#03 ある少女の死
「シンちゃん、電話、切っちゃって大丈夫ななんですか?」
携帯を切り、一方的に通話を終えたシンジに、ユウキが尋ねた。
シンジ達は、現在の状況をきっちりと理解している。結局の所、シンジがエヴァンゲリオン、パイロットになることを承諾しなければ、使徒を倒すことは不可能である。そうなれば、サードインパクト、人類滅亡である。自分が嫌ではあれば、シンジはEVAに乗るしかない。このままどこかへ逃げる、等という選択肢は、選び得ないのだ。
「大丈夫だよ」
「でも」
不安そうに尋ねるユウキに対して、シンジは微笑んでみせる。
「別に、これで交渉を全てうち切った、と言うわけはないんだから」
「え?」
「交渉術、と言うモノですな。ひいふう」
田茂地が、頬を伝う汗を拭いながら、口を挟んでくる。
「今回、僕の方が立場は強いんだよ。たった一人しか居ないパイロット。ものすごい希少価値だよ。折角だから、高く売りつけなくちゃ損でしょ」
「う〜ん、それは、わかりますけど」
「それに、EVAのパイロットを引き受けるのは良いけど、父さんの思うように使われるのは、面白くないことでしょ。なるべく、良い条件で契約しないとね」
「一応、納得」
ユウキが頷く。しかし、どこか、奥歯に物が挟まったような表情をしている。
「?」
「なんだか、私だけ、何も理解していないみたいで、面白くないです」
それが、気に入らないらしい。
シンジは、僅かに苦笑した。
それから、顔を動かして、ネルフの入り口ゲートに視線を向ける。
分厚い扉が開き、そこから、いかにもな格好の黒服が現れ、こちらにやってこようとしている。
「その為には、こちらに言うことを聞かせるのは容易くない。そう思わせることも、一つの手だね」
「私は、あまり乱暴なのは、好きじゃありませんけど」
ユウキが、顔を顰めて告げる。
そちらを曰くありげな表情で見、それから、シンジは頷いて見せた。
「まあ、この程度の相手なら、ユウキは見ているだけで良いよ。ここは、僕と田茂地で」
「承知しました──ひいふう」
田茂地は、頬の汗を拭うと、ハンカチをポケットに入れた。
そこへ、やって来た黒服──ネルフ保安部員が声をかけた。恵まれた体格、いかにもな格好、そして、威圧的な声。普通の人間であれば、それだけで竦んでしまう迫力があった。それを見越した、格好、人選でもあっただろう。
「碇シンジ君だね。我々は、ネルフ保安部の者だ。ネルフ、特務機関権限により、君の身柄を拘束する」
黒服は、総勢10人だった。
それで、充分だと思っていた。否、大袈裟すぎる。それが、黒服達の判断だった。
多寡が、中学生の少年を拘束、ケイジに移送する。
それだけのこと。何の問題もない。
何しろ、シンジは中性的な顔立ちである。どう見ても、暴力的な雰囲気はない。体つきも、細い。身長も、中学生として、平均くらいか。180センチ以上の身長を持ち、さらには鍛え上げた分厚い体を持つ保安部員に、抗する術はない。そう見えた。
シンジの他に、二人の人間が存在する。こちらも、問題ではない。
一人は、少女である。更に言えば、おっとりとした顔立ちをしており、少年以上に暴力とは無縁に見える。実際、少女は黒服達から逃れるように、少年の背後に隠れ、体を小さくしている。これは、全く脅威ではない。問題ない。
残る一人は、唯一の大人の男である。しかし、こちらも保安部の目から見れば、問題ない存在と見える。仕事柄、体を鍛えることを日常にしている黒服達の目には、男の肥満した体は、呆れてしまう。また、柔和な顔立ち。こちらも、暴力とは無縁だろう。
そう判断した黒服達は、安易に接近した。
これは、シンジらの経歴を知っていれば、とても出来ない軽率な行動だった。
ネルフの組織としての傾向に、秘密主義というモノがある。例えば、使徒に関して、情報はネルフが独占し、国連軍には何も知らされていない。だからこそ、無駄な被害を出して敗北することになっている。情報の独占、それは、力となる。しかし、ネルフという組織の救いがたい事に、この秘密主義は、身内に対しても適用されている。駒がモノを考える必要はない。そうしたゲンドウの思惑が、色濃く現れている。
その為、彼らはシンジらの経歴に関して、殆ど何も知らなかった。通り一遍の簡単な略歴と、顔写真。その程度しか渡されていない。シンジと同行している二人に関しては、それすらない。
無力な少年達。
そう考えた、黒服達の結末は……。
「馬鹿な、それは本当かね?」
虚偽の報告などをしても益はない。だから、事実である。それを承知の上で、冬月は声を上げていた。
碇シンジを拘束すべく差し向けられた保安部員10人が、返り討ちにあったというのである。にわかに、信じることが出来なかったのだ。
何しろ、保安部員は荒事の専門家である。こうした場合に備えて存在する部署であり、そこに所属する人間は、常日常から荒事に備え、体を鍛えている。また、暴力に対する抵抗感に乏しい。迷い無く、相手に理不尽な真似が出来る。いざというとき、役に立つのは、技術よりもその心のありようである。そうした人材が、中学生に──シンジの経歴を考慮したとしても、所詮は中学生という思いがある──返り討ちにあうなど、想像もしていなかったのだ。
「事実です。保安部員10人が、ゲート前で両手両足を拘束されて、放置されていました」
日向マコトが、告げる。
保安部員10人は、仲良く気を失い、ゲート前に転がされていた。殆ど、一瞬でのされたのだろう。懐には銃も入っていた、しかし、それを使う暇もなく、気絶させられている。
「何と言うことだ。……すぐに、他の者を差し向けたまえ」
「しかし、現在位置が不明です」
言いにくそうに、日向が応じる。
シンジは、ゲート前のカメラを無効化した上で、どこかに移動したらしい。その所在は、現時点で不明となっている。どちらへ移動したか、それすら把握できていない。
「……」
冬月は、絶句してゲンドウを見た。
「どうするつもりだ?」
お前の交渉の仕方が悪かったのだ。暗に、そう責める口調である。
「……問題ない」
ゲンドウお得意の台詞。しかし、冬月は感銘を受けたり、額面通りに受け取ったりはしない。
「お前は、都合が悪くなると、いつもそうだ。しかし、いまはそんな風に口先だけで誤魔化そうとしても──」
文句を言う冬月。しかし、それでは済まない、今はそんなことを行っている時ではない事に思い至る。
使徒を倒す。これは、絶対に必要なことである。ゲンドウ、冬月の目的のためにも、それ以前に、使徒によるサードインパクトの発生を回避するためにも。
今は、ゲンドウを責めるよりも、それを解決する手段を考えなければならない。
勿論、シンジをEVAに乗せる。それが、現時点で一番確実な方法だ。引き続き、捜索、そして拘束するように行動する必要はある。しかし、それがままならないとなれば、他の手段を考える必要がある。備えは、必要だ。
「冬月、レイを起こしてくれ」
同様に考えたらしいゲンドウが、短く告げる。
「使えるのかね?」
反射的に尋ねる冬月。綾波レイは、とても戦闘に耐える状態ではない。しかし、これは、冬月の偽善である。
いざとなれば、その方法を採るしかない。それは、冬月も理解している。
汚れ役を平然とこなすゲンドウと、汚れ仕事に文句を口にし、しかし、結局は諾々と従う冬月。ゲンドウが命令したのだからと、逃げ道を用意して。
「死んでいるのではない」
そのあたりの冬月の性質を理解しているのか、ゲンドウが素っ気なく告げる。
命令は、下された。
冬月は、一つ嘆息して、司令席脇の電話を取ると、ネルフ付属の病院に連絡する。
「赤木博士、EVA初号機のパーソナルパターンをレイに書き換えて、起動準備を」
それを横目で見ながら、ゲンドウは、技術的な部分の指示を、その責任者である赤木リツコに下す。
「わかりました」
赤木リツコは、綾波レイがどうなろうとも構わない。そうした冷淡さで短く応じると、EVA初号機の格納──拘束されているケイジへと移動を開始する。
その背中を見送り、ゲンドウはもう一言付け足した。
「サードチルドレンの方も、最優先で探すように保安部に命令しろ」
「見つかるのかね?」
冬月が疑問を口にする。
第三新東京市は広い。その気になれば、いくらでも隠れる場所はある。それは、第三新東京市が、ネルフの誇るスーパーコンピューター、マギによる管理を受けた都市だとしても同様である。いくら、高スペックを誇るマギとはいえ、全てをカバーすることは不可能である。抜け道、死角は存在する。
「今は、非常事態宣言が出されている」
ゲンドウは、一言告げ、それで説明は済んだとばかりに口を閉ざす。
「……なるほど」
果たして、冬月は納得して頷く。
「近隣のシェルターを中心にして、捜索させろ。マギは、街を移動している者のチェックを」
非常事態宣言下である。安全を求めるとしたら、近くのシェルターへ隠れるだろう。第三新東京市を脱出しようと、街をうろついているとしたら、人が避難して無人の状況である。非常に目立つ。人を隠すには、矢張り人の中。しかし、今、第三新東京市には、その隠れる人がいないのである。
「わかりました」
答え、早速命令を実行に移すオペレーター。
これで大丈夫だろう。
そう思いつつ、一抹の不安を感じずにいられない、冬月だった。
──とある通路。
「あのですねえ、シンちゃん」
顎に指を当て、僅かに首を傾げつつ、ユウキが尋ねた。
「何?」
「うん、一寸考えたんですけど、シンちゃんがEVAに乗らないとなると、ファーストチルドレンの綾波レイさんを使おうとするんじゃないんですか?」
「そうなるだろうね」
シンジは、平然と応じた。
「それって、問題があるんじゃないですか? 綾波さん、今、大怪我しているんでしょ? 死ぬかも知れないですよ」
ユウキは咎めるような口調で言った。
ファーストチルドレン、綾波レイは、EVA零号機の起動実験失敗、その暴走により、現在大怪我を負っている。下手に動かすことすら危険、そう言う重傷である。
その体での実戦は勿論、それ以前のEVAの起動ですら、命に関わるだろう。それを心配してのユウキの言葉である。
あるが、シンジは冷淡に付け足す。
「大丈夫だよ。彼女は、死んでも代わりが居るから」
「それは、そうですけど……」
まだ、納得のいかない口調でユウキは呟く。
「それにね」
「それに?」
「将来、綾波さんをこちら側に引き込むことを考えると、長年、父さんのマインドコントロール下にあった二人目をデプログラミングするよりも、まっさらな三人目の方がまだまし、比較すれば簡単だと思わない?」
マインドコントロール、洗脳と言っても、一昔前の特撮ヒーローモノのような奇妙な機械や薬物を使う必要はない。否、そう言った方法は、EVAとのシンクロを考えれば、選択し辛い方法である。では、どうやって洗脳するのか。それは、一時期有名になったカルトと同様の方法である。特殊な、ストレスの溜まる環境下で生活させ、判断力を奪う。その上で、教祖──この場合は、ゲンドウに対する絶対の忠誠を植え込んでいく。──この場合、機械や薬物を使った強制的なモノと違い、時間が必要になる反面、与える刺激が常日頃のストレスをより濃くしただけのモノであるため、EVAとのシンクロに弊害が出る可能性が少ないというメリットがある。
綾波レイの洗脳は、まさしくこの方法である。地下の施設に監禁され、他者との接触を長いこと制限されてきた。与えられる知識も、ゲンドウの意志で選択されたモノばかり。そうした、非常に偏った環境で、特殊な任務を重要なことであるとの認識を、長い年月を掛けて埋め込む。さらに、機械的に接する者達の中で、ゲンドウだけが、優しいところを見せる。ゲンドウは、特別。そして、自分は、ゲンドウにとって特別。そうした優越感と共に、忠誠心を植え込んでいく。
そして、とどめが、先の起動実験失敗である。我が身を犠牲にして、レイを助けるゲンドウ。これで、仕上げはなった。そう言う状況である。
こうした、綿密なマインドコントロールを施された人間の社会復帰には、非常な時間がかかる。また、デプログラミングしたと安心していると、いきなりのフラッシュバックが起きたりして、油断が出来ない。
現在、綾波レイは、ネルフ本部外に住居を与えられている。これは、対外的な配慮というモノである。三人目をマインドコントロールするには、時間的にも足りないだろうし、以前のように地下に押し込めたまま、と言うわけには行かないはずだ。勿論、マインドコントロールされない、と言う可能性はないが、時間的な理由から2人目よりもましな状態で止まるだろうと言うことは、簡単に推測できる。
「ふ〜ん」
ユウキは、少し考え、シンジの言葉を意訳した。
「つまりは、お父さんのお手つきの綾波さんよりも、そうでない綾波さんの方が好ましい、そう言うわけですね」
「何だよ、それは」
シンジが、戸惑ったように尋ね返す。なにやら、ユウキの表現は曰くありげに聞こえた。
「男の子って、本当に処女が好きなんですねえ」
ユウキは、その曰くの部分をずばりと口にして見せた。
「な、何だよそれは。僕には、ユウキが何を言っているのか、わからないよ」
シンジは、慌て、ユウキの言葉を否定する。
「だいたい、綾波さんは、僕の母親と殆ど同じ遺伝形質を持っているんだよ。言うなれば、綾波さんは僕の兄弟に当たる存在なんだ。何で、処女とか、そうでないとか、関係あるのさ」
「でも、これまで全く接触の無かった人間を、今さら兄弟と言われても、納得できないと思いますけど。綾波さん、綺麗だし。……何より、シンちゃんにモラルを求める方が間違っているんじゃないですか? ……ケダモノだから」
「な、何で僕がケダモノなのさ」
シンジは、慌て、心外だとばかりに声を上げる。
「私にそんなことを言っても、信じられるわけが無いと思いますけど」
「う……」
ユウキの言葉に、シンジが詰まる。どうやら、思い当たることがある、ありすぎるらしい。
そのシンジを、きしし、とでも言うような笑いを浮かべ、ユウキが見つめた。
エヴァンゲリオン初号機ケイジで、騒ぎが起こる。
EVAとのシンクロ。それは、体よりも、脳神経にストレスを与える。
自分以外の者と一体化する。いや、者ですらない。それは、大きな混乱を与える。自分の物と、そうでない物の二つの体を同時に感じる。そんな感覚に、人の脳味噌は慣れていない。そのように、出来てはいない。
また、LCLという薬液の存在も、問題となった。
パイロットとEVAのシンクロを助け、更に、衝撃緩衝剤としての役もする、一石二鳥の薬液、LCL。肺を満たせば、呼吸も可能となる液体。そう、液体である。
液体中では、血液の凝固が妨げられる。例えば、手首を切って自殺をしようとする人間が、水に傷口をつけるというような方法を採ることがある。それは、この性質を利用しようとしている、そう言うことである。
綾波レイは、未だ、傷口が塞がっていない状態だった。更に、EVAへの搭乗により、塞がっていたはずの傷口まで、開いてしまっていた
脳神経への負担、更に、出血。
弱った綾波レイの体にとどめを刺すには、充分な負荷となった。
シンクロ開始すらままならぬ状態で、綾波レイの弱った心臓は鼓動を止めた。元々、遺伝子に疾患を持ち、お世辞にも丈夫とは言えない綾波レイである。過負荷はあっさりと、彼女に限界を超えさせた。
電子パルスによる、強制的な蘇生処置。それも、弱り切った心臓を再び動かすことは出来なかった。
2人目の、綾波レイは死んだ。
「……Sランクの医療班に連絡を。直ちに、特別室にて蘇生処置を」
赤木リツコが、何の感情も交えていない声で、命令する。
彼女にとって、綾波レイの死は、何の感慨も与えない。
可哀想、そうした憐憫の感情とは無縁。
健気な少女の死。そう、衝撃を受けている周囲の者は、笑止ですらある。
健気と言うのと、この綾波レイという少女は違う。健気と言うのは、もう少し、事情を知っている者に使う表現だろう。何も知らず、命令に従うことを至上とする少女。只、それだけのこと。他に選択肢がない。それだけのことであり、怪我を押して、必死で戦おうとする様は、傍目にはともかく、現実、健気等ではないのだ。──不幸、と言うことであれば、肯定するが。
しかし、哀れみすら感じていない。
赤木リツコは、事情を知っている。只、それだけのこと。
例え、この綾波レイが死んでも、代わりが居るのだ。地下のLCLのプールには、多くの綾波レイの抜け殻が、出番待ちをしている。魂を持つのは、只一人。その魂を持つ綾波レイが死亡すると、ところてん式に、次の綾波レイに魂は移る。今回も、今頃は新しく魂を得た綾波レイが、地下で誕生しているはずである。
勿論、この事情を知る者は少ない。ゲンドウ、冬月、リツコのトップ3以外では、限られた人数しか、この事実を知らない。これは、作戦部トップの葛城ミサトですら、知らないことである。
その為、リツコは事情を知っている最高ランクの医療班を手配する。先刻の指示、それは、多分に符丁を交えていた。
特別室での蘇生処置。──これは、蘇生処置ではなく、遺体の処理を指示しているのだ。墓も、弔いもない。元々、生物関係の研究機関であったネルフである。人など、24時間もかけず、痕跡すら残さずに分解消去する薬液などは、不自由しない。そこで、綾波レイ2人目は、無かったことにされる。
そして、「奇跡的に持ち直した」とされる三人目が登場することになる。
無垢な状態の綾波レイに、再び教育を施さねばならない。これは、リツコの仕事となる。
面倒、いっそのこと、地下にある全ての綾波レイを纏めて処分することが出来れば、自分のストレスの発散になるのに。
内心、そんなことを考えながら、リツコは初号機のパーソナルパターンの書き換えを命じていた。
事、こうなれば、サードチルドレン、碇シンジを乗せるしか、手はなくなってしまった。
綾波レイは、使えない。無傷の綾波レイの登場は、ゲンドウらの後ろ暗い部分を公表してしまうことになる。そうでなくとも、何も知らない綾波レイ、とても使えない。魂は引き継がれる。しかし、記憶の引き継ぎはなされないのだ。
今頃、ゲンドウ達は、慌ててサードの行方を追わせているだろう。
そのあわてふためいた様を想像し、リツコは口元に暗い笑いを浮かべた。
「これが、エヴァンゲリオン初号機ですか? 何というか、非常に悪人顔ですね」
そのリツコの耳を、聞き覚えのない少女の声がくすぐった。
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