#114 眠れぬ夜


 OTRの甲板の上。ネルフ輸送ヘリから視線を逸らし、俯いた少女の顔からは、いつもの笑顔が消え失せていた。普段はさほど意識したことがなかったのだが、柔らかな笑みを消したその横顔は、吃驚するほどに整っている。長い睫毛が影を落とし、どこか、儚げな雰囲気を見せる。
 鈴原トウジは、少女の横顔に見とれている自分に気が付いた。
「……なんでや?」
 小さく、口の中だけで呟く。
 胸の鼓動が、常よりも早く、大きい。横に立っているケンスケに気が付かれてしまうのではないかと心配するほどに。
 視線の先の少女は、小さく微笑む。普段の柔らかな微笑みと違い、どこか寂しげで、力のない笑み。
 トウジは、胸を締め付けられたように感じた。針で、心臓をつつかれたように、痛い。
 改めて少女を見て、トウジは初めて、少女が非常に華奢であることに気が付いた。普段は、自分などよりも余程強く、怖い存在。少女は常に微笑み、世の中に怖いモノなど無い。そう考えてきた。しかし、それは大きな間違いだった。
 目の前の少女は非道く頼りなく、か弱げに見えた。
 今すぐ少女のそばに寄り、その細い肩を抱きしめてやりたい。
 胸の内に芽生えた欲求のままに、トウジは少女のそばへと、静かに近寄る。
 いや、抱きしめてやりたい、ではない。抱きしめなければならない。
 そうしなければ、今にも少女は消え失せてしまいそうなほど、頼りなく見えた。
 いつの間にか、横にいたはずの邪魔者──ケンスケの姿は見えなくなっている。素晴らしく都合が良いことに、世界に存在するのは自分とその少女のたった二人のみ。
「……ユウキはん」
 少女の名を小さく囁きながら、トウジは静かに腕をその肩に伸ばす。壊れ物を扱うような、優しく、繊細な手つきで、少女──加賀ユウキの肩を抱きしめるようにする。下手に乱暴にしたら、その瞬間にユウキは壊れてしまう。そんな恐怖が、トウジらしくない、静かな行動をさせていた。
 ユウキははっとしたように、トウジの方に顔を向ける。
 そこに浮かんでいた表情は、驚き。しかし、驚き以上のモノではなく──少なくとも、嫌悪の表情ではなかった。
 その事に力を得たトウジは、ユウキの体を抱きしめる。
 力一杯抱きしめたいという欲求を抑え、壊してしまうことがないように気を使いながら。
 それでも、自分の腕の中に、ユウキの柔らかで暖かな体の感触を感じ、ますます、トウジの鼓動は高まる。
 腕の中のユウキを見下ろすと、照れたように頬を僅かに赤く染めて、それでも真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
 トウジの胸の高鳴りは、これ以上ないほどに高まっていた。腕の中に抱きしめているユウキには、当然、聞こえてしまっているだろう。恥ずかしさ、照れ──しかし、それ以上に、自分の腕の中にユウキがいることに対する喜びを感じていた。
 ユウキは真っ直ぐにトウジの顔を見つめていたが、不意に、ゆっくりと瞼を下ろし始める。長い睫毛に縁取られた瞳が閉ざされ、僅かに顎を上げて、ほんのちょっぴり唇を尖らせる。
 こ、これは──!
 いくらトウジが鈍くても、何を期待されているか、解らないほどではない。ぐびびっと、喉が干上がる。
 怖い怖いシンジの顔が脳裏に浮かんだのも一瞬。
 半ばパニック状態、出来損ないのロボットのようなぎくしゃくした動きで、それでもトウジは唇を思い切り尖らせると、ユウキの顔に──

 むちゅ〜〜〜〜っと、ユウキの唇に口づけした瞬間、げいんと頭に一撃。
「止めろ、トウジ、寝ぼけるな!」
 堪らず口を離した瞬間、至近距離から大声が炸裂する
 トウジの腕の中のユウキは、あっという間に逃げ出していく。あろう事か、部屋の隅に向かって、ぺっぺと唾を吐いている。いくら何でも非道すぎる、とショックを受けたところで、トウジはようやくそれがユウキではなく、ケンスケであることに気が付いた。
「ケンスケ? 何でお前が──」
「何で、っていうのは、俺の台詞だ!」
 ケンスケが、怒鳴り返してくる。
「あれ?」
 まだ、覚醒しきっていないボケボケの頭を傾げ、トウジは周囲を見回した。
 ここは、OTR甲板ではなく、碇組本部兼碇邸の離れに存在する、プレハブ小屋。トウジ、ケンスケが暮らしている共同部屋だった。
「何でワイ、こんなところにおるんや? OTRは?」
「寝ぼけるな!」
 ケンスケが、更に怒鳴る。
 普段は、どちらかと言えば、トウジの顔色を伺うような部分のあるケンスケであるが、今回は一切合切、両者の力関係を考慮せずに怒鳴りつけてくる。
「いきなり人に抱きついて、おまけに──」
「ワイがケンスケに抱きついた? 何やそれは──」
 と言い欠けて、トウジはようやく、夢と現実の境界をはっきりとさせた。
「何やて?」
 トウジは、ケンスケを見た。
 ケンスケは、ぺっぺっぺっぺと唾を吐いた後、部屋の片隅にある簡易キッチンの流しでうがいをし、腕でしきりに自分の口元を拭っている。まるで、汚れきったそこを少しでも綺麗にしようと試みているように。
「げ〜〜〜〜」
 トウジは、ようやく理解した。慌てて飛び起きるとケンスケを突き飛ばすように流しを占拠、うがいを始める。一刻も早く綺麗にしなければばい菌に感染してしまう、そんな必死さで。
「吐きたいのは俺の方だよ」
 突き飛ばされてしりもちを付いたケンスケは、不機嫌につぶやきながら、立ち上がる。お尻の埃を払う仕草をしながら、ぽつりと呟く。
「まさかトウジ、そっち方面に目覚めたって事は……」
 お尻を押さえながらのケンスケの言葉に、トウジは過剰反応した。
 うがいをぞんざいに中断すると、ギロリとケンスケを睨み付ける。相手が親でもぶっ殺しそうな視線である。
 ケンスケの言葉は、トウジにとってタブーだった。
「……じょ、冗談だよ」
 慌て、取り繕うように言うケンスケの顔を凄い視線で睨み付けると、トウジは念押しするように告げる。
「冗談でも、そないなこと言うと、許さへんで」
 しかし、内心で僅かに安堵していたりもする。寝言でやばいことを口走ったりしてはいないようだと、推測できたから。どういう夢を見ていたか。それを他人に知られるのは、拙い。それが巡り巡ってシンジにまで聞こえたら最後、芦ノ湖の底を素潜りで探索をする羽目になるかも知れないから。
「あ〜〜。こんな時間だよ」
 トウジが物思いに沈む間に、ケンスケは自分の布団の方に戻っている。枕元の時計を取り上げると、時間を確かめて顔を顰める。まだまだ、夜明けには遠い時間帯だ。
「全く、寝ぼけるのも程々にしてくれよな。こないだまでは夜中に悲鳴を上げて飛び起きるし──それがようやくおさまったと思ったら、今度は……」
 ぶるぶると体を震わせ、ケンスケは乱れた布団を直すふりをしながら、仲良く並んだトウジの布団から自分のそれを、こっそりと離していく。
 こっそりの割りには大胆に離したため、ケンスケの行動は見え見えだったが文句を言う気にもならず、トウジも自分の布団の方に戻る。
「すまんな」
 一応、悪いという思いはある。確かに、この間まではケンスケに迷惑をかけた。
「男の友情、素晴らしいッスよ!」
「いやや〜!」
「さあ、自分と一つになるッスよ! それはとても気持ちのいい事ッス!」
「ああ〜、こんなの初めてや〜!」
 と言うような悪夢を見続けていたのだ。
 ぶるりと身震いし、トウジは自分の布団におさまる。
 この間までは、すこぶる付きの悪夢を見続けていた。
 では、今の夢は良い夢なのか?
 天井を見上げながら、トウジは自問する。
 答えはすぐに出た。
 良い夢だとは、とても思えない。
「なあ、トウジ?」
 小さく、ケンスケの声が聞こえた。
「なんや?」
 お座なりな感じで、それでもトウジは応じる。
「お前、何か悩みでもあるのか? 俺じゃあ頼りないかも知れないけど、相談には乗るぞ?」
「……ああ」
 矢張りお座なりに応じる。
 ケンスケの好意はありがたいと思う。しかし、とてもではないが相談できるようなことではない。
 そのまま無言になったトウジを、ケンスケは辛抱強く待ち続けていたようだ。しかし、トウジが口を開くつもりはないと言うことを悟ると、小さくため息を零した。
「まあ、気が向いたら、話してみてくれ。──ああ、そうそう、ボラギ●ールだったら、そこの救急箱に入っているからな」
 素っ気なく、わざとらしくない程度の口調で、ケンスケが告げてくる。
「おおきに」
 せめて礼くらいは、とトウジは口を開き、それから首を傾げた。
 ボラギ●ール?
 それが、何の薬なのか若干考え、理解すると同時に、トウジは飛び起きていた。
「なんや、ボラギ●ールって!」
「え?」
 ケンスケは、トウジの剣幕に驚いたように、体を起こす。
「それを悩んでいるんじゃないのか?」
 不思議そうに尋ねてくるケンスケに、トウジは礼を言ったことを激しく後悔した。こいつは、全くもって思い切り勘違いをしている。いや、微妙に、完全に勘違いといえない部分が、ますますトウジに腹立たしく感じさせる。自然、声がとんがり、荒くなった。
「何で、ワイが、そんな薬のお世話にならなあかんのや!」
「え、何でって、それは勿論──いや、何でもない」
 トウジのぶっ殺しそうな視線に気が付いたのか、ケンスケの声は尻窄みに消える。
 トウジはしばらくケンスケを睨んでいたが、ふう、とため息を零すと共に肩の力を抜き、立ち上がった。
 トウジは、非道く、目がさえてしまっている自分に気が付いていた。このまま横になっても、しばらくは眠りが訪れないことが確信できた。本来、自分は寝付きが良いはずなのに、そう感じてしまう。ますます鬱々とした気分になる。
「どうした?」
「ちょっと、便所や」
 ケンスケの問いに、お座なりに応じる。
「ああ、成る程」
 ケンスケは、納得したように頷くと、同じように布団から起きあがった。
 こいつ、連れション行こうっちゅうんか?
 と、首を傾げるトウジに、「少し待ってろ」とケンスケは告げて、自分の荷物をひっくり返し始めた。
 いきなり何をするのか首を傾げるトウジに、ケンスケは一冊の本を取りだした。
「何や?」
「それを使えよ」
「あん?」
 と受け取った本をパラパラとめくり、トウジは慌てて閉じる。
「なんや、これは?」
「俺の自信作、凄い凄い凄すぎる〜シリーズの最新刊だ」
「だから、何でこないなもんを……」
「照れるな。照れるな。──トイレって、つまりはそう言うことだろ? 兎に角すっきりしてこいよ。俺も、また襲われるのは勘弁して欲しいし」
「だから、全然違う、ちゅ〜とるんや!」
 どんな悩みを抱えていようとも、絶対にこいつにだけは相談しない。
 トウジは心の中で誓い、乱暴な足取りで部屋の外へ向かった。
 一応、用心のために本は持っていくことにした。

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