#138 エデンは遠くになりにけり


 ユウキの日常は忙しい。実質、碇組のナンバー2で、経営に関しては才能の乏しいシンジに変わり、ユウキがほとんど一手に取り仕切っている。また、シンジの才能が乏しいのは経営だけではなく、実戦の方も、単独、自分自身の力を振るう場面であればともかく、その他の場面ではいささか頼りないため、こちらもユウキの仕事になる。ネルフの方でも、作戦部長代理補佐心得見習い(仮)にこのたび、正式に就任している。こちらの書類仕事の大半は日向が引き受けてくれているとはいえ、全く何もしないで居られるわけではない。特に、兵装ビル関係の修理状況などは、知っておかなければ実戦時にどうしようもなくなる。
 パジャマ姿、自室で持ち帰った書類のチェックをしていたユウキは、ノックの音に顔を上げた。
「はい? どなたですか」
「……綾波レイ」
 素っ気ない、感情の薄い声が扉越しに聞こえてくる。
 何事かと、首をかしげ、それから、ユウキは入室を促す。
 素直に従い、レイがユウキの部屋に入ってくる。レイの格好はパジャマで抱えているのは枕。
「どうかしましたか?」
 尋ねつつ、何となく推測の付いたユウキである。
「……寝られないの」
 実際、レイの答えは推測通りのモノだった。
「……ここで、一緒に寝ても良い?」
 ケダモノのシンちゃんだったら、二つ返事で大オーケー。そんなことを考えながら、わずかに苦笑して頷く。
 いい加減、書類仕事にも疲れが出てきたところである。これ以上頑張ったところで、効率の点から見て、よろしくない。ならば、そろそろ休むのも良いかも知れない。
「少しだけ待ってください」
 言って、ユウキは手早く書類を片づけ始める。
 その間にレイは、ベッドに潜り込んでいる。やっぱり、何人かがとっくみあいが出来そうな、大きなベッドである。
「……碇君のにおいがする」
 そのベッドに収まった、レイがぼそりと呟く。
 半ば、この部屋はシンジの別室──いや、本当の自室以上に、シンジが時を過ごしている場所である。いくつかあるタンスのウチの一つは、シンジの服が納められているし、シンジの私物もいくつか転がっていたりする。
 だったら、臭いくらいはするかも知れないが……
「シーツは換えたし、布団も干したばかりですけどねえ」
 首をかしげつつも、書類の片づけを終えたユウキは立ち上がると、レイに並んでベッドに横たわる。
「……手を握っても良い?」
「どうぞ」
 さしだした手を、レイが握る。
「まるで赤ん坊さんのようですねえ」
 苦笑しつつ呟く。
 しかし、返事はなく、見れば、安心しきった顔で、レイは即座に夢の世界に没入している。
 良く子供が、電池が切れたみたいにして即座に眠ってしまったりするが、まさしくそんな感じか。
 更に苦笑を深めて、ユウキは慎重な手つきでもって、レイの上の布団を整えてやる。年中夏の日本とはいえ、おなかを放り出して寝るのは不味い。
 それから、ユウキは何となく、レイの寝顔を眺めた。
 レイは最近、以前と比べればずいぶんと、表情が出るようになってきている。むろん、まだまだ普通の人に比べれば表情は乏しく、無表情と言われても反論できないようなレベルである。しかし、ユウキのように近くにいて、日常的にレイを見ていれば、以前との違いは、きっぱりとわかる。だいたい、以前のレイであれば、人恋しさに眠れなくなる、そんなことはあり得なかったであろう。
 笑い、悲しみ、怒り──人の当たり前に持っている感情。
 それを、ようやくレイは獲得しようとしている。あるいは、今まで表に出さなかったモノを、出すようになってきているのか。
 そのように、ユウキ達がし向けた。
 ゲンドウの元にいたレイは、ゲンドウの命令に従うこと、それを至上のモノとするように教育されてきた。ゲンドウに依存し、その命令に諾々と従う。死ねと命じられれば、必要不必要、その他一切合切を考慮せずに、躊躇うことなく死ぬ。そのように、育てられてきた。
 しかし、今のレイは、ゲンドウに死ねと命じられても、素直に従わないだろう。もはや、ゲンドウの命令に従うだけの人形ではないのだ。また、シンジがそのように命じたとしても、なんの疑問も差し挟まずに、従容として死ぬかと問えば、それも怪しい。最終的にそれが必要だと判断すれば従うかも知れないが、無批判、無条件にそうする事はないだろう。
 意志を持たぬ人形から、普通の人へと、ゆっくりとではあるが確実に、綾波レイは変化し始めている。
 それは、ユウキらの望んだことでもある。そのようにし向けてきたことでもある。
 だが、ユウキはレイの穏やかな寝顔を眺め、不意に疑問を感じてしまった。
 それで、良かったのだろうか、と。
 普通の、他人の意見であれば、簡単だ。怪しい中年親父の人形で居るよりも、人となったことを喜ぶべきだ。それこそが正しいあり方だ。そんなところだろう。
 だが、綾波レイ本人にとってはどうなのだろうか?
 人形であることも、人になることも、同様に、他人からそう望まれて、そのようになったにすぎない。
 そこに、レイの意志があったかと言えば、非常に怪しい。所詮は、ゲンドウの都合、そして、シンジの都合によるモノなのだ。
 心穏やかに暮らしていく。
 ただ、その事のみを考えるならば、以前の何も知らない人形時代の方が、よほど心は穏やかであったのではないか?
 そのころの方が、幸せであったのではないか?
 少なくとも、以前は人恋しさに眠れない。そんな事は無かったであろう。
 人のぬくもり。それを知らなければ、人恋しさを感じる事はないのだ。
 他人の芝生は青い。それは、他人の芝生の存在を知って、初めて青く感じる。羨ましく感じる。その存在を知らなければ、羨みようもない。
 かつての、シンジとの会話を思い返す。
 綾波レイは、楽園に住んでいる。
 有名な宗教の楽園の伝説。
 知恵を得てしまったが為に、人の祖は楽園を追い出された。そして、楽園に二度と戻ることは叶わなくなった。
 知ってしまったが故に。
 よけいな知恵をつけなければ、楽園で心安らかに暮らしていられたというのに。
 まさしく、レイの場合もそうだった。
 他人からどう見えようとも、レイはゲンドウの庇護の元、安らかに暮らしていたのだ。楽園で暮らしていたのだ。どれほど異常に思える環境であろうとも、他を知らなければ、不満を抱くこともない。他を羨みようもないし、希望を抱くこともない。それが、当たり前であり、悲しむことも嘆くこともない。自分たちがよけいなちょっかいを出さなければ、レイは、今もまだ、ゲンドウの元で日々平穏に暮らしていたのだろう。──エヴァパイロットであるから、ある意味過酷かも知れないが、それすらも当たり前のことで、不幸に感じるようなことではなかっただろう。
 しかし、今。
 レイは、知ってしまった。
 世界は、レイの知っているだけの狭いモノでは無いことを。ゲンドウの腕の中だけではなく、その外にも広がっていることを。──隣の家の芝生を。それが、自分のモノよりも、青々としていることを。
 そして、自分もそれを得んと、手を伸ばしてしまった。いや、正確には、シンジやユウキが、そうするようにし向けた。
 それを、後悔しているわけではない。
 綾波レイを自陣に取り込む。欧州ゼーレ組の、そして碇ゲンドウの計画をよしとしない以上、それは必須であったから。
 しかし、無条件に自分を信頼し、安心しきった表情で眠る綾波レイを見ると、それがレイにとって、果たして良かった事なのかどうか、考えてしまう。
 時を戻せない以上、もはやレイは楽園には帰れない。知恵の実をかじった者には、以前の楽園は、もはや楽園ではあり得ないのだ。何も知らないが故に、そこは楽園であったのだ。だから、考えても意味がないと承知の上で、それでも考えてしまう。
 今、レイは安らかに眠っている。
 今だけを見れば、それは良かったことかも知れない。
 だが、この先は?
 人の欲には、際限がないのだ。
 我が身を省みて、そう思う。
 今のレイは、ユウキの手を握って、満足している。しかし、いつまでもそれだけで満足できるかどうか、それはわかない。いや、確実に、それだけでは満足できなくなって、他のモノを、より以上に求めるようになるだろう。
 以前のシンプルな綾波レイの世界。
 そこに留まり続けることこそ、レイにとって、一番幸せなあり方であったのではないだろうか?
 何も知らず、何も求めず。しかし、それで満足する生き方。
 ユウキは、それをひどく羨ましく感じる時があった。
 我が身を省みる。
 昔の自分は、ひどくシンプルだった。
 ひどくシンプルに、生きていたように思う。
 むろん、レイほどに極端な世界に生きては居なかったし、あれが楽園とは到底思えないのだが。
 だが、あの頃は、とにかく、おなかいっぱいものを食べられれば、それで幸せだと思っていた。
 満腹するまで、ものが食べられる。
 それだけが、望みだった。
 ゴミの臭いのする路地裏で、空きっ腹を抱えて座り込んでいたあの頃。
 あの頃には、今の生活は考えられなかった。こんな、豪勢なお屋敷に住まい、お日様の臭いのする布団で眠る。むろん、食事の心配などはする必要もない。毎日お風呂に入り、清潔な衣類に身を包み。全く、あの頃からすれば、夢のような生活。──いや、夢にすら見なかったような生活。あの頃はとにかく食べ物だった。
 それから見れば、まさしく、なんの憂いもないはずの生活。
 なのに、自分は満足していないのだ。
 一つの欲を満たせば、次の欲が現れる。その欲を満たせば、また次の欲が。
 全く、際限がない。自分のどん欲さに、めまいを感じそうだ。
 おそらく自分は、誰よりも楽園に遠いに違いない。
 あれほど、欲しがった今の生活。飢えることのない生活。満足してしかるべきの生活。
 それすら、今欲しいモノの前では、色あせてしまう。
 あの頃の自分が今の自分を見たら、欲をかきすぎだと罵ってくれること間違いなしだ。
 今、自分の欲しいモノ。
 それは──おいしい食事でも、きれいな服でも、お金でもない。安心して寝起きできる家でもない。
 欲しいモノは──
「馬鹿みたいですねえ」
 小さく、呟く。
 かつては、それは当たり前に自分のモノだと思っていた。
 だから、いらぬ余裕を見せたりもしていた。
 しかし、自分のモノだと思っていたのは、全くの勘違い。
 ちっとも、自分のモノではなかったのだ。
 少し知恵を働かせれば、それは、当たり前にわかったことだったのに。
 ユウキは、内心で呟き、自嘲する。
 自分が、自分の意志であったのでは無いように、相手の方もそうでないのだ。
 相手もまた、自分でほしがったモノではない。他人が選んで与えた「教材」にすぎないのだ。自分は。
 なのに、横にある者は自分であると勝手に決めつけて、勝手にそのつもりになって。
「馬鹿みたいですね」
 もう一度、呟く。
 たいした声ではなかったが、わずかにレイが身じろぎする。
 声が大きすぎたかと、慌てて口を閉ざす。
 最近、レイが忙しくしていることは、当然ユウキは知っていた。久しぶりに、ゆっくり休める時。それを、邪魔してしまうのは悪い。
 そう考えたのだ。
 だが、次の瞬間、ユウキの気遣いは全て台無しになった。
 窓の外が、明るく輝く。
 そして、わずかに遅れ、盛大な爆発音が聞こえてきたのだ。

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