#115 100人に聞きました
トウジは、手に持った本を丸めると、部屋を出てぶらぶらと庭を散策することにした。
セカンドインパクトの影響で、年中夏の日本。それでも、日が落ち、深夜ともなれば暑さも和らぎ、過ごしやすい温度になる。散策するには、今日はいい感じの夜に思えた。
ふらふらと当てもなく、庭をうろつく。幸いと言って良いのか、碇組本部の庭は、充分以上の広さを持ち、ちょっとした散歩には充分だった。
トウジは、飛び石に沿って歩きながら、空を見上げた。
満天の星──と言うには、雲が多すぎる。その上、トウジには天体観測の趣味はない。だから、空を見るともなしに見ながら、ここ数日の夢の内容──そして原因について考えてみた。
内容は、今日見たモノと大差ない。
原因は──
原因は、矢張り、あのOTRでの、シンジのプロポーズ、その瞬間に求められるだろう。
アスカにプロポーズしたシンジは、そのままヘリに連れ込んでおっぱじめた。
その時、ケンスケを初めとして、その場にいた者達は皆、視線を輸送ヘリに向けた。ケンスケの様に、興味丸出しで「凄い凄い凄すぎる〜」ではなくとも、それなりの興味は持っていただろう。何処までもマイペースなシンジに対する呆れも、多少あったかも知れない。
その時、トウジは──トウジだけは、ヘリに連れ込まれるアスカから視線を逸らしていた。
どれだけ言葉を飾ろうとも、アレはレイプだった。レイプ以外の何物でもなかった。
そしてトウジは、レイプに対しては苦い思いをしたばかりだった。
レイプは、非常に効率のいい拷問だという話がある。肉体の損傷は少なく、そのくせ、精神に与える影響は非常に大きい。無理矢理に犯される。そのショック。トウジは、我が身に思い知らされていた。──いや、トウジの場合はレイプと言うよりも、尊厳破壊か。これ以上の拷問は、後一種類しか存在しないという代物だ。これを喰らえば、殆どの者が隠していることを吐いてしまう。それほどの衝撃。
それだけに、トウジは正視していることが出来なかった。
かと言って、止めさせることはトウジの力では不可能だった。
自分が供物として差し出されたことを悟り、シンジには一度突っかかっていった。死ねば諸共。シンジを殺すことができれば、自分が死んでも構わない。そこまで思い詰め、シンジの胸ぐらを掴まえた。──しかし、そこまでだった。
シンジの一睨み。それだけで、トウジは頭の中を冷やされてしまった。背筋を氷でなで上げられたような感覚。アレは、恐怖だった。絶対的な力の差。自分がいくら吼えようとも、シンジには全く痛痒を与えることは不可能。シンジの正体を知る以前に、殴りかかり、返り討ちにあった経験もある。あるが、そんなことは問題ではなかった。シンジがちょっと、ほんのちょっとだけ本気になれば、自分の命はあっさりと失われるだろう。それを、きっぱりと悟ってしまった。怖い。恐怖に心を鷲掴みにされ、思わず近くにいたケンスケに八つ当たりをしたあの時。
自分は、非道く無力だった。
止めることなどは不可能。自分に出来ることは何もないのだ。
思い知らされていた。しかし、だからと言って、何も考えずに、それを見つめ続けることも不可能だった。
だから、思わず視線を逸らしたトウジは、それを見てしまった。
ほんの偶然。
逸らした方向が違えば、見ることがなかった。
逸らすタイミングが違えば、見ることはなかった。
なのに、丁度ベストのタイミングで、偶然、トウジはユウキの方に視線を向けていた。
加賀ユウキ。
トウジの印象を言えば、いつも笑っている女、これである。
そこいらのひと100人に聞けば、大多数は同じように答えるだろう。
いつもにこやかに、柔らかく微笑んでいる少女。それが、加賀ユウキだった。
容姿以前に、微笑んでいるという印象が先に立つ少女。
しかし、トウジの視線がそちらに向いた瞬間。その瞬間だけは、ユウキは常のように笑ってはいなかった。
非道く、硬い横顔。
笑みを消したユウキの横顔は、何時もの柔らかな線が消え、非道く硬質な印象があった。
同時に、こんなに綺麗だったのかと、思わず驚いてしまうほど、整っていた。
そして何よりも、非道く弱々しく見えた。シンジさんの相棒の怖い女、そんな思いもあったが、それが全くの勘違いに思えてしまうほど、弱々しい。何故、自分があれほどの恐怖を感じていたのか理解できないほどに、ユウキは頼りなく見えた。肩などは非道く細く、華奢であることにも、初めて気が付いた。非道く、庇護欲を感じさせた。
あのままの表情でいられたら、思わず──先刻の夢同様──後先考えずにユウキの肩を抱きしめていたに違いない。
しかし、次の瞬間にはトウジの視線に気が付いたのか、常のような笑みを顔に浮かばせていた。しかし、一度あの表情を見てしまったトウジには、その笑みは何処かわざとらしく、無理をしているような印象が残ってしまった。
あの表情。
ひとりぼっちの子供。親もなく、たった一人で──しかし、泣くことを必死で堪えて立ちつくしている子供。
ユウキの表情に、そんなことを感じていた。
世は全て事もなし。常に温厚に微笑んでいる。
ユウキの印象とは、対極にあるような寂しげで頼りない表情。それでいて、人に頼ることを否定しようとしている。
その表情を見てしまった後では、同じように微笑みを浮かべられても、素直にそれを信じることは出来ない。
いつぞやか、リツコや冬月が感じた印象。トウジはそれを無論知らないが、同じように感じていた。
ユウキの笑顔。それは、内心を押し隠す仮面なのだと。
辛いこと、悲しいことがあろうとも、ユウキは同じように微笑んでいるだろう。
微笑んでいる。
これがくせ者で、綾波レイの様な、無表情には見えない。
しかし、微笑みという表情しか浮かべていないのであれば、それは無表情と全く変わることがないのだと。
そして、同時に、トウジは理解をしていた。
その瞬間に、自分の心は、ユウキに奪われてしまったのだと。
「男らしゅう無いな」
トウジは、空を見上げ、自嘲するように呟いた。
硬派。
自分のことを、そう考えていたはずである。
そうあろうと試みていたはずである。
なのに、自分はちっとも硬派ではなかった。
いや、以前から、自分が硬派でないことには気が付いていた。
ケンスケのようにちゃらちゃらとしていたつもりはない。男らしくあるように、妹のゲシが誇りに思うような兄であろうと、心に決めていた。
しかし、現実はまるで違った。
女のために右往左往するのはみっともない。そう考えていたが、現実は、それ以前から、女のために右往左往していた自分。
洞木ヒカリ──委員長の前では、どうにも、自分のペースが崩れる事に気が付いていた。
鈍い鈍いと言われていたが、現実、全く気が付いていなかったわけではない。
委員長が、自分に対して好意を抱いていること。
そして、それを自分が喜んでいること。自分も、委員長に好意を抱いていること。
しかし、照れくささもあって、気が付かない振りをしていた。
こんな卑怯臭い自分が、硬派を名乗るとは、全く巫山戯た話や。
トウジは、自嘲する。
しかも。
しかも、そこいらの軟弱な色男のように、ヒカリに対する自分の思いとは別に、今また、ユウキに対しても、好意を抱いている自分がいる。
その自分が、許せなかった。
たった一人に対して思いを寄せるのであればまだ許容できるが、二人の女性に思いを寄せている。
自分が、非道く汚れてしまったような気がした。
トウジにとって、世界はシンプルなモノのはずだった。
この国の法律で、婚姻が認められているのがたった一人であるように、現実、思いも寄せる相手も、たった一人でなければならない。そう考えていた。
しかし、ヒカリとユウキ、その間で千々に乱れる自分の心がある。
非道く納得がいかず、自分が何故、その様な卑怯な思いを抱くことが出来るのか、理解できない。
「……まあ、どのみち相手がユウキはんやしなあ」
上手く行くはずがない。
正直にそう思う。
非道く胸の奥が痛んだが、それが現実だと、頭の隅っこでは納得していた。
自分などに、どうこうできるはずもない。シンジとユウキ、その間には、余人の入り込む隙など、これっぽっちも存在していないように思えた。あの二人は、二人一緒で一つなのだ。向かい合わせの信号機。夫婦茶碗。──片方が欠けたら、意味を失う。二人のあり方は、そうなのだ。
しかし、それを考えると、怒りも感じた。
何故、シンジはあそこでアスカにプロポーズをしたのか。
いや、プロポーズはこの際どうでも良かった。
ただ、その結果、ユウキにあの表情をさせたこと。それが許せなかった。
自分には、高嶺の花だと身を引こう。ならばせめて、幸せになって欲しい。あんな、悲しい表情は浮かべないで欲しい。心から──常のような、作った笑顔ではなく、心から微笑んでいて欲しい。
それであれば、素直に諦めることも出来る……かも知れない。
「未練……やな」
空に向かい呟く。
頭でどう考えようとも、感情の方はなかなか納得してくれない。
今がチャンスだと囁く声が聞こえてくる。
男女の機微には疎いつもりだが、それでも、弱った女性はつけ込みやすい、そんな卑怯な思いも浮かぶ。そして、まさしく、今のユウキは弱っているように見える。まかり間違って、運が良ければ、上手く行くことも全く無いとは言えないかも知れない。上手く行ったら行ったで、怖いシンジがいるのだが──それも、もしかしたら、まかり間違って上手く行くことも全くないとは言えないかも知れない。
自分に都合の良い想像に苦笑する。
「全く、ワイも……」
「あれ? 鈴原君?」
と、不意に声がかかって、トウジは飛び上がった。
その声を、聞き間違えるはずもなかった。
慌てて振り返ると、縁側に、ユウキが立っていた。
あまりにご都合主義、タイミングのよすぎる登場に突っ込みを入れる余裕もなく、トウジは自分の心臓が跳ね上がる音を聞いた。
「こ、これは、ゆ、ユウキはん」
見苦しく、どもってしまう。
ユウキは、トウジの反応に僅かに首を傾げた。
ユウキは、常は頭の後ろで一括りにして持ち上げている髪の毛を、今は自然に下ろしている。おまけに、恰好はパジャマだった。大きめの、柔らかな淡いピンク色のパジャマ。
普段と違う恰好に、ますます心臓が高鳴ってしまう。
おまけに、何と言っても、微妙に大きめのパジャマ。襟元が、僅かに大きく開いている。無論、胸が見えるとかそんなことは一切無いのだが、首の付け根、鎖骨が僅かに見えていると言うだけで、ドキドキしてしまう。
「こんなに遅くに、一体どうしたんですか?」
ユウキの声が、トウジには天上の音楽のように聞こえた。非道く耳に心地がいい。馬鹿らしい話だが、おまけに、自分のことに興味を持っていると言うこと、それだけで、ますます嬉しくなってしまう。
あかん、相当にやられとる。
トウジは自覚するが、だからといって、どうしようもなかった。
年齢性別職業ツベルクリン反応郵便番号の如何を問わずに感染してしまうのが、恋と呼ばれる一過性の発情症候群なのだ。偉いミュージシャンがそう言っているのだから、それはこの世の真理だ。そして、理性では、なかなか感情をコントロールできない。特に、この症候群にかかってしまった場合は。
「え、ええと、ワイは……その」
慌て、答えようとするトウジ。
「ああ、成る程」
しかし、それより先に、ユウキが納得したように頷いていた。
そして、微妙にトウジから距離を取る。
何や、ワイ、なんか悪いことしたんか?
何故、距離を取られねばならないのか。哀しみと共に、首を傾げる。
それから、ユウキの視線が、自分の手元に向いていることに気が付き、そちらを見る。
トウジの手は、丸めた本を握りしめている。
丸めた本……
丸めてはいるが、それでも、その本の内容を推測できる外見をしていた。
さ〜〜〜〜〜っと、トウジの顔から血の気が引く。
「ちゃ、ちゃうんです! こ、これは……」
「若いですから、仕方がないですけど……まあ、程々に」
ユウキは、パジャマの襟元をしっかりと握りしめ、僅かたりとも肌の露出を減らそうと試みながら、トウジに背を向けた。
「ちゃ、ちゃうんです! ほんまに、ちゃうんです!」
トウジの必死の声も、ユウキには届かなかった。
「……お、おのれ〜」
逆恨みだとは承知で、それでもトウジは、ケンスケに恨みを抱かずにはいられなかった。
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