#107 ぬばたまのケモノ


 殆ど物理的な圧力を持っているほどの強烈な悪臭。それに耐えながら扉を開けた加持リョウジは、部屋の中に広がっている光景に唖然とした表情を見せた。
 そこには、この世の果てとでも言えるような光景が広がっていたのだ。
 いや、光景というのは正確ではないかも知れない。何しろ、部屋の中、加持が見ているのは玄関先のみ。部屋の中は真っ暗闇で、扉を開けたことで矩形に切り取られた、廊下の灯りの差し込んだ極狭い部分だけしか、見通すことが出来なかったから。
 しかし、それだけで、加持を絶望的な気分にさせるには充分だった。
「……葛城」
 呆然とした声が、加持の口から零れ出る。
 玄関先。その様子をこの世の果てなどと言う抽象的な表現ではなく、具体的な例を挙げて示すならば、夢の島。あるいは、ゴミ屋敷か? 更に言えば、日本で一番の長寿漫画の登場人物、オリンピックの年、つまりは4年に一度しか登場しないキャラクターの部屋。こちらの方が、この部屋を示すにより相応しいかも知れない。
 どうやら、葛城ミサトはここにはいないらしい。
 加持リョウジは、そう結論する。
 元々ミサトは、散らかし魔。ゴミの片づけを怠ることは当たり前の人間であることを、加持は知っていた。何しろ、殆ど同棲していたこともあるのだ。知らないわけがない。
 しかし、これはあまりにあんまりだった。
 きっぱり、人の暮らす環境ではないのだ。いくら葛城ミサトという女性がずぼらでいい加減で、散らかっていることを苦にしない正確だとは言え、流石にこれは非道すぎる。
 おそらくミサトは、いつものように部屋を散らかしたまま出かけ、そして帰ってこなかったのだ。そして、残された部屋は、年中夏の日本の気候にやられ、この非道い有様になった。そんなところだろうか?
「いやはや、それにしてもこいつは……」
 この有様は、流石に非道い、非道すぎる。苦笑も出てこない。
 周囲で異臭騒ぎが起きなかったのは、このマンションに居住する人間が殆どいなかったためだろう。
 加持は、きびすを返そうとした。
 部屋を漁れば、手がかりが見つかるかも知れない。
 とは言え、それだけでこの部屋に踏み込む勇気はなかった。
 が。
 振り返ったところで、後頭部の尻尾髪を引かれたようにして振り返る。
 何か、微妙な違和感を感じたのだ。
 微妙な違和感。
 若干考え、思い当たる。
 ミサトが散らかし魔である。これは、加持の中で確定している情報だ。
 だが──
 だが、これは、あまりにあまりではないか?
 時間が経って発酵してしまったにしろ、今の状況は、あまりにあんまりだ。それ以前から、加持の想像以上の非道い状況になっていたに違いない。殆ど、生活不可能なくらいに。
 そこで、ミサトは生活していたというのか?
 確かに、ずぼらで細かいことを気にしないとは言え、既に発酵以前から人類の生存可能な状況では無かったように思えた。
 何かが、あった。
 加持は、そう考えた。
 都会の片隅における孤独死。
 そんな単語も浮かぶ。
 碇シンジの名前も浮かぶ。
 使徒退治に熱意を燃やすミサトである。シンジとぶつかったであろう事は、想像に難くない。
 そして、シンジは敵対者をあっさりと始末できる人間だ。間違いない。
 もしかしたら、出かけて帰らなかったではなく、この部屋にいたところを襲われたのではないか?
 そして、ミサトは必死で抵抗し、その結果、人類の生存不可能な状況になるまで、部屋が荒れたのではないか?
 その想像に苦笑する。
 まさか、この部屋の中に、ミサトの死体が誰に省みられることもなく転がっているなど、考えられないではないか。
 言い聞かせるが、一度芽生えた不安を払拭することは出来なかった。
「いやはや」
 加持は頭を掻き、部屋の中へ一歩、踏み込んだ。
 兎に角、あの西瓜みたいにでっかい乳をあれこれしない内に二度と会えなくとなることは、許容できそうになかった。


 それは、暗闇の中、ゴミの中に埋もれて眠っていた。
 住めば都と言う。流石に、この環境はとてもではないが都とは思えない。しかし、それの──それだけのテリトリーであることは間違いなかった。
 かつては、二本足の牝がそれと共に暮らしていたが、その牝は遂に帰らなかった。
 牝は、それのために食事を用意し、風呂用意するための召使いであったというのに、勝手にいなくなるのは許されることではなかった。
 しかし、憤慨しても、牝は二度と現れなかった。
 鬱憤晴らしに元々散らかっていた部屋を更に思い切り散らかした後、それは、一人で生きていく必要に感じた。
 一人で生きていく?
 どうやって?
 水は、何とかなった。蛇口、と呼ばれるモノを捻れば、どれだけでも出てくるのだから。
 では、食べ物は?
 何しろ、牝は泡の出る飲料水以外のモノは、殆ど溜め込まない質だったのだ。僅かにあった食材が、すぐに尽きることは明白だった。
 飢え死にの恐怖が、それを襲った。
 だが、神はそれを見捨てなかった。
 彼のテリトリーには、キノコが自生していたのだ。
 独身男性の住居に生えたらサルマタケと言う由緒正しい命名がされたであろうキノコ。女性の部屋の場合は何というか? その辺り、それには関係なかった。
 兎に角、味はまずいが飢えを満たすことだけは可能で、ひとまずはそれで充分だった。
 それは、この場で生きてきた。
 外に出ることは、流石のそれにしても不可能だった。横開きならば兎も角、玄関口の扉は、それの手にも余ったのだ。
 ならば、ここで生きるしかない。
 つまり、ここは、それのテリトリーだった。
 そのテリトリーに、僅かな空気の流れが起きた。
 それは、敏感に風の流れが変わったことを感じ、閉じていた目を開いた。
 用心深く、周囲を伺う。
 あの牝が帰ってきたにしろ、ここは既にそれのテリトリーである。今更帰ってきても、受け入れることは出来ない。
 ゆっくりと観察する。
 影は、肩に、光を発する長い棒のようなモノを担ぎ、それのテリトリーを縦断している。
 そして、気が付く。
 あの影は、牝と同じ二本足かも知れないが、あの牝とは違うと。
 正真正銘の侵入者だ。
 そして、侵入者をどうするか。
 既に、結論は出ていた。
 それは、用心深くゆっくりと行動を開始した。


 部屋のライトは死んでいた。
 仕方がないので加持は、愛用しているバトンタイプの懐中電灯を使うことにした。
 懐中電灯を肩に担ぐようにして、ミサトの部屋への侵入を試みる。勿論、靴は履いたままだ。裸足で、等とは初手から考えもしなかった。
 それでも、最初の一歩を踏み出すのに、途轍もない勇気が必要だった。
 そして、踏み出した瞬間、足の裏に感じる、何とも言い難い微妙な感触と共に、自分が何か、大切なモノを失ってしまったかのような気分を味わった。今更ながら、世の中には知らない方がよいことがあるのだと、彼の行動理念──好奇心を否定するようなことまで、考えてしまった。
 最早、自分が無邪気な少年の日々に戻ることが不可能であることを、加持は自覚した。
 だが、失われたモノを悼んでいる暇はなかった。
 やるからには、手早く行動しなければならない。骨の髄まで、この臭いが染みついてしまっては困る。
 加持は、ゆっくりと慎重に足場を選びながら、部屋の中へと進んでいく。慎重に足場を選んでも、得てしてその感触は加持の期待を裏切った。何とも言えない微妙な感触。背筋に震えが走るような、微妙きわまりない感触。その度ごとに、萎えそうになる熱意を、加持は振り絞るようにして進む。
 どうして、ここまでしなければならないのか?
 加持の背中を押していたのは、多分、あの西瓜のようにでっかい乳への憧憬だろう。
 玄関口を通り抜け、リビングにはいる。
 その光景は、予想していたとは言え、加持は打ちのめされたような気がした。
 ここは、玄関口の比ではない。
 なにやら、新たな生態系を構築しているのではないか。そんな疑問すら感じる環境。
 そう言えば──と、加持は考える。
 ガラパゴス諸島などの、周囲から隔絶した環境では、他とは違う生態系が築かれたりすると言う。この部屋も、それに倣うかも知れない。周囲から隔絶され、更には、過酷な環境。新たな進化をした生物が、この部屋から誕生するかも知れない。
 なにやら、進化論を極めたような気分になった加持である。
 あるが、次の瞬間、加持は表情を引き締めた。
 加持の、一流のエージェントとしての感覚に、何かが訴えたのだ。
 何か──そう、この部屋には何かがいる。
 これまで以上の用心深さを発揮して、加持は周囲に、懐中電灯の光を巡らせる。
 見えるのは、ゴミやキノコや、訳の分からないモノばかり。
 だが、加持は確信した。
 絶対に、この部屋には何かがいる。
 この、灯りに乏しい状況は、自分にとって不利だった。
 勿論、自分が負けるとは思っていない。何しろ、自分は欧州ゼーレ組の切り札の一、灰だ。
 好戦的な気分が支配し始めた加持の脳裏で、警鐘が鳴る。
 まさかという思い。
 矢張りという思い。
 これは、碇シンジが綿密に張り巡らせた、罠ではないのか?
 自分が葛城ミサトのあの西瓜のようなでっかい乳に執着している事を見越し、シンジは先回りしてこの部屋に罠を仕掛けて置いたのではないか?
 実際は只の被害妄想だが、加持はその可能性を追求してしまった。
 そのせいか、周囲に対する警戒がおろそかになった。


 その瞬間、それは一気に加持に向かって襲いかかっていた。


「ぬおっ!」
 体を捻り、加持は何とか初撃をかわしていた。
 しかし、バランスを崩し──更に悪いことに、蹈鞴を踏んだ足をついた場所が、つるりと滑った。
 無様にゴミの山に倒れてしまう加持。これだけでも、大ダメージ。もしかしたら、まともに攻撃を喰らった方がましだったかも知れない、そう考えるほどに。
 その倒れた加持を、相手は見逃すつもりはないようだった。
 一気に畳みかけようと言うのか、加持に襲いかかる。
 加持は、お尻に広がる湿ったような不気味な感触を精神力で無視すると、反撃した。
 大きく口を開く加持。
「──!」
 無音の衝撃。
 次の瞬間、加持に襲いかかってきたそれが、弾かれたように吹き飛んでいた。
 必殺の一撃。
 そのはずだった。
 だと言うのに、襲撃者はくるりと空中で身を捻ると、まるでそれがプールであるかのように、ゴミの山の中に飛び込んでいった。
 そのまま、ゴミの中を縦横に泳ぎ進む。水面直下に隠れ、獲物を狙う鮫のように。
「馬鹿な、まともに当たったはずだぞ?」
 信じがたいと声をあげる加持だが、それが現実だった。
 加持は、即座に気持ちを切り替える。
 必殺の一撃を喰らわせたというのに、相手は平然としている。ならば──効くまで、何度でも喰らわせてやればいい。
 加持は、慎重に狙いを定めた。
 そして、大きく口を開いた瞬間──
 ゴミが、爆発した。
 いや、違う。
 襲撃者が、ゴミを思い切り跳ね上げたのだ。
 堪らないのは、加持である。
 攻撃態勢をとり、口を大きく開けていたのだ。
 跳ね上げられたゴミは、容赦なく、その中に飛び込んだ。
「──!」
 声にならない悲鳴を上げる加持。
 その加持へ向けて、降り注ぐゴミの中を貫くように、襲撃者が飛びかかってきた。
 かわせない。
 加持は、瞬時にそれを理解した。
 反射的に、ATフィールドを展開しようとする。
 ATフィールド。絶対の領域。これある限り、物理的な攻撃は、一切無効化できる。加持が、自分に敗北はないと思っているゆえんである。
 しかし。
 ここで、先ほどの懸念が再び頭を掠める。
 これは、碇シンジの罠ではないか?
 だとしたら?
 だとしたら、ATフィールドを展開するのは拙い。
 何しろ、ここは使徒迎撃都市第三東京市。ATフィールドを展開すれば、即座に知れる場所だ。
 加持がATフィールドを展開した次の瞬間、あの「ギターを持った渡り鳥」が叫ぶだろう。
「パターン青、使徒です!」
 と。
 となれば、EVAを派遣して──いや、既にEVAは近くで待機しているかも知れない。
 そう言えば、このマンションには人気がなかった。最初から、EVAでこの場所ごと殲滅するために、人を離しているのではないか?
 それは、碇シンジの一番得意とするやり方!
 加持はぞっとする。
 これは、そこまで綿密に考えた、罠かも知れない。
 考え過ぎではないのか?
 恐慌に陥りかけた思考を立て直すために、あえて否定してみる。
 しかし──相手は、あの碇シンジだ。少なくとも、一度は自分を出し抜いた、あの碇シンジだ。油断は出来ない。考えれば考えるほど、この状況はやばいことに、今更ながらに気が付く。
 加持のその思考は、一瞬だった。
 しかし、その一瞬は、致命的な一瞬だった。
 ATフィールドを張るか、それとも張らないか。僅か躊躇い。
 その時間は、襲撃者の攻撃に対処する時間を奪ってしまった。
「──!」
 加持の脇腹に、襲撃者の体当たりが炸裂していた。しかも、只の体当たりではなかった。体を激しく回転させた体当たり。超人パワーならば、これで二倍になるような、鋭い回転。
 加持は、ハリ●ーンミキサーの直撃を喰らったみたいにもんどり打って、宙を飛んでいた。きらきらしたモノが零れているのは、車田飛びか。兎に角、凄い勢いですっ飛ばされていた。
 そして、グシャ、っと、潰れるような音を立てて、ゴミの山に沈み、ぴくりとも動かなくなった。


 それは、自分が倒した相手を見下ろしていた。
 このまま、とどめを刺して、餌にするか?
 久しぶりの動物性タンパク質、ごちそうだ。
 それが、一番冴えたやり方に思えた。
 ──が、実行するより先に、それは、それをこの部屋に閉じこめていた、外界への扉が開いていることに気が付いた。
 それは、部屋の中、部屋の外へと続く扉、そして倒したばかりの相手を等分に眺めた。
 そして、結論した。
 ゆっくりと、外界への扉へ向けて、進んでいく。
 この部屋は、彼にとって揺り篭だった。そして、いくら心地よかろうとも、揺り篭の中で暮らし続けることは出来ないと、それは当たり前に自覚していた。
 それは、躊躇うことなく、外へと出ていった。
 一度も、振り返ることなく。


 ケモノは、野に解き放たれた。

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