#12 碇ムテキ
第3新東京市全景を見下ろす、小高い丘の上。
そこに、一人の男の姿があった。
年齢的には、既に老人と呼ばれてもおかしくない。しかし、それは老人ではなく、男だった。
分厚い胸板、太い腕。鍛え上げられた肉体には、まるで老いの影は見あたらない。そこらの壮年男子など、軽く凌ぐ。
男は、鋭い、鋭すぎるほどの視線を、第3新東京市に向けている。
その男の顔には、一際目立つ額のばってん傷を初めとして大小無数の傷痕が走り、尋常ならざる人生を送ってきたことを証明していた。
「ふむ、早速、自らの組を興したか」
男の声には、僅かに感心するような響きがあった。
「シンジの奴め、思った以上にやるではないか。──だが、本当に難しいのはこれからだ。天野連合のあのお姫様が、黙ってい見ているはずがないからな。シンジよ、これからが正念場だぞ」
男の名前は、碇ムテキと言う。
元、神戸山王会、3代目会長。
現在は、その地位を返上し、隠居の身である。
とは言え、大人しく縁側でひなたぼっこ、等とは対極の位置にいる。
改造バイクで全国を、全世界を飛び回る毎日である。
「しかし、シンジには部下がおらんな。ステキの奴も思った以上に尻の穴が小さい」
山王本家と、シンジの間には、大きな亀裂が走っている。その結果、言いつけ通りに組を興したというのに、本家からの人材的、経済的な援助は、未だなされていない。
ネルフの職員を自分の部下にしたシンジであるが、矢張り、少々職種が違う。戦闘能力、と言う点では、経験不足を解消さえすれば、そこはプロとして訓練を受けてきている人間達である。直ぐに実戦で使用可能になるだろう。しかし、経営、と言う部分では、彼らは全くの素人である。そのあたりも教育するとして、矢張り、しばらくは戦闘行為以上に使い物にならないだろう。どちらも時間が解決する。しかし、シンジには時間が与えられていない。
天野連合が、のんびりとシンジが人材育成をするのを待ってくれるとも思えないのだ。
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す。そんな脳天気な人間が、裏の世界で生き延びることは難しい。やられたらやり返す。そこに妥協はない。妥協を見せないからこそ、彼らは恐れられる。手を出すのは得策ではない。そう思わせることは、重要な身を守る方法だろう。
天野連合は、即座に報復の部隊を差し向けてくるだろう。
それに対抗するのに、シンジ、ユウキ、田茂地、そして青葉の4人のみでは、流石に多勢に無勢、数の圧力の前には屈するしかなくなる。
「ふむ」
ムテキは、腕を組み、一つ頷いた。
「それでは、シンジが組を興した褒美は、そのあたりにするか」
一人頷くと、ムテキはその場を後にした。
ムテキが丘の上から立ち去り、同時に、違う場所では葛城ミサトが旧風間組組長宅、現碇シンジ宅へ移動していた頃。
シンジは、ネルフの付属病院の廊下を歩いていた。
その斜め後方には、ユウキが続いている。ユウキは、両手一杯に大きな花束を抱えている。
「ええと、ここが308号室ですね」
そう口に出して確認すると、ノックして入室する。
308号室、ベッドの上で雑誌を開き、くつろいでいた男が、二人の入室に気が付くと、慌てて姿勢を正す。ベッドの上で正座をするまでの姿勢の正しようだった。
「お加減は、どうですかあ?」
一寸間延びした口調で、ユウキが尋ねる。
「は、全然大丈夫であります」
慌てて、鯱ばった口調で応じた男は、帆村マサカネである。
「楽にしていて下さい。帆村さんは、怪我人なんですから」
シンジにそう促されるが、帆村は足を崩さない。
「いえ……そう言うわけには」
一寸、脂汗を流しながら応じる。
「構いませんよ。どうぞ、楽に」
「そうですよ。マサさんは名誉の負傷なんですから」
シンジ、ユウキに更に促され、それでも緊張しながら、帆村は楽な姿勢になる。まだ、両肩に力が入っていたが。
名誉の負傷。
ユウキはそう言うが、ちっともそうは思えない帆村である。
風間組組長宅襲撃に於いて、味方──シンジの配下の死傷者は、死者一名、怪我人一人である。その怪我人、それが帆村である。
このあたり、非常に理不尽な思いを感じる。
銃弾飛び交う中に飛び出し、マシンガンを乱射していた青葉シゲルは、かすり傷一つ負っていない。──と言うのに、遮蔽物の影に最初から最後まで隠れ、腕だけ突き出して散発的に打ち返していただけの自分が怪我をする。どこか、運命の女神の不公平さを感じている帆村である。
とは言え、幸い、怪我は右肩を銃弾が掠めた程度。用心のためと称して、是が非でもとばかりに入院した帆村である。それほど非道い怪我ではない。少なくとも、帰らぬ人となった伊東などよりは非常にましである。とにもかくにも、これで、しばらく骨休めを──強引な入院に、そうした、せこい計算があったことは否めない。今しばらくは、現実から逃避していたい。自分の立場について感じる理不尽な思いを、一時的にでも忘却していたい。そんな、逃避行動である。
しかし、シンジの襲来で、その望みはあっさりと瓦解する。
否、襲撃などと考えてはいけない。
お見舞いに来てくれたのである。そんな、不義理なことを考えては人間として間違っている。と言うか、そんなことを考えたと知れたら、正直、どうなるか──はっきり言って怖い。
ここは、素直に感謝をするべきだ。
必死に、自分に言い聞かせる帆村。しかし、とても素直に感謝をする、と言う思いは沸いてこない。
「花瓶が、ありませんねえ」
ユウキが、病室を見回して呟く。
「あ、か、花瓶でしたら、ここに」
帆村は背中を弾かれたように慌ててベッドから飛び降りると、ユウキに花瓶を差し出す。
「私が、花を生けてきます」
ここから逃げたい。そんな思いが表に出たのか、帆村が提案する。
「何を言っているんですか。怪我人は、大人しくしていて下さい。私たちは、お見舞いに来たんですから」
のほほんと応じるユウキに、その提案は却下される。
その、のほほんとしたユウキを見ると、帆村は、また混乱する。
女というモノは、わからない。
この、どこかとろそうにも見える少女が、無慈悲とも思える狙撃を──
頭を振って、その考えを追い出す。あまり追求すると、女性不信になりそうだったから。
ユウキが花瓶と花を抱えて一旦、病室から出ていく。
部屋には、シンジと帆村が残される。
帆村は、喉が干上がってくるような気がした。
ユウキ同様、シンジも、見かけ、暴力とは無縁に見える。中性的──はっきり言ってしまえば、女顔のシンジである。しかし、毎日訓練を欠かさない保安部員の自分が、一撃でのされている。風間組襲撃でも、その構成員の大半をシンジが自分で倒している。それも、人を殺すことに何の問題も感じていない。そう言う部分があり、それが帆村に恐怖を覚えさせる。
「夕べは、ご苦労様でした」
にっこりと、笑いながらシンジが口を開く。
まるで、そう、例えば、バーベキューパーティのお手伝いをねぎらう。その程度の軽い調子である。話題はやくざもの同士の抗争なのだが、まるで、そんな殺伐とした部分のない口調だった。
「おかげさまで、第3新東京市に足がかりになる場所を得ることが出来ました」
「いえ、私はただ右往左往していただけで……」
日本人の謙遜の美学、ではなく、全くの事実である。
風間組、20人強。その殆どが、シンジ、ユウキ、田茂地、青葉の4人で壊滅させられている。そこに、帆村を初めとする保安部員10人──直ぐに9人になっていたが──の活躍はなかった。
「大丈夫ですよ。最初は、誰でもそんなモノです。いずれ、慣れますよ」
慣れなくちゃいけないのか。
そんな、暗澹たる気分になる帆村である。
そこへ、ユウキが花瓶に花を一杯に詰め込んで戻ってくる。
正直、花より団子の帆村である。別に、花なんて病室になくても構わない、そう考えている。だから、その花のあまりに大袈裟な事に驚いてしまう。一体、いくら使ったのか。勿体ない、そんな思いすら抱いてしまう。
「取りあえず、これが今回の特別ボーナスです」
ぼんやりと花を眺めていた帆村の前に、封筒が差し出される。
「え?」
封筒は、見るからに分厚かった。
持ち上げてみると、びっくりするくらいの重みがある。
「治療費も、包んでおきました。──それと」
もう一つ、封筒が出てくる。
こちらの方が、もう少々分厚い。
「こちらは、伊東さんの分です」
「伊東の?」
帰らぬ人となった保安部員の顔を思い浮かべる。青空をバックにさわやかな笑顔。そんな風には思い出せない。なんだか、こちらを恨んでいるような顔が思い浮かんでしまう。
そっちのほうが、まだましなのかも知れないぞ。
内心で呟き、もう一度、封筒を見つめた。
伊東への金。それを、何故、自分に渡すのだろうか?
疑問を顔に出した帆村に、シンジが解説する。
「帆村さんには、伊東さんのふるさとへの手紙を書いて貰おうと思いまして」
「え?」
「本当は、僕が書くのが正しいのでしょうが、なにぶん、僕は子供ですから、少々不自然でしょう。父さんには、期待するだけ無駄ですし」
「え?」
「──それでは、長居するのも何ですから、僕らはこれで失礼します」
「早くよくなって下さいね」
シンジ、ユウキは、戸惑う帆村を残して退場する。
帆村は、呆然と、二つの封筒を眺めていた。
しばらくして我に返った帆村は、今度は手紙の文面を考える必要を感じ、再び、暗澹たる気分になった。
「結構、マサさん、精神的に疲れていたみたいですねえ」
ユウキが、病院の廊下を進みながら、シンジに告げる。
帆村マサカネ。いつの間にか、ユウキの中では「マサさん」に決定しているらしい。
「保安部員という割には、実戦経験がないみたいだったからね。何しろ、いろいろとマギに頼り切っているから」
「それで、本当に大丈夫でしょうか」
スーパーコンピューター・マギ。完璧かと言えば、そうではない。それを、シンジ達が証明して見せている。しかし、これまでそれに頼り切っていた状況、即座に改善する事は不可能だろう。
「まあねえ。父さんは、自分が認めたくないことからは、目を逸らすタイプみたいだし」
「その方が、シンちゃんには都合がいい?」
「ユウキ、声が一寸、大きいよ」
「あ──そう言えば、何処に耳や目があるか、わからないんでしたよねえ」
失敗失敗、とばかりに、ユウキは小さく舌を出してみせる。
シンジは、ため息を一つ。しかし、それ以上は注意をしても無駄だと思っているのか、あっさりと他の話題に変える。
「兎に角、ネルフよりも、僕らのこれからの方が大変だ。いくら情報操作をしたとは言え、天野連合が黙っているわけがないし」
「そうですねえ」
関東天野連合。山王会と日本を二分する暴力団組織。箱根・風間組はその傘下の一つである。そこが壊滅して、代わりに台頭してきたのが山王会系列の組織、ともなれば、黙っているはずがない。いくら情報操作をしたとは言え、結果から、事情を推測できるだろう。発表通り、事故で風間組が壊滅した、等と考えるようなお人好しはいない。
「どちらにしろ、それを迎え撃つ準備を進めないといけないんだけど……」
シンジの口調が、苦いモノになる。
「人手が足りませんしねえ」
ユウキが、シンジの苦い部分をあっさりと口にする。
「ネルフに頼るのも、あの保安部員のレベルでは、当てに出来ませんし。シンちゃんのお父さんも、これ以上の人材は割いてくれないでしょうしね」
「まあ、僕のガードはしなくちゃならないだろうから、そのあたりを利用するとして──それでも、ねえ」
「本家の方も、もう少し人を寄越してくれればいいのに」
「駄目でしょ、それこそ、希望がないよ」
シンジは肩をすくめ、更に首を振って、どれくらい希望がないかを態度で示す。
「本家のステキさんにとって、シンちゃんは邪魔者ですからねえ」
山王会会長、碇ステキ。シンジを引き取って育ててくれた、碇ムテキの息子である。ステキにとって、ムテキのお気に入りのシンジは何かと気に入らない存在らしい。本家にいた頃も、いろいろと嫌がらせを受けてきた。それでも、ムテキが会長をやっていた頃はよかったのだが、「儂より強い奴に会いに行く」と書き置き一つ残してムテキが引退して以来、積極的にシンジの排除をすることに決めたらしい。ちょうど、ゲンドウから召還の手紙が来たのを幸い、兵隊の一人も寄越さずに、風間組を潰して第3新東京市を支配しろ、と言う命令を出している。
ちなみに、ユウキ、田茂地は、シンジの個人的な仲間であり、山王とは無縁、と言うことに、一応なっている。
「で、これから、どうするんですか?」
ユウキの質問は、ミクロな視点、文字通り、これから何処へ行って、何をするか、と言うモノである。
「本当は、綾波さんに会っておきたかったんだけど、彼女、今、大深度施設だからね」
3人目の綾波レイは、集中治療の名目でもって、その姿を隠されている。重傷、それもかなりの、と言うことになっているため、面会謝絶は当たり前である。実際は、怪我一つしていないが、公式発表がそうなっている以上、事情を知らない者は、素直にそれを信じ、綾波の姿が見えないことを当然だと考えている。だが、実際に、現時点で綾波レイに施されているのは、治療ではなく、教育である。洗脳とも言う。
「もしかしたら、シンちゃんのお父さんが、また手を着けているかも知れませんね」
「だから、ユウキは何度言わせるつもりなのさ。綾波は、僕のお姉さんのようなものだって。知っているでしょ」
「でもねえ」
「……」
「……」
無言になったシンジ。
そちらを、こちらも無言でユウキが見つめる。
先に折れたのは、シンジだった。
「わかったよ、わかりました。必要とあれば、こますよ。こましますともさ。──綾波は、父さんや、欧州ゼーレ組の連中にとっても、重要な駒だからね。言うこと聞かせるのに、必要だと思ったら、躊躇わないよ」
「やっと、認めましたねえ」
ユウキが、にひひとでも言うような笑い方をする。
「でも、ユウキ、僕にそれを認めさせて、何が嬉しいのさ」
「別に、嬉しくはありませんよ。なんか、シンちゃんが、紳士の振りをしているのが、気に入らなかっただけですよ」
「紳士の振りって」
「ケダモノのくせに」
「なんだよ、それ」
シンジは、呆れたように、嘆きの声を出す。
「……まあ、それはそれとして」
何でも良いから、その話題から離れたい。そうした感じで、露骨に話を変える。
「当面の問題は、人手が足りないことだよ」
ネルフ保安部員が、現時点で当てにならないのは、前述の通りである。
青葉シゲルが仲間になってくれたのは、うれしい誤算である。しかし、こちらは二足の草鞋で、シンジの本業に付きっきりというわけには行かない。否、本人は、付きっきりになりたい様子だが、シンジが止めている。対使徒戦に於いて、発令所に青葉がいることはメリットになるだろう。だから、青葉が首にならないようにゲンドウと交渉もした。
田茂地は有能で何でも出来るが、残念なことに一人しか居ない。情報収集から実戦まで、様々な分野で活躍をして貰うが、それでも、一人には出来る量というものがある。
ユウキは基本的に、シンジと行動を共にしている。
詰まるところ、まともに働けるのは、田茂地とシンジ(+ユウキ)だけである。
それだけの人間で、第3新東京市の支配、そして、来るべき天野連合の侵攻に対する備え、ネルフ及びゲンドウに対する牽制──さらには、使徒までやってくる状況は、間違いなく手に余る。
人材の確保は、急務である。
「本家にお願いしても、無駄ですしねえ」
ユウキが、ため息を零す。
先刻の話の蒸し返しになるが、山王本家はシンジに、勝手にやれ、そう言う態度である。もしかすると、既に切り捨てる準備をしているかも知れない。否、切り捨てようとしているだろう。
実際の所、山王本家では、天野連合との全面対決を望んでいない。シンジに第3新東京市で云々は、殆ど嫌がらせである。本当に風間組を壊滅させるなどとは、考えていなかっただろう。
そこで、トカゲのしっぽ切り。シンジの独断で行動していると広言して、煮るも焼くも好きにしろと、天野連合に伝えるだろう。そして、天野連合によってシンジが処理されて、めでたしめでたし。そんな筋書きを書いているかも知れない。
だが、切られるしっぽの方は、素直にやられるつもりはない。侵攻してくる天野連合の対処、それには、シンジには一つの考えがある。そちらは、多分何とかなるだろう。
だが、それでも人が足りないには違いない。
「皆殺しにしたのは、失敗だったかなあ」
「でも、生かしておいても、多分シンちゃんに従うとも思えないし。風間組と言えば、ばりばりの武闘派であると同時に、お姫様の親派としても有名だったし。下手に生かして捕まえておいて、食費なんかを使うよりは、あっさり殺して正解だったと思いますけど」
物騒な会話であるが、二人は平然としている。そんなことは当たり前。そう言う環境で育ってきたせいである。
二人は、相談しながら病院の玄関まで移動する。
と、そこへ、爆音が聞こえてきた。
「え?」
反射的に、ユウキはスカートをつまむ。シンジも、身構えている。
その視界へ、そして病院のロータリーへ、凄まじい勢いでバイクが飛び込んできた。宇宙ロケットにタイヤをくっつけたみたいな、とんでもないバイクだった。マフラーと言うよりはスラスターから炎を吹き出しながら、バイクはタイヤを滑らせてロータリーを回る。静粛であるべき病院に、とんでもない大音量をまき散らしながら、シンジ、ユウキの前で急停止する。
「久しぶりだな、シンジ」
颯爽とバイクから降りた男──碇ムテキが、にやりと笑う。
「ムテキのおじさま、どうなさったんですか?」
ユウキが、尋ねる。
「うむ、シンジが組を興したと聞いてな。祝いに来てやったぞ」
「ありがとうございます」
シンジはお礼を言って、それから、首を傾げた。
「でも、良いんですか? 多分、本家は僕を切り捨てる方向で動いていると思いますけど」
「尻の穴の小さいことを言うな。それに、儂は既に隠居の身。隠居が何をしようとも、何の問題もあるまい」
「世の中、そう思わない人の方が多いんですけど」
シンジが苦笑する。
「そんな連中のことは、放っておけ。儂は、儂の道を行く。それを止める事は、誰にもできん」
「ええと、それは、ワカメさんでもですか?」
ユウキが、口を挟む。
「……む」
ムテキが、返答に困ったように唸る。
ワカメとは、ムテキの亡き妻である。ムテキの顔にある、大小さまざまな傷痕。その中でも一際大きく、目を引く額のばってん傷。どんな逸話があるかと言えば、これは、夫婦喧嘩で付けられたものである。地上最強とか言われている碇ムテキ。しかし、夫婦喧嘩では一度も勝利したことがないことを知る者は少ない。
「……全く、儂にそう言う口の効き方を出来るのは、ユウキ、お前くらいのものだぞ」
「そんなことも、無いと思いますけど」
のほほん、とユウキが応じる。
シンジは、無言のまま内心で首を振る。そう思っているのは、ユウキだけである。
「それはともかく、こんな場所で立ち話も何ですから、組の方に移動しませんか? まだ、始末が完全に済んでいませんから、殺伐としていますけど」
それから、爆音をまき散らしているムテキのバイクを見、シンジは提案した。流石に、病院前でこの轟音は拙いだろう。
「いや、長居をするつもりはない。──ところで、シンジ、組の名前は考えたか?」
「え?」
「考えていないのであれば、儂が特別に付けてやろう。──うむ、良し、ひらめいた。毒薔薇組、どうだ? このハイソでエレガントな名前は」
「素晴らしい名前ですねえ」
ユウキが、本気で頷く。
「いえ、既に碇組ということで、看板の注文もしてあります。今頃、届いていることだと思います」
一寸だけ焦って、シンジが口を挟む。
「何だ、そうなのか? しかし、惜しいな。毒薔薇組。なかなかのものだと思うが」
「……そうですね。いずれ、傘下の組が出来たときにでも、その名前を使わせていただきましょう」
妥協案を示す。
「ほう、既にそこまで視野に入れているのか」
「おじさんの仕込みですから」
「うむ」
満足そうに、ムテキは頷いた。それから、口調を変えて続ける。
「しかし、シンジの組には、問題がある」
「名前ですか?」
ユウキが尋ねる。こちらは、毒薔薇組という名前に、未練がある様子である。
「うむ、それもそうだが、もう一つ」
「もう一つとは?」
「シンジもわかっているだろう。それは、人材が少ないということだ。お前の元には、田茂地、ユウキ、青葉と言った人物はいる。いるが、いかんせん、数が少ない」
どうして、もう青葉のことまで知っているのか。そう尋ねはしない。ムテキならば、知っているだろう。そんな風に納得するシンジである。
「確かに、そうですね」
まさしく、先刻までユウキとその話題を話していたシンジだ。素直に頷く。
「そこで、儂からの特別プレゼントだ」
ぱちんと、ムテキが指を鳴らす。
すると、今までタイミングを見計らっていたのか、サングラスをかけた黒服が二人、こちらにやってくる。
「佐藤イチロウと、鈴木タロウだ。この二人を、シンジ、お前に預けよう」
なんだか、汎用雑魚キャラみたいなみたいな名前だな。格好も、そんな感じだし。
そんな感想を抱くシンジ。しかし、口にはしない。したら、余計な波風が立つだろうから、よろしくない。
「なんだか、汎用雑魚キャラみたいな名前ですねえ」
それを正直に口にするのが、ユウキである。しかし、幸いなことに、雰囲気の勝利とでもいうのか、ほわほわした感じのユウキが口にすると、深刻な状況にならない。いわれた相手も、苦笑するしかない。そして、たいていの場合、それだけで済んでしまう。得な性格である。
「よろしくお願いします、組長」
二人が揃ってシンジに頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、若輩者ですが、よろしくお願いします」
シンジは、素直にこのプレゼントを受け取ることにした。人がいないのは指摘の通りである。
「うむ、良し」
その様子を見たムテキは、再びバイクにまたがると、大きく噴かした。轟音が、病院の窓硝子を揺さぶる。
「それでは、さらばだ。ハイヨ〜、シルバ〜」
ロケットの発射のように、ムテキがすっ飛んで退場する。
「さて」
シンジはそれを見送ると、ユウキ、そして鈴木、佐藤の二人と視線をかわす。そして揃っていきなりダッシュした。
その背後の病院からは、騒ぐ連中に一言もうさん、とばかりに看護婦が飛び出してきていた。
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