ウェンディは扉の前で呼吸を一つ、気持ちを落ち着ける。
 彼女はアールコートの部屋から移動すると、別室の前にいる。
 こちらの部屋も、重要人物が利用している。きっぱり、アールコート以上の重要人物である。そして、現在使い物にならないと言う点では、アールコートと同じだった。
「失礼します」
 ノック、それから小さく声をかけ、扉を開く。
 返事を待つのは、無駄なことなのだ。
 扉を開くと、思わず鼻を押さえたくなるくらいの、濃密なアールコールの臭いが溢れる。この部屋の中にいれば、生きたまま、JAPANのピクルス──漬け物の一つ、奈良漬けになってしまえるのではないか、そう考えてしまうほどの、濃密すぎるアルコールの臭気。
 部屋の中は、整頓されている。見事なくらいに。
 一言で言ってしまえば、殺風景。そして、アルコールの臭気を抜きにすれば、見事なまでに生活感がない。ベッドは全く乱れておらず、使用した痕跡すらない。メイドであるウェンディがベッドメイクをしたわけではなく、この部屋に彼女が住み着いて以来、変わらず、そのままの形で存在していた。
 この部屋の住人。
 マリス・アマリリスは文机に向かい、グラスを傾けていた。
 ウェンディが入室したことにも気が付いていないのか、そのままの格好で、酔眼を宙にさまよわせながら、グラスを傾けている。傾け続ける。
 机の脇には、夕べから消費したらしいアルコール飲料の瓶が、きちんと整頓されて並べられている。種類は雑多。一口飲めば火を吹けるようになるのではないかと思えるほどの高アルコール濃度のヘルマンのモノから、リーザス産、JAPAN産、ゼス産と、近くにあったモノを、種類を問わずに手当たり次第、全て取り寄せたと言った具合。チャンポンもこれに極まれりという感じ。数の方は、普通の人間ならば、一日でアル中になれること請け合いの膨大さだった。
 マリスは、グラスを傾ける。
 まるで水でも飲むようにあっさりと、アルコールがその喉を通り過ぎていく。
 それから、瓶を掴むと注ぎ足そうとして、酔いのせいで手元が狂ったのか、倒してしまう。零れるアルコール。マリスは、それを気にした風でもなく、僅かに慌てることもなく、瓶を持ち上げると、コップに注ぎ足す。零れた、そんなことはどうでもいい。そう言う態度。かつての、完璧に制御され、礼儀を守っていたマリスを知る者からすれば、信じがたい眺めだったかも知れない。
 今更、この部屋がアルコール臭くなるなどの心配は無用。
 とは言え、僅かに慌て、ウェンディは拭いにかかる。
 マリスは、その様を見るともなしに見つめていた。
 そして、口を開く。
「……アルコールのおかわりを」
 アルコール臭い呼気と共に、ウェンディに告げる。
「これ以上は、お体に毒です」
 意を決して、諫言する。
 しかし、マリスの表情は変わらなかった。再び、口を開く。
「アルコールを」
「……」 
 ウェンディは沈黙した。
 これが、リーザスの内外に名を知らしめた才女──ランス王に言わせれば、スーパー才女のマリス・アマリリスの今の姿だった。


 リア王妃暗殺。
 その後、ほぼ半狂乱になったマリスである。
 マリスは、只リア王妃の為に働いてきた。リア王妃の為だけに働いてきた。陰謀を巡らし、時には、自らの体も謀略の足しにして、どんな汚れ仕事も厭わず、只、リア王妃の為だけに。
 リーザスの統一戦争。
 リーザス軍に名将、勇将数あれど、最大の功臣は、このマリスだろう。マリスは、一度も戦場に立ったことはない。剣を取り、敵の一兵たりとも倒していない。しかし、マリス不在ではリーザスの統一はなかった。それは、誰もが認めるところである。
 マリスは、リーザスの内政、外交──軍事以外の全ての分野を破綻無く運営し、ランス王の統一を助けた。いや、軍事ですら、補給、論功行賞──兎に角、戦場での働き以外の全てが、マリスの仕事だった。そして、マリスはそれらを完璧にこなした。
 しかし、それもランス王への忠心からではない。
 只、リア王妃がそれを望んだからである。リア王妃が望まなければ、指の一本だって動かさなかったに違いない。
 それほど、リア王妃に傾倒していたマリスである。
 マリスにとって、リア王妃の死。その衝撃は、大きかった。大きすぎた。
 直後、とても冷徹な才女とは思えないほどに取り乱した後、マリスは逃げるように酒に耽溺した。
 リア王妃不在のリーザス。そこに、マリスは何の価値も見いださなかった。
 ラファリア派と、二十一派の分裂。
 おそらく、それを収めることの出来た唯一の人物でありながら、マリスは傍観者の態度をとった。いや、傍観すらしていない。只、自室に籠もり、世の全てから目を背けて酒に溺れていた。
 どうなろうが、構わない。
 リア王妃不在のリーザスなど、分裂しようが滅亡しようが構わない。いや、リーザスだけではない。この世界が滅びたとしても、マリスは眉一筋たりとも動かさなかっただろう。
 生ける屍。それが、今のマリスだった。
 何の役にも立たない。只のお荷物。
 しかし、エクスらにはマリスを見捨てることは出来なかった。
 その復活を望む気持ちは、勿論ある。特に、軍事面での作戦立案に定評のあるエクスにしても、内政分野は専門外である。是非とも、復活して欲しい。その思いは、間違いなくある。
 そして、ラファリアとマリスの関係もまた、マリスを放置することを危険だとエクスに判断させた。
 アールコートの場合もそうであるように、マリスもまた、ラファリアの粛正リストの上位に連なる存在である。
 ランス王がまだリーザスに君臨していた頃、ラファリアはあの手この手で出世の糸口を掴もうと躍起になっていた。そして、多くの場合、やりすぎていた。
 それをやんわりとした口調で、しかし断固として窘めたのがマリスである。
 更に、ランス王不在となってから、更にやりすぎを続けたラファリアの更迭を考えていたマリス。
 ラファリアにとって、放置しておける存在ではない。
 現在、正統リーザスの国母の座──最大の権力者となったラファリアである。この機会に、気にくわない人物の粛正を考えるのは確実と見て、エクスは早い段階で、アールコート共々、マリスをリーザス城から脱出させたのである。
 間違っても、マリスは、こんな所で命を落として貰って良い存在ではない。軍部の一実力者であるアールコートなどよりも、内政その他の分野の実力者──と言うよりは化け物、マリスである。特に軍部に人材が傾いているリーザス、その価値は高い。
 しかし、今のマリスは生ける屍だった。
 何もしない、何も出来ない。
 只、アルコールを日がな一日飲み続ける。
 只、それだけしかしなかった。


「アルコールを」
 再度の要求。
 マリスは、ウェンディにとって、アールコート以上の難物だった。
 かつての、才女と言われた時分の記憶もある。あの頃のマリスは、自分などとは、全く格が違った。気弱な女の子としての素顔を持つアールコートであればともかく、私生活まで完璧に制御されていたマリス。とてもじゃないが、相手にもならない。
 そして、今。
 アルコールに犯され、使い物にならなくなったマリス。
 しかし、それでも自分などには翻意させることは不可能だと、ウェンディは思っていた。
 また、アールコートのような急所も、マリスには存在しない。
 アールコートであれば、慕うランス王の名前を出して、誘導することは出来る。
 だが、他方、マリスは。
(マリス様を誘導する?)
 出来るわけがない。
 ウェンディは、早々に投げ出してしまった。
 マリスの急所と言えば、リア王妃である。
 しかし、そのリア王妃は、何処にも存在しない。
 リア王妃が生きていたら、悲しまれます。
 そんな言葉を使って宥めることは、考慮の外にあった。自分でも空々しいと思う言葉。それが、マリスほどの人物を動かすとは、とても思えない。
「アルコールを」
 焦れた風でもない。只、淡々とした口調で、マリスが繰り返し、要求する。
 ウェンディは、小さく嘆息した。
「解りました。──でも、アルコールだけでは、体に毒です。つまみも用意しますから、そちらも食べるようにして下さい」
「……」
 マリスの返答は、沈黙。
 それを、肯定と取ることにして、ウェンディは一時、退室する。
 これが、自分の精一杯。そう考えて。
 マリスは、既に使い物にならない。
 そうした言葉が、囁かれている。
(そうかも知れない。)
 ウェンディも、そう思う。
 かつての、切れ者マリスの面影は、何処にもない。
 既に、脳味噌までアルコールに浸かってしまった廃人。
 今のマリスは、そう見える。
(どちらにしろ、長くはないかな。)
 現状の長崎城を思い浮かべ、考える。
 このまま、長崎城落城ともなれば、自分もろくでもないことになるだろう。
 そう考えながらも、ウェンディには今ひとつ危機感が無かった。まあ、何とかなるだろう、との楽観的な思いを捨てきれずにいる。これまで、何とかなった。だから、これから先も。そう考える人間は、珍しいわけではない。そして、大抵、どうにもならずに後悔するモノだ。
 兎に角、今のウェンディは、真剣に転職を考えていた。
 メイドの仕事を辞めるつもりはない。これは、自分の天職だ。だが、主人は慎重に選ばなければならない。今回は大外れ。だから、次回こそは理想の主に仕えたい。勿論、理想の主とは、失敗してもしなくても、折檻してくれる主だ。
 そんな、非常にろくでもないことを考えながらもウェンディは動き、酒と、そしてつまみを用意すると、マリスの部屋にとって帰す。
「失礼します」
 小さく告げて、入室する。
 そして、そこで凍り付いたように動きを止めた。


 マリスは、先刻と同じ格好で文机に向かっていた。
 空になったコップを掴み、視線を宙に飛ばして。
 しかし、先刻とは、まるで違った。
 ウェンディは、そのマリスの横顔に見惚れてしまった。
 いや、横顔ではない。
 その、瞳に。
(ああ、なんて、凄い目……)
 ウェンディは、陶然として内心で呟いていた。
 背筋をはい上がる氷柱。ゾクゾクと、ふるえが走る。同時に、高鳴る胸。
 マリスの目は、虚空を見つめて動かない。
 その瞳は、先刻までのアルコールによって焦点を失ったかのような曖昧なモノではない。
 その瞳に宿る光。
 それは、凄絶なまでの煌めきだった。
 どんな炎よりも熱く、氷よりも冷たい。矛盾した二つの要素を纏めて詰め込み、光となした、凄絶な瞳。おそらく、それは憎悪だろう。何に対しての憎悪なのか。おそらくは、リア王妃を殺したモノに、殺させたモノに対する憎悪。深甚なる憎悪。
 その瞳がそっとはめ込まれたマリスの横顔。元々、整っていることも相まって、それは、まるで芸術作品のようにすら見えた。タイトルを付けるとしたら「復讐の女神」、あるいは、「憎悪」? どちらにせよ、暗い思いをその身の内に湛えていることは間違いなかった。
 ごくりと、ウェンディは唾を飲み込んだ。
 マリスは、最早使い物にならない?
 そんなわけがない。
 この瞳を見れば、マリスが、マリスのままであることは一目で知れる。
 憎悪に歪められているとは言え、この瞳は、常人に出来る類のモノではない。
 マリスが、マリスであるからこそ可能な、瞳の色。
(本当に、凄い……)
 ウェンディは、恐怖を、そして、それ以上にときめきを感じていた。
 マリスのこの瞳に、正面から睨み付けられてみたい。
 それは、死と同義かも知れない。
 しかし、それでも、直後の死を迎えるとしても、睨まれてみたい。
 強い欲求を感じた。
 この瞳に晒される。
 それは、どんな折檻にも勝る快楽を、与えてくれる。
 ウェンディは、そう信じた。
 体が、熱を持っていく。頬に、血が上る。瞳が潤んできたのか、視界が僅かに歪む。下腹に熱を感じ、もじもじと両の太股をすりあわせる。
「……ああ」
 小さく、熱い呼気がウェンディの口から零れた。
 零れてしまった。
 次の瞬間、マリスはウェンディに視線を向けていた。
 ウェンディの切望した、今の、灼熱と絶対零度を混在させた瞳ではない。最近では見慣れた酔眼。
「……アルコールをお持ちしました」
 声が震えるのを、何とか我慢して、ウェンディはアルコールとつまみを、マリスに差し出す。
 マリスは無言で酒瓶を受け取ると、コップに注ぐ。
 いつもの、マリスだった。
「──失礼します」
 ウェンディは、取るモノも取りあえず、退室した。
 こちらには、何も楽しみがない。
 先刻までの思い。それを、力一杯否定する。
 楽しみが無いどころではない。
 マリスのあの瞳。
 アレを見られたことだけで、充分にお釣りが出るかも知れない。
 そう考え、即座に否定する。
 いや、やっぱり、赤字だったと。
 何しろ、直接、あの瞳に睨み据えられたわけではない。
 ただ、傍から眺めただけ。
 これでは、意味がない。
 正面から、睨まれる。
 そうすれば、折檻など必要ない。きっと、それだけでイってしまうほどの快楽を味わうことが出来るだろう。
 今のままでは、只の傍観者では、欲求不満だけが募ることになる。
 現実、ウェンディの体は熱くなっているが、それをマリスが満たしてくれることはないだろう。
 ウェンディは仕方なしに、手近な厠に飛び込むと、自分でその欲求不満を解消することにした。
 いや、それだって、満足にはほど遠いが……
 兎に角、こちらの暮らしにも、良いことの一つくらいはありそうだ。
 そう考え、ウェンディは、当座は納得することにした。


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