#128 大後悔時代


 部屋の床の上で、体を小さく丸めて嗚咽を零しているアスカに、シンジはゆっくりとした動きで近づいた。その脇にしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。
 シンジの手がアスカの肩に触れた途端、アスカはびくりと体を動かした。
「違う……私は……」
 ますます体を小さくしたアスカは、聞き取れない程の小さな声でぶつぶつと呟く。
 シンジは、僅かに困ったような顔をした。
「これは、流石にやりすぎだよ」
 と、口の中だけでぼやき、途方に暮れたような表情を浮かべる。
 しかし、途方に暮れていても仕方がないと、すぐに行動に移る。
「アスカ」
 呼びかけるが、アスカは反応しない。常ならば、呼び捨てにするな!、と打てば響くように即座に反応が返ってくるところだ。しかし、今のアスカは胎児のような恰好で、ますます体を小さくするばかり。
 シンジは、思い切ってアスカの体を持ち上げ、自身の腕の中に抱きしめた。
「ひっ」
 アスカは喉の奥で悲鳴を上げ、全身を突っ張らせる。突き放そうという考えすら浮かばず、ただ体を固め、シンジの腕の中で震えている。
「アスカ、大丈夫だから。もう、大丈夫だから」
 まるで幼子をあやすように、シンジはアスカの耳元で優しく囁く。
 常ならば、反発する。子供扱いするな、と叫ぶところだろう。そうでなくとも、シンジに触れられる。それを、忌み嫌っているアスカであるが、今回はそんな力も気力もない。
「大丈夫だから」
 シンジは、ゆっくりと辛抱強く繰り返す。
 長いこと同じ事を繰り返し、アスカの体の強ばりが幾分抜けたと見たシンジは、腕の中に抱きしめたまま、更に囁く。
「大丈夫だよ。他の人が何といっても、僕はアスカの凄いことを知っているから」
 シンジの言葉にアスカは体を僅かに震わせて反応した。
「僕は、──僕だけは、アスカのことをず〜っと見ているから」
 アスカは、涙に濡れた顔を上げて、シンジの顔を見上げた。
 見るのも忌々しい。シンジのことをそう考えていたはずだが、今のアスカは、すがれるモノにならば、何にでも縋る。溺れるモノは藁をも掴む、そう言う心理状態だった。それが、傍目には口先だけのことにしか見えないとしても、今のアスカにその辺りを判断する余裕はなかった。表向きだけであろうと、優しい言葉にすがりついてしまう。
 そして、それは、ユウキの狙いでもあった。
 責め役と宥め役。
 カルト宗教などの信者獲得や、警察の取り調べ等に使われるもっともオーソドックスな方法。心理的なストレスを与え、判断能力を奪う。そして、奪った隙に付け入る。そうした方法。
 ユウキはその責め役を担った形である。役割分担、責め役として、アスカを徹底的に責め立てたのだ。その存在を、全否定して見せたのだ。──多少、私情が混じった様子でもあったが。
 そして、シンジは宥め役を振られた。そう言うことだ。
 シンジは、アスカの言って欲しいであろう言葉を、何の芸もなく口にしているに過ぎない。
 しかし、追いつめられているアスカは、それに縋る。縋らざる得ない。
 大嫌い、と言う普段の感情などは、この際、棚上げ。兎に角、耳に心地よい言葉を繰り返して賞賛するシンジに、アスカは全面的に縋る。崩れかけた心の平衡を、そうすることで保つ。まるで、シンジだけが自分の理解者であるかのように、錯覚していた。
「大丈夫だからね」
 シンジは優しく言って、アスカの頭を撫でた。
 子供扱いされることを嫌うアスカ。しかし、今は──今だけは、その心地よさに体と心を委ねた。


 退室した3人は、ユウキを先頭にして、通路を進んでいた。
 後ろの二人は、いろいろと尋ねたいことがある様子だったが、ユウキの背中が話しかけることを拒んでいるように思え、どうしても口を開けずにいた。
「……」
「……」
 トウジ、帆村は顔を見合わせ、互いに、同じ様な表情をしていることを発見した。──両者とも、ちっとも、嬉しくは感じなかったが。
 通路は何時しかT字路にさしかかり──ユウキはそのまま直進した。
 壁の正面まで来ると、止まる。こつんと小さな音を立てて、額を壁に当てる。
「……」
 そのままの恰好で、動きを止める。
「……」
「……」
 トウジ、帆村は再び顔を見合わせた。
 何しとるんやろ?
 何をしているんだ?
 そして、やっぱり同じ様な疑問をお互いの顔に見つけ、こいつは欠片も役に立ちそうにないと両者同時にお互い見限った。
「……あの、ユウキさん?」
 しばしの嫌な感じの沈黙の後、勇気を振り絞って声をかけたのは、帆村である。
「どうかなさったのですか?」
 その言葉がスイッチであったかのように、ユウキはしゃっきりと姿勢を正す。くるりと振り向いた顔には、常のような微笑みが浮かんでいる。──微妙に顔が腫れ上がって歪んでいたが。
「いえ、少し傷が痛みまして……」
「そ、そうですか」
 嘘付け、と思ったとしても、二人に口に出す勇気はなかった。
「あの、それでしたら、早いところ医務室に行かれた方が……」
「そうですね。それではここで解散としましょうか」
 見た目、普段と変わりなく、ユウキが頷く。
「そうですね、それがいいかと」
 何はともあれ、この良く解らないけれども居心地の悪い状態から逃げ出せる事が出来るのであれば、何でもオッケーです。
 帆村が、一二もなく頷く。
「マサさんは、通常の業務に戻って下さい。鈴原君の方は、今日はもうあがってくれて結構ですよ。明日からは、チルドレンとしての訓練を行って貰いますから、そのつもりでいて下さい。スケジュールについては、係の者に作成させて、今日中に届けますから。──では、解散」
「はい」
 帆村は応じて数歩進み、振り返る。
 トウジの方が、未だ動き出すことなく、その場に立っていたから。
「──?」
「どうしましたか?」
 疑問に感じたのは、帆村だけではなく、ユウキの方もらしい。首を軽く傾げて尋ねる。
「……いや、あの」
 トウジは僅かに逡巡し、それから、思い切ったように口を開いた。
「あの!。さっきの話やけど……あれは」
「さっきの話? ええ、明日から正式にチルドレンとして訓練を──」
「いや、それやのうて……その、アスカさんに言うた……」
 トウジは、言葉を選ぶように、躊躇いを振り払うように、告げる。
 帆村は、トウジ、ユウキの顔を順番に見つめる。何の話だか、その場にいなかった帆村には一向に理解できない。
「ああ、あれですか?」
 ユウキの方は、勿論思い当たる。小さく頷く。
「その、アレって、ユウキさんの……」
 経験談でっか?、と続けるよりも早く、ユウキが口を開いていた。
「まさか」
 ころころと、ユウキは笑って見せた。
「アレは、惣流さんに素直になって貰うための方法──その為の演出の一つなんですよ。口からの出任せに決まっているじゃないですか」
「そ、そうやったんですか? いや〜、ワイも何となく、そんな気がしとったんですよ」
「当たり前ですよ」
 あはははは〜と、二人は笑いあう。
 すっかり蚊帳の外の帆村であるが、両者共に、笑い方がわざとらしいように感じた。
「それじゃあ、私はこちらへ行きますんで」
「私はこちらです」
「ワイは──どっち行きゃええんでっか? 正直、ここは複雑で……」
 作戦部長が迷うようなネルフ本部である。作戦部長に関しては、本人の資質の問題もあるだろうが、一般的に見れば、トウジの言うように、ネルフ本部は確かに複雑な構造になっている。おまけに、兎に角広い。始めて来た──本当は二度目だが一回目は連行──トウジが現在位置を見失ったとしても、おかしな話ではない。
「それじゃあ、マサさん、案内お願いできますか?」
「了解しました」
「よろしゅう」
 おどけたようにトウジは言って、帆村の後に続く。
 ユウキはきびすを返し──どうやら、医療室に向かうようだ。何をするにも、まずは手当を──そう考えたらしい。
 帆村は、トウジを案内しつつ、通路を進む。
「……そんなわけがあるかい」
 その帆村の耳が、トウジの呟きを捕らえ、振り向く。
 トウジは、俯き、暗い表情をしていた。


 通路の陰に隠れ、その様子を見つめている男がいた。
 加持リョウジである。
 彼は、偶然、ここに居合わせた。そして、面白そうだと隠れて様子をうかがっていたのだ。
「いやはや、なんだかおかしなフラグが立っているみたいだな」
 加持は、無精ひげの生えた顎をつるりと撫でて、面白そうに呟く。何となく、トラブルの予感がする。トラブルこそ、我が人生。小さなトラブルから大きなトラブルまで大小を問わず、全てのトラブルが、加持は大好きだった。そして、小さなトラブルを大きなトラブルに育て上げることが、もっと好きだった。
 そのまま、しばし黙考する。
 それを、どうにかして仕事に生かすことが出来ないだろうか?
 どろどろの愛憎劇!
 良いかも知れない。
 にやり、と加持は笑みを浮かべる。
 その方法について、色々、考えてみる価値はあるだろう。出来れば、なるべく派手なのが良い。
 だが、今はそれよりも──
「葛城〜、何処行っちゃったんだよ〜」
 加持は、再び本来の目的である、失われた、西瓜のようにでっかい乳の探索に戻った。


「……大後悔」
 一人になったユウキは、医務室に向かって足を進めながら、がっくりと項垂れていた。
 アスカに対して、もう少し冷静かつスマートに話を進めるつもりだった。殴り合いは、ある程度覚悟していた。しかし、最後は思い切り余計だった。余計なことを口走っていた。言う必要のないことだった。
 私情混じりまくり、全くもって、みっともない。
 自己嫌悪に陥る。
 不幸自慢なんて、思い切りみっともないことをしてしまった。
 最後は、ただの八つ当たりだ。あるいは、逆恨みだ。
 全く持って、すこぶる付きにみっともない。
 それでも、結果的に、上手いことアスカを追い込めた事が僅かな救いだ。
 今頃はシンジが、アスカの心と体に忠誠心とかを叩き込んでいることだろう。
「……」
 自分の考えたことなのに僅かにむっとする。
 シンジが誰とよろしくやろうが、これまでは全く気にしなかった。
 それは、あくまでも「仕事」の延長だったから。全て仕事でないのは、シンジがケダモノだからだ。こればっかりは、どうしようもないと諦めていた。
 だけど、相手が惣流アスカ・ラングレーとなると、主は仕事以外となる。
「……」
 またむっとして、ユウキは頭を振って、その考えを追い払う。
 今し方、私情混じりまくりでみっともなかったと後悔したばかりだ。なのにこれでは、再び後悔しなければならない羽目になるだろう。いや、後悔で済むどころか、どこかで、致命的な失敗を犯しかねない。
「取りあえず、射撃練習でもして、すっきりしますかねえ」
 ユウキは呟き、医務室の次には地下射撃場に移動して、拳銃をぶっ放そうと予定を立てる。それですっきりして、この件は終わりにする。
 決めて、ユウキは僅かに足早になって進む。
 どうせなら、ゲンドウターゲットだけじゃなくて、惣流ターゲットもあると良いのに。
 そんなことを考え、結局、未だに引きずっているユウキにとって、トウジのことは、この際、どうでも良い事だった。全く欠片も気にもしていなかった。
「どうせなら、敵が攻めてきませんかねえ。出来れば使徒じゃなくて、人の……」
 そうすれば、射撃練習などよりも、ずっとすっきりするかも知れないのに。
 ユウキがどうにも物騒なことを呟いたとき、計ったようにネルフ全館に警報が響いた。
「──敵襲?」
 ユウキは笑みを深めると、手近の通信装置に飛びついた。

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