#106 この世の果て
常のように、ネルフ司令、碇ゲンドウの執務室は薄暗い。おまけに、そこの主、ゲンドウも常のように、不機嫌な表情で、両肘を執務机につき、顔の前で手を組み合わせて──と言う、ゲンドウポーズ。この世の終わりまで、この執務室には変化が起こることが無いのではないか。そう疑ってしまうほど、いつも通りだった。
「いやはや、波乱に満ちた船旅でしたよ」
その疑いが間違いであることを証明しようとでもいう風に、これまで、執務室には存在したことの無かった男の声が響いた。
男は、加持リョウジである。
波乱に満ちた船旅。
それは、全くの事実で、一片の嘘も含んでいない。
どのくらい波乱に富んでいたかと言うことを具体的に示すように、加持は真っ黒に日焼けしていた。にこやかに笑った口元に覗く歯の白さが眩しい。髪の毛の方も、潮風に吹かれ過ぎたのか、若干、色が落ちているようにも見える。全く、波乱に満ちまくりな船旅だった。
「……矢張り、これのせいですか?」
──ではないのだが、加持はさらりと言って、トランクを開いた。
トランクが開かれ、その中に収められていた「アダム」の姿を、ゲンドウの視線に晒す。
「既にここまで「復元」されています。硬化ベークライトで固めてありますが……生きています。間違いなく」
加持は言って、その瞳に用心深い輝きを一瞬、ほんの一瞬だけ宿した。
「復元」と言うのは、ある意味、正確ではない。本当の正確さを期すならば、「成長」とかにした方が良いだろう。復元も何も、自力でここまで大きくなってきているのだ。そこに、人の手は入っていない。
その辺り、全て承知の上で、加持はあえて「復元」という言葉を使った。
──もっとも、それはオリジナルダムの話で、これはそのフェイクである。しかし、ゲンドウにとってはこれは本物、オリジナルアダムである。ペーパームーンか、最後まで騙し続ければ、それは真実になると言う。最後の最後でフェイクであることを披露することになるから、とてもペーパームーンと同じとは言い難い。しかし、ゲンドウにとって現時点では、これはオリジナル以外の何モノでもない。ならば、その思いを裏切ることはないのだ。
オリジナルのアダムは、人の手など関わりなく、自らの力で、「成長」している。
その事を、碇ゲンドウは勿論承知している。
何しろ、アダムを卵にまで戻し、人の手で扱えるようにしたのが、セカンドインパクトの正体である。その際の余剰エネルギーの氾濫が、地軸を揺るがし、南極を死の、赤い世界に変えた。
そのセカンドインパクトの前日、全てを承知の上で、南極から一人だけ、全ての重要書類と共に逃げ出したのがゲンドウなのだ。知らないはずがない。
ゲンドウは、加持のこの言い回しに気が付く程度には有能なはずだ。
加持は、本来「成長」とでも表現する場所を、「復元」とした。これは何故か。
そこまで、ゲンドウは思考を進めるだろう。
そして、ゲンドウは結論するはずだ。
目の前のこのスパイは、重要な場所に近づいているようでも、的を外していると。
総体としてみれば、知ったつもりで何も知らない、哀れな道化師に過ぎないと。
事実、加持の微妙な言い回しの瞬間、ゲンドウの視線が僅かに──本当に僅か、注意していなければ見落としてしまうほど僅かに、こちらを向いた事を確認していた。
無論、その視線に気が付いた振りはしないで、加持はそれまでと同じ、神妙な顔をキープする。
「そうだ。……最初の人間、アダムだよ」
ゲンドウは口元を歪め、笑いの形に変えた。ゲンドウらしくなく、妙に饒舌なのは、喜んでいるからだろう。
何を喜んでいるのか。
切り札の一つが自らの手に入ったと思ったからか。
それとも、加持が重要な部分は何も知らないと確信したからか。
どちらにしろ、欧州ゼーレ組の切り札の一、加持リョウジにとっては、悪いことではなかった。
「ところで、司令?」
加持は、最早用は済んだ、とっとと出ていけ、そんなゲンドウの表情を気が付かなかった振りをして尋ねた。
「……何だ?」
声にもたっぷりと、とっとと出ていけ、そんな響きが込められていた。
しかし、加持は厚顔さを発揮して、その響きに気が付かなかった振りをして尋ねる。
「葛城一尉はどうしたんですか? 姿が見えないようですが?」
実際には降格して二尉になっているが、ともかく、葛城ミサトに再会する。加持が日本に来た楽しみの一つである。
しかし、期待していたOTRでは会えなかった。本来ならば、科学部主任のリツコではなく、作戦部長のミサトが、セカンドチルドレンを迎えに来るのが正しい状況だったろうに。そして、この本部でも見かけない。これは、不審に感じてもおかしくない事柄だった。
「……」
ゲンドウは、苦虫を纏めて噛みつぶしたみたいな、不機嫌な表情をした。どのみち、普段から不機嫌そうに見える表情のゲンドウだが、格別に不機嫌そうな顔だ。
「葛城二尉は、私の特別な指示により、現在出向中だ。詳しい内容は、君には知るべき資格がない」
今回の饒舌さは、不機嫌なためか。それとも、都合の悪いことを聞かれたからだろうか。
どちらにしろ、ゲンドウは知らないらしい、と加持は判断した。
どのようにゲンドウが言いつくろおうと、これは、碇シンジの仕業であると、加持は確信した。
その確信が得られただけで、良しとするべきだった。これ以上ゲンドウを不機嫌にさせても益はない。
加持は、軽く一礼すると、執務室を辞した。
執務室を出た加持は、顔に笑みを浮かべた。
碇ゲンドウは、こちらの思惑通りに動いてくれている。
それを、確信して。
加持リョウジは腕はいいが、信用のならないスパイ。ネルフ以外にも、様々な組織にも連なり、欠片も信用がおけない。おけないが、加持の求めるモノ──と、表向き臭わせている、セカンドインパクトやネルフの真実と言った事に対する好奇心を満たすようにさせてやれば、上手い具合に利用できる。
ゲンドウはそう考えているはずだ。
とは言え──
果たして、ゲンドウのためにその様な偽装を続ける必要があるのだろうか?
そう言う疑問もある。
本部に来て、まだ僅か。
予定よりも、大幅遅れ。碇シンジ、その執事である田茂地のせいで、飛んだ回り道をさせられてしまった。
そして、本部に着いたその足で、ゲンドウの所に向かっている。
だから、本部の様子を全て目にしたわけではないが、それでも、解る。
既に、ネルフ本部はゲンドウの手の中にはない。
こうして通路を歩いていても、自分に向けられる視線を感じる。
ゲンドウは前述の通り、加持を間抜けなピエロだと思っているから、これほど執拗なマークをするとは思えない。
ならば、誰がやっているのか?
勿論、碇シンジだ。
それを考えると、本部は既に、碇シンジのモノとなっている事は間違いない。
未だゲンドウが司令の椅子に座っているのは、欧州ゼーレ組に対する防壁の役割を期待されているのだろう。──最早、それも危ういが。
だから、ゲンドウのことは、無視しても良いのではないか?
そう考えつつも、加持は、今のスタイルを続けることにした。世の中、何が幸いするか解らないのだ。利用できるモノは、利用できるようにしておくべきだ。本当に利用できるか、疑問であるにしても。
「いやはや。全く、やってくれるよ」
加持は小さく、口の中だけで呟いた。
自分もやられた口だから、多少、苦笑じみた笑みが浮かぶ。
全く、ゲンドウに告げたように、大変な船旅だった。あそこで、偶然通りかかった漁船に拾われなければ、未だ、Yak38改の破片に掴まって、太平洋をぷかぷか漂っていただろう。
全く、やってくれる。
だが、この加持リョウジは、あの程度で始末されたりはしないのだ。それほど、甘くはないのだ。
それに、何とか第7使徒襲来前に本部に着けたのは、こちらのツキが、完全に落ちている訳ではない証明だろう。
アダムと共にあった自分が襲われるのは勿論困る。同時に、第3新東京市に向かわれても、矢張り困ってしまう。第3新東京市に向かわれた場合、何故、アダムを手にした加持が襲われず、第3新東京市が襲われるのか。そんな疑問をゲンドウに抱かせてしまうことになり、最悪、アダムがフェイクであることに気が付かれてしまっただろうから。
そう、まだツキが完璧に落ちているわけではない。
一回表の攻撃で、シンジに先制されてしまった。とは言え、この後には裏のこちらの攻撃がある。更に言えば、決着が付くのはまだ先のこと。これからだって、充分に挽回できるのだ。
「それにしても、碇司令は今ひとつ使えなかったな。有能だと言われていたが、所詮は平時の司令官か」
小さく、嘲るように口中で呟く。
あの態度。
未だに、ネルフ本部が自分の手の中にあるように振る舞っているが、現実、ネルフ本部はシンジのモノ。そして、それが上位組織であるゼーレや委員会に伝わっていないと考えている。
全ては、自分のコントロール下にあること。
そう、ゼーレの老人達に告げているという。
ゼーレの老人達は、全てを承知しているというのに。
ゲンドウは、加持のことを哀れな道化師だと思っているが、現実、本当に哀れな道化師なのは、ゲンドウの方である。
──と、そこまで考え、加持は顔を顰めた。
偉そうに言ってみたが、自分だって、人のことを言えないのである。
加持は、漁船に救われ日本に着いた時、真っ先に欧州ゼーレ組に連絡を取った。
そして、知った。
灰を名乗るテロリストが劉一族の人間達が乗った飛行機を爆破したと言うことを。そして、その結果、現在欧州ゼーレ組と劉一族は、抗争の真っ最中だと言うことを。
灰──それは、加持リョウジのコードネーム。
しかし、勿論加持には覚えがない。何しろ、その事件の当時には、漁船で揺られていたのだから。事件自体、言われて初めて知ったような恰好だ。
では、誰がやったか。
考えるまでもない。シンジだ。
欧州ゼーレ組と劉一族が抗争を始め、一番得をするのはシンジである。同時に、シンジは加持が──灰が、行動不能であることを知っていたのだ。その名を騙るのに都合が良いことを承知したのだから。
が、そこで素直に、「碇シンジがやったのです。俺は、してやられました」等と言えるはずもない。
道化のふりをするのはいい。しかし、本物の道化であることを自らの上位の人間に知られるのは、どう考えても得策ではなかった。
切り札の一。
そう褒め称えられ、重用されたようでも、矢張り加持は黄色人種でしかない。そして、欧州ゼーレ組の中枢部の人間は、白人優位主義者の集まり。下手なことを言って、使えないと判断されるのは非常に拙い。
使える。
そう思われてきたからこそ、いちいち大騒ぎを繰り返してきた加持の存在が許されているのだ。
それが碇シンジに、いきなりしてやられましたと報告出来るわけがない。
だから、加持はアレは、自分がやったのだと、欧州ゼーレ組に報告していた。
相手は腹を立てていたようだが、構うことはない。
行動理由は、ネルフ本部へ干渉しようとする劉一族の脅威を排除する、その為の行動ですと、抗弁できた。最大目標である人類補完計画の遂行のためには、ネルフ本部へ劉一族が関わることこそ、一番拙いことなのだから。それに比べれば、両者が抗争状態になることなど、問題でもない。
そして、加持は──灰というエージェントは、いちいち小火に油をかけて燃え上がらせるのが大好きだと、欧州ゼーレ組の人間は知っている。腹は立てるかも知れないが、嘘だとは思わないだろうとの計算があった。まさしく、灰らしい行動だと、理解してくれるだろう。──実際、そう思ってくれたようだ。
どのみち、一旦抗争が始まってしまえば、欧州ゼーレ組も劉一族も大きすぎ、簡単には止まれないのだ。例え、加持がアレはしてやられましたと告げたところで、抗争は終わらない。正直に白状しても、欧州ゼーレ組は兎も角、劉一族は信じないだろう。灰ならばそれくらいはやりかねないと思われているから、責任転嫁、何を戯言を、と言うことになるに違いない。そして、劉一族が止まらなければ、欧州ゼーレ組も対抗せざるえない。どうやっても、抗争は終わらないのだ。
正直に白状しても結果が同じなら、黙っていても問題ではない。
等と理論武装を済ませ──それも全てシンジに計算されているのではないか、と疑惑を覚え、腹立たしさに歯がみする。
その辺り、殆ど碇ゲンドウの現状と一緒である。
勿論、見事にしてやられた、等と感心しているつもりはない。
やられたらば、やり返す。こけにされたままで済ませるわけには行かないのだ。碇シンジには、自分が──灰がどれほど恐ろしい相手であるか、思い知らせてやらなければならない。
だが──
だが、加持には、その前にすることがあった。
する事。
それは、葛城ミサトを捜すことである。
折角日本に戻ってきたのだ。是非、葛城ミサトの西瓜みたいにでっかい乳であんな事やこんな事を──そんな事を考えていた加持である。既に別れたはず? 問題ではない。あの西瓜みたいな乳を軽く揉んでやれば、その先まで全然オッケーになるに決まっている。
が、葛城ミサトはいない。
おそらくは碇シンジによって排除されている。
その排除の仕方は?
芦ノ湖の底に沈んでいるのか?
それともどこかに幽閉されて、碇シンジにあの西瓜みたいにでっかい乳を弄ばれているのか?
その辺り、兎に角あの西瓜みたいにでっかい乳の行く末を確かめないことには、先に進めなかった。
しかし、ネルフ本部内での情報収集は芳しくなかった。
既にネルフ本部は碇シンジの支配下にある。つまりは敵地である。
欧州ゼーレ組に連なることがばれてしまっている加持に対し、友好的な人間は少ない。その為、情報収集はまるで上手く行かない。
ミサト直属の部下である眼鏡のオペレーターなどは、「葛城さん? それ誰ですか? そんな人、全然知りませんよ」と、わざとらしく惚けてくれたモノだ。
仕方がないので、加持はミサトの住居を直接尋ねてみることにした。既に時間は夜になっていたが、明日に先送るなどと言うことは考えつかない。兎に角、一刻も早いところ、あの西瓜みたいにでっかい乳の行方を知らなければ。加持は、そんな使命感に背中を押されていた。
コンフォート17。
そのミサトの部屋に来た加持は、まずはドアホンを押す。
元々期待していなかったが、矢張り返事はない。
仕方がないので、勝手に鍵を開けることにした。どこか性急。
それは、目指す西瓜みたいな乳が近くにあるかもと考えたためだろうか?
それはいくら何でも都合良すぎるが、手がかりくらいはあるかも、と期待している為だろうか?
兎に角、針金2本を使って鍵を開ける。一流のスパイである加持には、ピッキングくらいはお手の物である。
そして、加持は用心深く扉を開け──
「うおっ!」
と悲鳴を上げて慌てて閉めた。
途轍もない悪臭が、部屋の中から漂い出て、加持を打ちのめしたのだ。
殆ど物理的な打撃力を持つほどの悪臭。鼻の奥、脳味噌近辺を金槌で思い切り殴られたように、痛みすら感じるほどの悪臭。更には、目にまで来た。涙が止まらない。胃はひっくり返りそうになり、耐えきれず、加持はその場でえづいて夕食を全て吐き出してしまう。
とんでもない悪臭だった。
加持は、スパイである。だから、いろいろな経験は積んでいる。丁度具合がいい期間、放置された死体の臭いとか、その他、様々な、ろくでもない経験は山ほどだ。
その加持にしても、未経験の、そして途轍もない臭いだった。
回れ右して逃げ出そうか?
そんな、後ろ向きな思いが脳裏に浮かぶ。
しかし、加持は頭を一つ振り、再び扉に向き直った。
何としても、あの西瓜みたいにでっかい乳の行く末を見届けないわけには行かない。知らずにはいられない。
加持はダメモトでハンカチをマスク代わりに口元に巻き付け、用心深く扉を開く。人は慣れる生き物である。二度目のせいか、最初ほどのインパクトはない。──それでも、途轍もない悪臭だったが。
何とか悪臭に耐え、加持は部屋の様子をうかがった。
そして、目を剥いた。
扉の向こう。
部屋の中には、まるでこの世の果ての様な光景が広がっていた。
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