子、タマモの物騒な視線で睨み付けられ、尻切れトンボに言葉を途切れさせる。その横には、ずたぼろになった横島が、泥に埋もれるようにして倒れている。
「あああ、横島さん」
 ぴくりとも動かない横島に、おキヌがおろおろと右往左往するが、他の人間は全く無視している。どうせ、この程度で横島がどうにかなるはずがないのだ。日常茶飯事という奴である。
「兎に角、ひとっ風呂浴びて綺麗にしないと」
 令子が、泥だらけになった服の裾をつまみながら呟く。
「背中流しましょうか? まずは、脱ぐお手伝いですか?」
 速攻復活の横島。ぴょこんと跳び上がって、令子に迫る。
「誰が頼むか!」
 迎え撃つのは令子の右ストレート。
 再び横島が平たくなる。
「横島君、あんたは仕事よ」
「仕事ッスか?」
 鼻を押さえながら、横島が顔を上げる。
「これを、三時までに三丁目の教会まで運ぶこと。良いこと、一分一秒だって遅れたら許さないからね。──すぐにかかりなさい!」
「あの〜。その前に、俺も風呂に入りたいんですが……」
 横島の格好も、泥だらけである。しかも、伸されて泥濘の上に沈んだため、美神らの比ではない。既にアシュラ男爵どころか、全身泥だらけ。泥田坊の出来損ないみたいになってしまっている。
「……そうね」
 美神は、冷たい視線で横島を上から下まで眺め、頷いた。
 それから、その視線のままで周囲を見回し、それを見つけた。
「あの、美神さん、何を?」
 おそるおそるという声を出す横島ににっこりと笑い。しかし、瞳は全く笑わずに、令子はそれを、真っ直ぐに横島に向けた。
 向けたモノはホース。勿論、反対側の先は、蛇口に引っ付いている。
 そして、令子は全く躊躇せずに、蛇口を捻った。
 蛇口の勢いよく、水が横島めがけて吐き出されていく。
「うわっ、美神さん、ちょっとタンマ。冷たっ。これはいくら何でもひど……がぼがぼ!」
 慌てて逃れようとするも、令子は逃さず。存分に、横島に水をぶっかける。いい加減たまりまくっていたストレスが、この機会に一気に吐き出された。そんな格好だ。
 たっぷり水を掛けて。
 さすがに横島の体から泥が落ち。
 令子は、どこかすっきりしたような顔で、ようやく水を止める。
「美神さん、いくら何でも非道いんじゃないですか!」
「うるさい!」
 横島が怒鳴るが、それ以上の大声で、令子が怒鳴り返す。
 うっ、と僅かにおびえを見せる横島。そして、一度怯えを見せたら、令子は見逃さない。令子に勝てるわけがない。
「兎に角、あんたはすぐにそれを持って仕事に出かける! 駆け足!」
「は、はい」
 非道く理不尽だと考えつつ、横島は脱兎の如く逃げ出した。


「ふふん。あのぼーやが運ぶんじゃん」
 電柱の影の女は、にやりと笑った。
「だったら、奪うのも楽勝じゃん」
 横島がアシュタロスを倒す際に、重要な役割を果たしたことを、女も知っていた。しかし、女にはそれ以前の、間抜けな横島の印象の方が強かった。
 だから、なんの問題もなく、任務を果たすことが可能だと考えた。
 そして、女は横島を追いかけようと電柱の影から一歩踏みだし──
 自分の生産したバナナの皮を踏んで、すっ転んだ。


「ひっくしん!」
 横島は、くしゃみをしながら、道を歩いていた。
 さすがにこの時期、濡れたままの格好で街を歩くのはきつい。
「う〜、このままじゃあ確実に風邪を引くぞ」
 ずるずると鼻をすすり、先を急ぐ。
 兎に角、早めに仕事を済ませて帰って休もう。それが一番だ。
 そう考えて、横島は先を急ぐ。
 その足下には、大量のバナナの皮が転がっていた。
 横島はそのことに全く気が付かず──しかし、一つも踏むことなく、先へと進んでいった。


「どうして、一つも踏まないんじゃん」
 いらだたしげに、女が舌打ちする。
 後頭部に、でっかいたんこぶが出来ていた。それが痛み、ますます女をいらだたせる。
「もう、こんな迂遠な方法は止めるじゃん。あいつは、私が直接殺すじゃん」
 女は笑い、一枚の羽を手に、横島を睨み付けた。


 横島は、道を進んでいく。
 周囲の人が、うろんな表情を横島に向ける。
 ずぶぬれの横島である。それも、当たり前の話だ。
「兎に角、いそご……」
 視線から逃れるように、こそこそと進む横島。
 そして。
「へっくしゅん!」
 大きく、くしゃみをする。
 それに、一拍遅れて、大きな音が響いた。ガラスの割れる音。
「なんだ?」
 首を傾げて振り返ると、横島の近くの、ガラスのショーケースが粉々になっている。
 どうやら、これが割れた音らしい。
 と、納得しつつ、横島は首を傾げた。
「なんで、割れたんだ?」


「……美神令子の母親といい、あいつといい」
 ぎりぎりと歯ぎしりしつつ、女はいらだたしげに吐き捨てる。
「何で私の狙撃をくしゃみ一発で避けるんじゃん?」
 非道く、プライドを傷つけられた表情で。
 しかし、直後にその傷を、怒りに変換する。
 女は、手の中に幾枚かの羽を握る。
「一発で駄目なら、連続で行くじゃん」


 横島は、先を急ぐ。
 なぜ、ガラスが割れたのか。
 まあ、どうでも良いことだ。
 この世の中には、不思議なことはいくらでもあるのだ。
 それよりも今は、早い所仕事を済ませたい。
「ひっくしっ」
 そこで、くしゃみ一発。
 また、何かの割れる音。
「ん?」
 と首を傾げた横島だったが、よそ見がすぎたのか、何かに蹴躓いた。
「お、おっとっとっと」
 蹈鞴を踏み、転がりそうになりながら、前に進んでいく。
 横島を追いかけるように、連続して響く破壊音。
「やれやれ」
 何とか転ぶのを避けた横島は、大きく安堵の息を吐くとそのまま先を急いだ。


 砕けた塀。へし折れた街路樹。扉に穴が開いた車。根本付近を削られた電柱。
「……」
 女は、破壊の跡を見つめ、顔を顰めていた。
 連続攻撃は、全てかわされた。
 しかも、腹立たしいことに、相手は攻撃されたことに全く気が付いていなかった。
「人を非道く馬鹿にしてくれるじゃん」
 横島の向かった方角を眺め、女が呟く。
 そこへ。
「おい、そこのあんた、危ない! 逃げろ!」
 せっぱ詰まった声が、横合いで上がる。
「ん?」
 と、人ごとのような顔をしてそちらを見た女は、その叫びが自分に向けられてのモノであることに気が付いた。
 なぜ?
 と、首を傾げた女に、影が落ちる。
 そして、影の元の方に視線を向けると。
 根本を削られた電柱が、女の方に倒れてきていた。


 横島は、道をほてほて歩いている。
 その姿に緊張感は皆無。
 非道く、隙だらけに見えた。
 それを、車のフロントガラス越しに、女が見つめている。
 非道くいらだたしげな表情をした女の格好は、どこかよれているように見えた。
 上物のスーツ。しかし、どこかくたびれている。荒んだような印象がある。
 それを、当人も自覚しているのか、ますますいらつきが募る。そんな感じか。
「点の攻撃は避けられるじゃん」
 女は、呟いた。
 女の得意技、フェザーブリッド。ブリッドと言うだけの破壊力は持っているが、あくまで点の攻撃である。
 それを、これまでかわされてきた。
 ならば、かわせないような攻撃に──避け辛い攻撃をすればいい。
 具体的には、面の攻撃。
 そこで、女はトラックの運転席にいた。
 これで、横島めがけて突っ込む。
 銃弾よりも広い範囲を攻撃できる。
 あんな風に緊張感無くほてほて歩いている人間に、かわせるはずがない。
 女は、にやりと物騒な笑みを浮かる。
「死ねよや〜!」
 そして、叫びを上げてアクセルを床まで踏み込んだ。


 横島は、ほてほて歩いていた。
「いかん、頭が痛くなってきた。本気で風邪だぞ、これは」
 もはや、寒いのは通り越してしまった。
 さすがに、この時期にずぶぬれで街を歩くのは、無理があった。
「労災は──でないだろうなあ」
 ぼんやりと呟く。
 労災が出るくらいならば、それ以前に、労働基準法違反の給料その他が改められているだろう。
「うう、美神さんは鬼や……」
 ぶつぶつと呟く横島。
 そこへ。
「きゃ〜」
 と、女の子の悲鳴が聞こえた。
 ぼんやりしていた横島だが、それでも、女の子の悲鳴を逃す事だけは無い。
 即座に、そちらに視線を送る。
 そして、20メートルくらい先で、自転車の女の子が転んでいるのを発見した。
 女の子はスカート履き。
 それも盛大にまくれ上がり──その中の白いモノが見えていた。
「大丈夫ですか? 美しいケツ〜!」
 次の瞬間、横島はその少女の脇にいた。
 彼我の距離を一瞬で零にする、恐るべき移動力。
 びくりと、女の子が横島の発言に驚き、自分の格好を自覚して慌て、スカートの裾を直す。
 それを残念そうに見つめながら、横島がさっと手を伸ばす。
「痛いですか? さすりましょうか?」
「いや〜!」
 その伸ばした手の助平さに、女の子が悲鳴とともに横島の横面をはり倒す。
 同時に、先刻まで横島がいたあたりで、大きな衝突音が響き渡った。


「お、おのれ……じゃん」
 額から血を流しつつ。
 女が、よれよれとトラックから降りてくる。
 目標を確実にとらえたと思った瞬間、その姿が消え失せた。
 信じがたいが、かわされた。
 しかし、女の運転していたトラックの方は急制動も間に合わず、そのまま歩道を通り越して、その向こうに突っ込んでしまった。
「くそっ」
 いらだたしく吐き捨て、そこで初めて、女は自分の鼻腔を擽る臭いに気が付いた。
 これは──
 ガソリン?
 見れば、大あわてで逃げていく人々。
 振り返れば、トラックに押し倒された給油機。そこから、透明、僅かに茶色がかった液体が盛大にあふれ出てきている。
 どうやら、ガソリンスタンドに突っ込んだらしい。
 女がそれを理解した瞬間──
 トラックが爆発した。


 横島は、約束の教会にたどり着いていた。
「やれやれ、やっと着いた」
 ほっと安堵の息を零す。
 寒くてほっぺが痛いのは辛いが、これくらいの仕事ならば余裕である。やはり、危険度が零の仕事は非常にありがたい。何しろ横島は、金と安全を天秤に掛ければ、安全の方を選ぶ人間だ。令子とは違う。──女がかかるとその限りではないが。
「おや、あなたが美神所霊事務所の?」
 声がかかり見ると、教会の前には神父らしき人物が立っていた。
「あ、はい」
 横島は頷き、その人物を観察する。
 身長2メートル以上の大きな神父だった。くすんだ金髪は短くしてあり、顎周りは短い髭に覆われている。左の頬には大きな刃物傷。そして、丸眼鏡を掛けている。ちょっぴり、びびって引いてしまいそうな感じだが、丸眼鏡の向こうの瞳は優しい。
「あなたが、アンデルセン神父ですか?」
「はい。そうです」
 アンデルセン神父は、穏やかに頷いた。
「私が、アレクサンデル・アンデルセンです」
「あの、それじゃあ、こちらが」
 横島は頷き、アンデルセン神父にスーツケースを手渡す。
 アンデルセン神父は頷いて受け取り、開いて中身を確かめる。
 横島は興味津々でのぞき込み、最終的に出てきたのがタワシだったことに首を傾げる。
 なぜ、タワシにこれほど厳重な封印を?
 首を傾げるが、アンデルセン神父の方は納得したように頷いた。
「確かに」
 再び、丁寧に封印を施してスーツケースを閉ざすと、にこやかな笑顔を横島に向ける。
「本当にありがとうございました。あなたの勇気に、神と子と精霊の祝福を──アーメン」
 十字を切り、横島に挨拶するアンデルセン神父。そして、そのままそのまま教会の中に向かおうとする。
 そこへ。
「……待つじゃん」
 声がかかった。
 そちらを向く、横島とアンデルセン神父。
「お前は──確か、ハーピー!」
 横島は、記憶を探り、そいつの名を呼ぶ。
 ハーピー。かつて、メフィストの転生が美神令子と知られていなかった頃、只、時間移動者という手がかりから捜索が掛けられていた頃。覚醒した時間移動者である令子の母、美神美智恵を狙い、ついでにその一族も根絶やしにしようと子供時代の令子も狙って襲いかかってきた妖怪である。勿論退治されたが、おそらくはアシュタロス戦役の際に復活し、アシュタロスが倒れた後はどこかに隠れていたのだろう。──そうした妖怪悪魔は多い。
 しかし。
「……何でお前、ぼろぼろなんだ?」
 横島の言葉通り、ハーピーはぼろぼろだった。全身が黒く焼けこげている。未だ、煙が上がっていたりもする。
 この言葉に、ハーピーのこめかみのあたりで、何かが切れる音がした。
「貴様。貴様だけは、絶対に許さないじゃん!」
「……何怒っているんだよ」
 うっ、と、その剣幕に腰を引く横島。
 その、何もわかっていない態度が、ますますハーピーを怒らせたようだ。
「殺す!」
 と、前に踏み出したハーピーだが。
 横島との間に、アンデルセン神父が割り込んだ。
「何を邪魔するじゃん! お前も死にたいのか、じゃん」
「五月蠅い!」
 アンデルセン神父が、叫んだ。
 先刻までの温厚な口調ではない。どう猛で危険きわまりない、叫び。
「化け物がしゃべるな!」
「な?」
 先刻までの態度とのギャップに、驚きの表情になる横島。
 それにかまわず、アンデルセン神父は叫ぶ。
「この私の眼前で、化け物が歩く。唯一の理法を外れ、外道の法理を持って通過を企てるモノを──教皇庁が!、第13課が!、この私が許しておけるものか!」
「なにじゃん、こいつ」
 ハーピーも、怯えたように一歩下がる。
 その眼前で、アンデルセン神父はすらりと銃剣を抜き放ち、言った。
「貴様は震えながらではなく──藁のように死ぬのだ」
 そして。
 ハーピーの悲鳴が響いた。


私の愛したスパイ
 確か、007でこんなタイトル無かったっけ?
 未見。
 元々、失われたタワシ(「失われた私」、原題は「シビル」)と言うタイトルで考えていたお話ですが、タワシが全然失われない内容になってしまったため、新しいタイトルをと言うことで、急遽考えたタイトル。
 内容についても……火浦功。
 まあ、笑って許せる度量の広さをお願いします。
 少しずつ、伏線をまき散らしつつ、最終的な──最終的な「破綻」に向かっているような気がする。
 本当に収集つくのでしょうか?
 ぬるい目で見守ってください。

 あ、アンデルセン神父は二度と出ません。──たぶん。

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