#134 悪魔が来たりて笛を吹く


 夜の第三新東京市。
 脳みその大半をアルコールに侵された千鳥足で、サラリーマン風の男が一人、道を進んでいた。
 人生、酒を飲みたくなる日もある。男にとって、それが今日だった。
「ちっ、部長のやつめ。いつまでも俺がおとなしくしていると思ったら、大間違いだぞ」
 などと、ぶつぶつと呟く。酒が入って、かなり気が強くなっている様子だ。実際には、男はへたれな人間で、しらふの時には、部長の悪口なんてとても口にできない。だが、今ならば口にだって出せる。──もっとも、部長が目の前にいたら、たとえ酔っぱらっていても口にできそうにないが。
 それはともかく、男はずいぶん強気になって、大きく手足を振り回しながら、道を歩いていた。
 その手には、すしの折り詰め。漫画肉ほどではないが、現実ではなかなか見かける機会のない、ひもで縛ったやつだ。男が左右によろめくたびに、折り詰めは大きく揺れる。どころか、男はたびたび興奮して両手を振り回し──当然、折り詰めも前後左右に大きく揺れたりひっくり返ったりしている。中身のにぎり寿司がちらし寿司になるくらいしているかもしれない。しかし、酔っぱらって注意力が散漫な男は、そんなことを気にもとめなかった。
 この折り詰めは、家で待つ妻へのお土産である。泥酔した状態で帰宅すれば、一言二言、文句を言われるに違いない。あるいは、閉め出されて家に入れてもらえないかもしれない。──ならば、ご機嫌取りをする必要もあるだろう。そうした思考の流れで用意した、お土産だった。やはり、この男は酔っぱらって強気になったようでも、基本的にヘタレだった。
「ふい〜」
 アルコールくさい息を吐いて、それから男は、周囲を見回した。
 男の視線が、一点で止まる。
 視線の先には、「小便するな」と書かれた看板があった。
 男はわずかに考え、あわただしく左右を見回し、周囲に誰もいないことを確認すると、その看板に向かって、禁止された行為を始めた。
「♪ふんふふんふんふんふ〜ん、ふんふふんふんふんふ〜ん」
 上機嫌に鼻歌を歌いながら、男はその行為に集中する。禁止されたことをする。その背徳感に、心地よさを感じていた。そう、自分はこんなにも大胆に、悪いことができるのだ。決して、ヘタレではないのだ。そんな具合に胸を張り、小鼻を広げながら、男は開放感に酔っていた。
 が、背後で微かな音がして、男は数センチばかり飛び上がった。
 誰かが居る?
 誰かに見られた?
 これは非常に不味いことだった。自分は今、悪いことをしている。それを咎められたら──
 本来の性質である、ヘタレの部分が表に出てきて、男は顔色を蒼白にした。心地よい酔いが、あっさりと消え失せている。
 男は大慌てで、滴を飛ばすのも省略してお終いとし、ゆっくりと、おそるおそる振り向いた。
 とりあえず、人の姿はなかった。
 男の視線の先には、ゴミ収集所があった。どうやら、このあたりの住人のモラルは低いらしく、こんな夜更けにゴミ出しがなされている。そうなれば当然と言うべきか、猫か何かに荒らされたらしく、いくつかのゴミ袋は破け、中身を路上にぶちまけている。
「な、なんだ、脅かしやがって」
 今の音は、おそらく猫かなにかだろうと判断し、安堵する。直後、そんな事に驚いた自分が気に入らなくなり、男は苛立たしげに小さく呟く。
 おまけに、視覚に捉え、注意が向いたせいか、それとも、幾分酔いが覚めたせいか、男の鼻はぶちまけられた生ゴミの悪臭に気が付き、顔をしかめる。
「全く、最近はマナーがなっていない。夜に出すから、猫に荒らされるんだ」
 先刻の、自分のマナー違反は棚上げして、男は義憤に燃える。
「近頃の連中は全く、ろくでもない──」
 ぶつぶつと文句を言う男の視線の先で、ゴミの山が動いた。
「?」
 首をかしげる男。
 ゴミの山の中で、何かが光った。
 何か?
 間隔を置いて、輝く二つの赤い光。よく見れば、黒々としたモノがゴミの山に埋もれるようにして蹲っている。
「なんだ?」
 猫──とは、違うようだ。月が出ているとはいえ、辺りは暗い。それでも、それくらいは判別できた。
 男は、わずかに後ずさる。
 猫ではない。では、なんだ?
 男は、いやなことを思い出してしまった。
 ここ、第三新東京市は、都市伝説の類に不自由しない場所だ。近代的、コンピューター化が進んだ、最先端の町といえるだろうに、都市伝説の類は、本当にたくさん存在した。郊外の森に、どう猛きわまりない謎のパンダが住んでいるという噂。亀と人の合いの子を見たという話を聞いたことがある。ブルータイプなる、人類に恨みを抱いている謎の女の子がうろついているという話もある。芦ノ湖には謎の巨大生物アッシーが生息しているという。口から気弾を吐く猿が居るという。倒すと強くなれるダチョウが居るという。そのほかにも、訳のわからない生物たち。第三新東京市の外からだって、使徒とか言う、訳のわからない生物が攻めて来ているとも聞く。
 ──どれも、本来ならば眉唾で、欠片も信用ならない話。
 しかし、そこにおまけが付く。
 曰く、それらの大半は、ネルフの研究室から逃げ出した実験動物らしい、と。
 すると、俄然、そのうわさ話に真実みが付いてくる。
 ネルフ──男も第三新東京市に住んでいる以上、ネルフの存在を知っている。男の会社は、ネルフとはほぼ無関係だが、それでも、知らずには居られない。何しろ、この町を支配しているのはネルフ──あるいは、その母体である碇組なのだから。
 そして、ネルフでは、様々な後ろ暗い実験が繰り返されているという、噂が──
 ごくり、と男は唾を飲み込んだ。
 これまで、男はその類の話を、ただの戯れ言だと切り捨ててきた。
 なぜなら、本当だったら怖いから。だから、信じないようにしてきた。
 なにしろ、彼はヘタレなのだ。
 だから、嘘だと、作り話だと切り捨てることによって、心の安定を保ってきた。
 しかし、彼の目の前には、得体の知れない生き物が鎮座し、その話が事実だと知らせてきていた。
「お、おれは、酔っぱらって、ありもしないモノを見たような気になっているだけなんだ」
 男は自分に言い聞かせるが、全く成功しなかった。
 冷たい汗が噴き出、すでに酔いはどこかへ行ってしまっている。
 男はがくがくと震えながら、その、得体の知れないモノに視線を向けていた。
 見ていて楽しいモノではない。だから、目を逸らしたい。しかし、目をそらした途端、襲いかかられるような気がして、躊躇われた。
 逆に、正体を確かめたら、どうか? 幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。そう、たいていの場合、こうしたモノは、目の錯覚だったり勘違いだったりするモノなのだ。確かめるのは簡単だ。ほんの数歩前に出るだけでいい。──でも、本当におかしな生き物、あるいは生き物でないモノだったら、どうする?
 逃げ出すこともできず、かと言って確かめることもできず、男はその場に凍り付いたようにして、動きを止めた。
 私は石ころ。
 念じながらこのまま静止していれば、このわけのわからない生き物は、どこかに行ってくれる。
 そんな、淡い期待。
 その、淡い期待は、一瞬後には裏切られた。
「くぇえええええええええええ!」
 その謎の存在はどう猛な視線を男の手にした折り詰めに向けると、一声吠えて、宙に飛び上がったのだ。
 夜空をバックに、高々と飛び上がったそれは、男に向かって一気に襲いかかった。
「ぎゃああああああああああ!」
 男の悲鳴が、夜の第三新東京市に響いた。


「──とまあ、こんな事件が続発しているわけ〜」
 へらへらとしまりのない笑顔でシンジ、ユウキに告げたのは、第三新東京市の警察署副所長を務めている、鴉葉ツキである。
 シンジは、不機嫌な視線を、鴉葉に向けた。
 ここは、碇組本部にして、シンジの自宅。その中で、シンジが執務室代わりにしている部屋である。
 鴉葉は、面の皮の厚さを発揮してシンジの視線に気が付いていないふりをすると、続けた。
「被害者は、もう12人なんだよね〜。そろそろ、何とかしないとやばくてさ〜」
 へらへらと笑いながら、シンジに紙切れを差し出す。
「目撃情報を元に、犯人の似顔絵を作ってみたんだけど〜」
 それは、一言で言えば、悪魔の絵だった。漆黒の悪魔。
 瞳は地獄の炎のように爛々と赤く輝き、頭には幾本もの角が生えている。口は、鋭い嘴。大きく広げた翼には、ぎらぎらとした鋭い爪が生えている。
「これは、悪魔ですか?」
 横からのぞき込んだユウキが、感心したように頷いている。
 シンジは、顔を顰めて見せた。
「なんだかなあ。こんな生き物、本当に存在するの?」
 シンジの、ある意味当然の疑問に答えたのは、鴉葉ではなく、ユウキだった。
「そこはそれ、ここはネルフの──いえ、ゲヒルンの──もっとわかりやすく言えば、シンちゃんのお母さん達の街だったわけですし」
「──う」
 シンジは言葉に詰まり、これまで以上に盛大に顔を顰めた。
 ネルフの前身、ゲヒルン。問題となるのは、そこに所属していた三人の女科学者。彼女らは確かに優秀だったようだが、それでは足りないほどに問題も多かった。成果優先、知的欲求を満たすことを最優先した彼女らは、倫理と言うモノを、思い切り軽く見ていた。動物実験──当たり前。人体実験──当たり前。ダイナマイトのノーベルや、電気椅子のエジソンのように、研究こそが第一。その研究成果がどう使われるかなどは、二の次。どころか、その研究自体が、普通の人間なら眉をひそめること間違いなしのやばいモノばかりと言った具合。そして、そのうちの一人が自分の実の母親となれば、ますます顔も顰められるというモノである。
「──でも、こんな話、ここじゃあ珍しい事じゃないでしょ? オオアナからはい出してきた青白い女の子達の話とか──その類の話は、ここじゃあ不自由しないし」
「その通りだけど〜。でも〜、現実に被害届を出されると、警察としても見て見ぬふりはできないし〜」
「良く、見て見ぬふりしているじゃないですか」
 ユウキが、つっこむ。
 実際、警察は急がしいを理由に、事件調査がおざなりになったまま埋もれる、なんて事をやっていたりする。特に、鴉葉となれば、なおさらだろう。積極的におざなりにしそうな人間が、この、鴉葉である。
「まあ、とにかく、頑張って犯人逮捕してください」
 シンジはすげなく告げて、犯人の似顔絵(?)を鴉葉に突っ返した。
 困ったことがあると、すぐこちらを頼るのは、やめてください。
 言外に、そう告げていた。
 しかし、鴉葉の面の皮は厚かった。
 へらへらと、何とも軽薄な笑みを顔に貼り付けたまま、シンジに告げた。
「つれないことを言わないほしいし〜。って言うか、こっちとしてはすでに手を打ったんだけど〜」
「……もしかして、またやられたんですか?」
 ユウキがぼそりと呟く。
「あははははは〜」
 鴉葉は、軽薄な笑いを答えの代わりにした。
 シンジ、ユウキは困った顔を見合わせる。
「……この警察って、すごい役立たず?」
「……まあ、元々ネルフの街ですからねえ」
 シンジの呆れた呟きに、諦観の入った声でユウキが応じる。
 今回の「ネルフの街」は、先刻とは意味が異なる。
 ネルフの街、第三新東京市。市議会は飾り以上のモノでしかなく、権力その他はネルフに集中している。住人の大半はネルフ関係者であり、ネルフは特務機関。ネルフ関係者の犯罪は半ば治外法権的扱いになり、ネルフ保安部が出張り、警察は手が出せない場合が多い。そんな状況で、警察が高い士気を維持できるはずもない。よくて給料泥棒。それが、第三新東京市警察の実情である。……あるいは、後ろ暗いことのいろいろとあるネルフである。ゲンドウあたりが裏から手を回して、警察が役立たずになるように積極的にし向けてきたと言う可能性もある。
「──というわけで、この件は、第三新東京市を守る、正義の味方である所のシンジ君に〜」
 へらへら笑いながら、鴉葉はシンジにすべてを押しつけ、この件は解決したとばかりに、鼻歌を歌いながら退場した。

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