#141 プロポーズ大作戦
ネルフ本部の発令所で、日向マコトは難しい顔をして自分の席に座っていた。
今日、日向は宿直である。しかし、彼の関心は第3新東京市の様子を知らせるモニターではなく、手元で広げた貯金通帳に向けられていた。
かつて、日向の通帳には、景気のいい数字が記されていた。元々、真面目な性格。若いくせに、将来のことを真面目に考え、貯蓄に励んでいた。趣味も、せいぜい漫画を読む事くらい。それも、気に入った漫画本を片端からコレクションをする訳ではなく、雑誌を月に数冊購入する程度。それ以外でも、無駄遣いは極力避けてきた。だから、日向の通帳には、年齢に似合わぬ額が記されていた。
しかし。
「……まずいな」
日向は、心底困った顔をして、財布を取り出した。そして、ひっくり返してコンソールの上に中身を広げる。
……ちゃら銭が数枚。札入れの部分には、女の子の名刺やらとある種類の店のスタンプシートくらいしか、入っていなかった。
さらに、制服のポケットも探る。
ますます、日向の顔が困ったという具合にゆがめられる。
全額で、千円程度。それが、今現在の日向の持ち金、すべてであった。
「……給料日まで、後──」
考え、日向は絶望的な表情になった。
かつては、貯蓄に励んだ日向。しかし、現在では、彼はその貯蓄を切り崩し、どころか、月の生活費まで不安になるような生活を送っていた。
その理由は──
「まずい、本当にまずい。──このままじゃあ、今月はもう、「リツコさん」や、「チチコちゃん」と遊べないじゃないか」
生活費よりも、そちらの方が重要だと、日向は苦しそうに顔をゆがめる。
すっかり、シンジの経営するある種の浴場の常連になってしまった日向である。これまで貯め込んで来たモノはもちろん、月々の給料の大半もそちらにつぎ込んでいた。一応、青葉を通じて特別優待チケットやらVIPカードやらをもらって、一般客よりも安価で利用できるなど、日向は優遇されている。それでも、安価いモノではない。日をおかずほとんど毎日通い詰めれば、金銭的に苦しくなるのも当然のことである。
「どうする? どうする?」
日向は、腕組みをして考え込んだ。これほど真剣に物事を考えるのは、ここのところ希かもしれない。それくらいの、熱心さだった。
しかし、どれだけ真剣に考えても、安易に金を手に入れる方法があるわけがない。
いや、安易に手に入れる方法はある。
たとえば、シンジにお願いして、彼の経営する街金から金を借りるとか。
頼めば、シンジは二つ返事で貸してくれるに違いない。何しろ、日向の身分は国際公務員。公務員というのは、その種の商売をしている者にとっては非常にありがたいお客なのだ。
だが、日向は頭を振って、その安易な方法を却下した。
安易に金を借りられる。それだけに、後が非常にやばいのだ。返せればいい。しかし、それが出来なかったとき──
日向は、おびえるように体を震わせた。
幸いと言っていいのか、日向はシンジらと近い場所にいた。だから、彼らの会話を漏れ聞く機会が多い。
「○○さん、返済期限が過ぎてしまいましたねえ」
「そんじゃあ、早速飛んでもらおうか?」
「今、肝臓の相場がなかなかいい具合ですけど」
「じゃあ、摘出して売っちゃおうか? ああ、リツコさん、手術室を貸してくださいよ。──後、医者も」
そんな会話が、身近で交わされているのだ。恐ろしくて、とてもではないが、金を貸してくださいとはいえない。
ふう、とため息をこぼして、日向は体を椅子の背もたれに預け、天井を見上げた。
「……今月はもう、我慢するしかないのか?」
たぶん、そうだろう。
しかし、「リツコさん」や「チチコちゃん」のでかい乳が脳裏に未練たっぷり描かれる。
あの乳はいい。すばらしくいい。
なぜ、日向がその種の店に通うのか。
そう尋ねられれば、彼は答えるだろう。
そこに、乳があるからだと。
おっぱい星人としてすっかり目覚めてしまった日向である。
そこで、発令所の扉が開いた。
おっと、若干あわて気味に、日向は口元のよだれをぬぐい、表情を引き締める。
「あれ、日向君」
入ってきたのは、伊吹マヤだった。両手に書類を抱え、自分の席に向かう。
「今日、日向君が宿直なんだ」
「ああ、マヤちゃんは残業かい?」
応じると、マヤはぷく〜っと頬をふくらませた。二十歳をすぎた女の表情としてはあれな子供っぽい表情だが、マヤの子供っぽい顔立ちには、非常に似合っていた。
「聞いてくださいよ。先輩ったらひどいんですよ!」
誰かに文句を聞いてもらいたかったらしい。マヤは、手を振り回すようにして言った。
先輩というのは、もちろんネルフ科学部主任赤木リツコのことで、日向の考えていた「リツコさん」とは異なる。日向の方の「リツコ」は源氏名で、本名は別にある。
「先輩ったら、今日は自分の日だからって早々と帰っちゃって。そのくせ、私には残業を命じるんですよ。ひどいと思いませんか?」
「あ、ああ」
何とも曖昧に、日向は応じた。
正直、端から見ていても赤木リツコの仕事量はとんでもないと思えるモノがあり、たまに早く帰るくらいは良いのではないだろうか?、と思っていたが、それを表に出さずに、マヤにあわせようとする。
「──だいたい、前回の私の時にはちゃんと先輩も呼んで3人で楽しんだのに、先輩ったら自分の時には私を呼んでくれないんですよ! これって、ひどい裏切りだと思いませんか?」
「あ、ああ」
ぶんぶん手を振り回すマヤを見つめながら、日向はうなずく。
うなずきながら、考えていた。
マヤちゃんて、かわいいかもしれない、と。
心臓が、どき〜ん、てなもんだ。
ちょっぴり──いや、きっぱり胸のサイズは日向の趣味ではない。マヤの胸のサイズは、思い切り控えめである。顔は童顔で学生に間違われそうだが、胸は下手をすると学生以前に間違われそうだ。あの胸では、あんなサービスやこんなサービスは絶対に不可能だ。──だから、マヤは日向の守備範囲には入らない……はずだが。
胸の大きさだけが、人の価値だろうか?
日向は考え、内心で首を振った。
いや、確かに胸の大きさは人の重要な価値だ。
おっぱい星人として覚醒した日向には、これは絶対の前提だった。
しかし、そればかりでもないというのも確かだ。
少なくとも、マヤはかわいい。おまけに、気だても良い。
確かに、楽しむためには胸の大きさは重要だが、一緒に暮らしていこうと考えたときには、胸の大きさよりも気だての良さではないだろうか? 伴侶として考えた場合、「リツコさん」よりも、目の前のマヤの方がよほど、家庭的で向いているように思える。いや、家事無能者の「リツコ」とは比べるだけで失礼かもしれない。
日向は、自分の年齢について考えた。
結婚を考えても、早いともいえないし、遅いともいえない。──つまりは、適齢期だ。そろそろ身を固める決意をしても、問題ないだろう。そうすれば、貯金通帳やら、財布の中身を見て、ため息をこぼす必要もなくなる。何しろ、結婚すれば無料で出来るわけだし。
ただ、一点、不安なのはマヤの胸のサイズだが──不満を感じたときには、また店に通えばいいだけの話である。
日向は結論づけた。
目の前で、マヤはまだ、「先輩」に対する愚痴を口にしている。
「マヤちゃん!」
「え?」
ちょっぴり日向が大きな声を出すと、マヤはびっくりしたように言葉を止める。
「何? 日向君」
日向は、一つ深呼吸をしてから、言った。
「結婚しよう!」
「いや!」
マヤは、即答した。
日向は振られた。
真っ白になって、コンソールに突っ伏す日向。
当たり前すぎることの帰結であったが、日向にはそうでないらしい。
マヤは、そちらには全く興味がありませんとばかりに、持ってきた自分の仕事を始めている。
「……うう、何故だ」
何故も糞もないのだが、日向はうめきながら、それでも何とか体を起こす。
と、そこで。
突如、ネルフ本部に警報が響き渡った。
「──なんだ?」
さすがに真面目な表情になって、日向は目の前のキーをたたき、状況を調べ始める。
マヤの方も、これまでの仕事を放り出して、現状把握に努めようとしている。
「──第3新東京市に、謎の移動物体!」
マヤの声に、日向はあわてて自分の左斜め後ろを振り向いた。
そこは、青葉シゲルの席。青葉が「パターンブルー使徒です」と言えば使徒だし、そうでないと言えば使徒ではない。そうした、重要な位置。
だが、現在そこはぽっかりと空いていた。残業していたマヤや、宿直の日向と違い、青葉は今日、定時であがっている。
「ど、どうすんだよ。シゲルがいないと、使徒かどうかわからないじゃないか!」
「落ち着いてくださいよ。──特例への3条に応じ、伊吹マヤが代わりを務めます──パターンオレンジ。使徒ではありません。これは──」
ああ、マヤちゃんが代わりに仕事をしてしまったら、シゲルのただでさえ少ない出番が……と、友人のために嘆く日向をよそに、マヤはものすごい勢いでキーをたたき、謎の移動物体の正体を探る。そして──
「これは、戦自の陸上巡洋艦トライデントです!」
「戦自? 戦自がいったい何で……?」
「トライデント、周囲を無差別に攻撃しています。すぐに非常事態宣言と避難命令を──」
「ああ、わかった、すぐにやってくれ!」
「兵装ビルを起動して、直ちに殲滅を──」
「ああ、すぐに──」
マヤの言葉に従うだけのイエスマンになっていた日向だが、ここで、初めてどもった。
「──って、戦自と砲火をまじえて良いのか?」
ネルフは、対使徒の特務機関である。実際はともかく、建前上は、使徒を倒すためのあらゆる権限が与えられている。実際はともかく、と言うのは、委員会の承認なしには行動に入れないとか、迎撃に際して、戦自やらが優先されてしまったりとか言う部分である。しかし、とにもかくにも対使徒に関しては、絶大な権力を持つ。
だが、使徒以外の場合は?
それが、日向をためらわせた。
対使徒以外の場合、ネルフは何ら権利を有しない。下手に戦自と戦うことになったら、後々、責任問題になりかねない。
「攻めてきているんですよ? だったら、反撃するのは当然の権利じゃ──」
「そんなに簡単に考えて良いのか?」
マヤのぼやくような声に、日向はとまどったように首をかしげる。
「──でも、まあ、マヤちゃんがそう言うなら」
「責任者は、日向君よ」
「え?」
びっくりしたように、日向はマヤを見る。そんなことは、初めて知った。そういう顔だ。
「作戦部ナンバー2でしょ? 今はシンジ君もユウキちゃんもいない。なら、日向君が判断を下すのは、当たり前のことでしょ?」
「ええ?」
語尾が甲高くなる声で、日向は驚きの声を上げた。
司令や副司令について無視されているのがあれだが、現状、ネルフのトップがシンジであることは間違いない。そして、その下、ナンバー2にはユウキ。そして、その二人が不在の場合には、自分が責任者になる? 日向は脳裏にネルフの組織図を描き、少なくとも現状ではその通りだと言うことに気がついて愕然とした。碇組ではともかく、ネルフでは、かなりの上位に日向はいるのだ。
「──で、どうするの?」
「どうしよう?」
日向は、わたわたと、助けを求めるようにして周囲を見回した。
今まで、日向は作戦部ナンバー2の位置にいた。ナンバー2に慣れきっていた。上の命令に従って、諾々と仕事をこなしていく。しかし、自分で判断して何事かを成す、ということには、全くの不慣れだった。
自分が指示を出す位置にいる。だから、自分で判断して指示を出せばいい、とは日向は考えなかった。
自分の指示で動かした場合、責任という奴がついてくる。
勝手に、戦自と砲火をまじえて良いのか?
最近、せっかくうまくいっている関係に、自分が水を差すことになるのではないのか?
だいたい、ネルフには、戦自と戦うことは許されてはいないのだ。
自縛自縄になって、動きを止めた日向。
それは、第3新東京市に乗り込んだトライデントたちに、貴重な時間を与えた。
[BACK]
[INDEX]
[NEXT]