#110 デッド・オア・アライブ
赤木リツコは、制御室で仕事をしていた。
ネルフ技術部のトップ、リツコの日常は忙しい。忙しすぎるほどに忙しい。それは、EVAの兵装開発を時田ゴロウに任せ、マヤにもある程度責任ある部分を任せ、更には部下にいろいろと割り振りをしても、それでもやっぱり忙しかった。過剰勤務。ここでリツコが急死したら、裁判所は無条件で過労死と認定してくれるだろう。
それでも、リツコにとって、現在の仕事はやりがいがあることには間違いない。EVA、MAGI、その他、他にはない研究素材。どれもが非道く興味を惹きつける。
とは言え、心躍る研究素材に惹きつけられても、肉体の限界を突破することは出来ない。ある程度までは、精神の高揚で疲労を忘却していられるが、それを越えてしまえば、どうしようもない。
リツコは、大きく息を吐いて、一旦、端末から注意を逸らした。
疲れてしまった目を休める。眉の付け根を指でほぐすが、この程度では疲労回復は不可能である。
「弐号機の修復は終わった。でも、零号機の修復と装甲の換装はまだまだこれから。ダミープラグも基礎研究がようやく終わって、試作プラグの製造に入らなくちゃならないし……」
仕事を指折り数え、絶望的な気分になりそうだったので途中で止める。
因みに、ダミープラグはシンジの指示の元で開発が行われている。
ダミープラグはパイロット抜きでEVAの起動、そして戦闘を可能にするシステムである。ダミープラグの実戦投入が可能となれば、現時点のゆとりのない状況──パイロットとEVAの機体が同数という状況を改めることが出来る。パイロットの内の誰かが怪我でも病気でもして身動きできなくなれば、戦闘に投入できるEVAの数が減ってしまう。これは、非常によろしくない。何しろ、何が起こるか解らないのが世の中だ。しかも、シンジなどは多くの敵を抱えている。滅多なことでシンジがどうにかなるとも思えないが、備えは必要である。その為のダミープラグ。
だったら、予備としてチルドレンを新たに選出するという方法もある。何しろ、表向きの説明とは違い、チルドレンなんて、希少でも何でもない。その気になれば、いくらだって作り出せるし、実際、すでに一クラス分確保されているのだ。出来れば、ダミー以前に正副のパイロットを確保しておきたいモノだ。いずれ、その方法を選ぶかも知れないが、現時点では、シンジらにその考えはない。まずは、情報を少しずつ小出しにして、周囲の組織に対する宣伝、準備をしてからだと考えているようだ。
ところで、元々、このダミープラグの開発は、ゲンドウによって命じられていたことである。
予備。
ゲンドウは、シンジのことをこう呼ばわっていた。
実際の状況は兎も角、かつては、ゲンドウは真面目にシンジのことを予備としか見ていなかった。初号機のメインパイロットには、本来、綾波レイを予定していたのだ。第3使徒戦でシンジを急遽招聘、EVAに乗せたが、これは、初号機の中に眠る碇ユイに刺激を与える。その程度の理由でしかない。戦闘に関しては、ピンチになればEVAが暴走して何とかなる、その様に考えていたのだ。その後も、シンジをパイロットとして絶対に使わねばならない、などと考えていたわけではない。あくまでシンジは切欠に過ぎず、それを果たした後は、どうなろうとも構わない。無論、刺激を与える期間が長くなれば、それだけ目覚めは早くなるだろうが、絶対に必要という訳ではない。取りあえず切欠さえ与えれば、後は何とでもなるだろう。それが、ゲンドウの本音だった。そして、その後はレイを初号機パイロットに当て、更に、それで問題があればダミープラグを投入する、そう言う具合に考えていた。
だが、現実、シンジによってゲンドウの計画は、木っ端微塵になってしまっている。
今やゲンドウはネルフの絶対君主ではなく、只の裸の王様。逆に、シンジこそがネルフの支配者になってしまっている。
挙げ句、ダミープラグもシンジに利用されようとしているとなると、ゲンドウは苦虫を何匹噛みつぶしても足りないような気分だろう。
「零号機の装甲は──やっぱり、弐号機と同じタイプにするべきね」
ぶつぶつと呟きながら、リツコは仕事に戻る。
弐号機は、最初のプロダクションモデル。以後のEVAは、この弐号機の仕様を元に建造されることになる。汎用性、と言うことを考えれば、零号機の装甲に弐号機と同じタイプを使用するのは、当然の流れである。
だが、そうすると今度は、初号機が浮いてしまう。
初号機は、テストタイプ。その為か、弐号機の装甲との互換性は皆無である。
ネルフの主力は、アスカがどう考えていようとも、シンジと初号機のコンビである。それを考えると、初号機の装甲こそ、予備を用意しておきたい。しかし、現実には初号機の装甲だけが特注扱いの品になってしまい、これは非常によろしくない。いざというときに、修理が間に合わなくなる危険もある。出来れば、初号機の装甲も他と共通のモノに換装したい。しかし、装甲の換装は大仕事である。そして、その間初号機が使用できなくなるとなれば、おいそれと出来ない。ある程度の使徒襲来スケジュールはシンジらによってもたらされているが、完璧とは言い難い。初号機不在という状況は、避けたい。
全く、するべき事、考えなければならないことは多い。
多すぎだ。
リツコは、少々うんざりとした気分になってきて、小さくため息を零す。
そのリツコに、背後から誰かが抱きついた。
「──!」
シンジか?
最初に、その可能性を考えたリツコである。
いきなりで驚いたが、それだったら全然オッケーである。かつて、ゲンドウにも同じように、仕事中に後ろから──と言った具合にされた事もあった。あの時は、ゲンドウは自分のことしか考えておらず、痛いやらなにやら、自分にはちっとも良くなかった。だが、相手がシンジとなれば、それは、ゲンドウとは比べモノにならないほど、もの凄く気持ちがいいことになるだろう。
だから、全然オッケーだ。
しかし。
リツコは、すぐにこれが、シンジでないことに気が付いてしまった。
「少し、痩せたかな?」
背後から聞こえてきた声に、リツコは傍から聞こえそうなほどに、心臓の鼓動を高めてしまう。
勿論、ときめきではない。
「……そ、そう?」
声が甲高くひっくり返ってしまいそうになるのを必死で堪え、リツコは返答した。いや、これは無駄な努力かも知れない。何しろ、相手は背後からリツコを抱きしめているのだ。当然、先ほどの驚いた瞬間の心音は、相手にも知れているだろうから。如何に表向き冷静であると取り繕おうとも、内心はバレバレだろうから。
相手──加持リョウジは、何事も気が付かなかったかのように、続けた。
「悲しい恋をしているからだ」
「……ど、どうして、そんなことが解るの?」
どもるな、私。
リツコは自分に言い聞かせるが、なかなか上手く行かない。
自分は、冷静で知的な赤木リツコである。だから、冷静にならねばならない。特に、この加持リョウジという男がそばにいるときは。焦ったり、混乱したり──そう言った感情は、生存のためのマイナス要因にしかならない。生か死か。ほんの些細なことで、その分かれ目が来る。リツコはそう確信していた。
何しろ、加持リョウジは、欧州ゼーレ組のトップエージェント、4枚の切り札の一枚、灰のカジエルなのだ。つまりは、碇シンジの敵で、同時にそれは、赤木リツコの敵であると言うこと。それだけに、弱いところは見せられない。
──とは言え、この状況。背後から抱きしめられて、逃げ出すことが出来ないと言う状況下では、冷静さを保つのは、非常に難しかった。いわば、断頭台に拘束されてしまったようなモノだ。何時、刃が首筋に降ってくるか、解らない。冷静でいるには、いささか厳しすぎる状況だ。
OTRの時は良かった。加持がそばにいたときには、常に、シンジがそばにいたから。だから、冷静さを保って対応できた。しかし、今ここにシンジはいない。
「それはね」
加持は、リツコの内心には当然気が付いているだろう。どこか、猫が虫などをいたぶるような嗜虐的な響きを声に込め、続けた。
「涙の通り道にホクロのある人は、一生泣き続ける運命にあるからだよ」
「……こ、これから、私を口説くつもり?」
会話を続けながら、リツコの視線は助けを求めて周囲を彷徨った。
残念なことに、周囲に助けはいない。リツコは一人きり──いや、加持と制御室に二人きりだった。
落ち着け、落ち着け私。
リツコは自分に言い聞かせながら、このような場合、どうすればいいかを必死で考える。
そう言えば、学生時代にも、加持にちょっかいを出されたことがあった。あの頃は、加持の正体とかそう言うことは関係なくて、ただ、鬱陶しい軟派男、この程度のことしか考えていなかった。それでも辟易したことは確かで──それでも何故、親しくしていたかと言えば、加持が友人であったミサトの恋人だったからだ。
そう、ミサト!
リツコは、天啓を受けたような気持ちになった。
こういう場合、どこからともなくかぎつけてきたミサトが登場し、加持に焼き餅を妬くというのがパターンだったはずだ。そして、加持はそのミサトをこなれた態度であしらい──要は、いちゃついていたのだ。加持は、ミサトが自分に思いを寄せていることを確認し、にやにやと笑っていたモノだ。
ミサト、今こそあなたの出番よ。即座に登場しなさい。
リツコは、心の中で命令した。
待つことしばし。
ミサトは現れなかった。
どうして現れないのよ〜! 普段は、用もないくせに人の部屋に入り浸って、仕事の邪魔ばっかりしていたというのに、この肝心なときにだけ、現れないなんて。
と、内心でミサトを罵り、リツコは思い出す。
ミサトが現れるわけがないことを。
ミサトは、当の昔に、シンジによって沈められてしまっているのだ。お風呂か、芦ノ湖か、その辺りは怖いので確認していないが、どっちにせよ、正義の味方よろしく、この場にあられたりはしないことを。
自分の迂闊さに歯がみする。
冷静でいようとして、ちっとも冷静でなかったらしい。
こうなると、自分の才覚のみで、この危機的状況を脱出するしかない。
シンジ君、助けて。
リツコは、内心で悲鳴を上げた。
ちっとも、自身の才覚ではなかった。
「なあ、リッちゃん」
リツコを面白そうに観察していた加持であるが、いい加減飽きてきたのか、その名前を呼ぶ。
「……な、なに?」
「おいおい、俺はリッちゃんを食べちゃったりはしないよ。もう少し、落ち着けよ」
加持は僅かに笑いながら告げる。
リツコは、この言葉をちっとも信用しなかった。逆に、頭から食べられてしまうのだろうか、そんな具合に考えてしまう。何しろ、相手は人造の使徒。エネルギー補給のために、それくらいするかも知れない。
「それよりさ。リッちゃん」
「……わ、私はあんまり美味しくないわよ」
「だから、食べないって」
「……本当に?」
「本当さ」
加持は笑い、しかし、背後からリツコを抱きしめたまま、続けた。
「ただ、リッちゃんに尋ねたいことがあるんだ」
「……答えなかったら、食べるのね」
「おいおい」
加持は、流石に呆れたように、大きくため息を零した。
「まずはリッちゃん、落ち着けよ。大きく、深呼吸して」
言われたように、リツコは深呼吸をして──それから、顔を顰めた。
そして、顔を顰めたまま、言った。
「加持君、あなた、非道く臭いわよ」
「何?」
今度は、加持の方が少々慌てたようだ。素早くリツコから離れると、自分の袖の辺りを鼻に当て、臭いを嗅ぐ。
その慌てた様子を見て、同時に、解放されたこともあって、リツコは初めて冷静さを取り戻す。どうやら、そこが急所らしいと気付き、もう一差し。
「加持君? だらしがないのがスタイルかも知れないけど、不潔なのは許容できないわ」
「いや、ちゃんと風呂に入ったし、服も変えたんだが……くそ、まだ臭うのか?」
慌てたように、加持が尋ねてくる。自分では、全く臭いに気が付いていないようだ。
人は、他人が慌てると一緒になって慌ててしまうタイプと、逆に落ち着いてしまうタイプがいる。リツコは、後者だった。
リツコは加持の方に向き直り、足を組み、余裕の態度を見せる。半ば演技。だが、先刻まではそれすら出来なかったのだから、まだましな状態だ。
変わらず、加持がもしリツコをどうにかしようと思えば、抵抗する術はない。
しかし、最早リツコは狼狽えたりはしなかった。
「──で?」
逆に、リツコは尋ねていた。
「加持君は、何を聞きたいの? 本当なら、不潔な人はお断りだけど、加持君とは知らない仲じゃないから、特別に聞いて上げるわ。──もっとも、機密に関わることには、答えられないわよ」
「……ありがたい」
攻守は逆転したように見えた。
両者の戦闘能力は、加持が圧倒している。しかし、リツコは最早、加持を無意味に怯えたりはしなかった。
「で? 何? こっちは仕事もたまっているから、手短にお願いするわ」
「あ、ああ」
加持は頷き、言った。
「リッちゃん、葛城が何処に行ったか、知らないか?」
「え?」
リツコは、戸惑ったように加持の顔を見た。
「リッちゃんなら、知っているんだろう? なあ、教えてくれよ。葛城は、何処に行ったんだ?」
「え? あの、それは……」
リツコは戸惑い、困ってしまう。
再びの攻守逆転である。
まさか、どこかに沈んでいます、とは口が裂けても言えない。どうやら、今の態度を見るに、加持はミサトに未練たっぷりである。下手に真実を教えたら……
「な、なあ、リッちゃん、教えてくれよ」
すがりつくように、加持がリツコににじり寄ってくる。
「か、加持君、臭いわ。よらないで」
「そんなことより、葛城だ。葛城は──」
最早、先刻の必殺の一撃も、通用しなくなっていた。
「落ち着いて、加持君」
リツコは必死で加持を宥めながら、助けを捜した。
勿論、何処にも助けはいなかった。
全く、ミサト、早く登場しなさい。
先刻と同じ思考の陥穽に填り欠けるリツコ。
加持は、更にリツコににじり寄る。
その絶体絶命を見かねたのか、神さまが助けを派遣した。
第7の使徒、襲来である。
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