#150 ある朝の光景
窓の向こうに、かすかな音、あるいは気配をとらえて、霧島マナは目を覚ました。
枕の下の拳銃を取ると、慎重な動きでベッドの下から這い出す。
静かに、静かに。空気を動かすことすら厭うような慎重な動きでもって、窓に近づく。盗聴、盗撮防止の効果を持つ分厚いカーテン越しに、窓の外の気配を伺う。
敵意、殺意と言った危険な気配がないことを確認。
しかる後に、カーテンの隙間から外を、ベランダの様子をうかがう。
ベランダの手すりの上に、1羽の烏がいた。
烏は、僅かに首をかしげたあと、マナを馬鹿にするように一声鳴いて、翼を羽ばたかせて飛び去っていった。
「──」
あの鳴き声はいただけなかったが、危険な出来事が起こったわけではないと、大きく安堵の息をこぼし、マナは全身の緊張を解いた。
マナが、これほどまでに緊張するのも理由がある。
ここは、第三東京市にある、ありふれた家族用アパートの一室。
詰まるところ、敵地だ。
天野連合がその力を使い、用意した住居。複雑怪奇な方法でもって、天野連合との繋がりがわからないようにされているとは言え、その立地条件から、無条件の安心などはとても出来ない。
僅かな油断も命に関わりかねない、危険な場所。
「──」
マナはもう一度、大きく息を吐く。
それから、人が眠っているように偽装してあるベッドの向こう側の目覚まし時計に視線を送る。
時計の針は、目覚めるべき時間よりも若干早い時間を指し示している。
朝の5分の睡眠は黄金よりも貴重。それは、戦自研の強化人間であるマナにとっても変わらない。半ば覚醒し、半ば夢の世界のふわふわとした至福の時。その状態から抜け出すことが出来ずに、遅刻をした人間は古今東西、枚挙にいとま無いだろう。
だが、その時間を楽しむために、再び眠るわけにはいかない。そこまでの余裕はない。
マナは断腸の思いを持って誘惑を断ち切ると、今日の準備を始めることにした。
マナは、その足で浴室へと向かう。
用心のために、小型の拳銃を持っていく。手早く服を脱ぎ散らかすと、用意しておいた小型のビニール袋に拳銃を入れて口を閉じ、ペンダントのように首にかける。簡単な防水処置。それでも、シャワーを浴びるくらいならば十分である。
熱水と冷水を交互に頭からかぶり、眠気の残滓を振り払う。どこかぼんやりとした部分の残っていた脳細胞が、完璧に覚醒していくのを感じる。
その間も、もちろん、浴室の扉の向こうへの警戒を怠らない。
こうした場合は、ツーマンセルだとありがたいのに。
などと、思っても詮無いことを思う。
二人一緒に浴室に入り、マナがシャワーを使う、あるいは体を洗っている時には、相棒が外を警戒する。相棒がシャワーを使う時には、逆にマナが──と言った具合に出来れば、もう少し落ち着いてシャワーを浴びられるのに、と。あるいは、単純にマナがシャワーを使う時には外で警戒してくれているだけでもいい。それで、ずいぶん安心できる。だが、残念なことに今回の任務は、マナ単独で行わねばならない。
敵地で一人。
これは、いかに能力に自信を持っているマナといえども、酷く緊張するし、心細くもある。
しかも、潜入任務など始めとなれば、ますますだ。
さらに言えば、この地にはでたらめな戦闘能力を持つ人間がごろごろしている。いかに自分の能力が優れていると言っても、戦えば楽勝とは行かないことも目に見えているのだ。不意をつかれれば、勝利すら危ういかも知れない。油断は出来ない。
「──」
何度目かの大きな息を吐き、マナはコックをひねって水を止め、シャワーを切り上げる。
用意しておいたバスタオルで乱暴に水気を拭き取りながら、浴室を出る。
脱衣所に出、併設された洗面所の大きな鏡に向き直る。
鏡に映った自分の姿を観察する。
短くした髪の毛のせいというわけではないが、活発そうに見える顔立ち。公平に見て、整っていると言える顔立ち。部分部分をみれば十分、美少女にカテゴライズされると思うのだが、目尻が下がっているせいか、なかなか綺麗とは言ってもらえない顔立ち。愛嬌がある。そんな評価をされることが多い。
自分に、この作戦を授けた少女の顔を思い出す。
天野ミナカ。
日本の裏社会、東半分を支配下に置く天野連合会長職にある少女。
鋼鉄少女計画の最大のスポンサー。
アレこそ、美少女の実例みたいな少女だった。
自分もあれくらいの美少女であれば、今回の作戦、疑問の余地もなく、確実に、間違いなく成功すると確信を抱けるのに。
「でも、私だって、十分にかわいいよね」
鏡の中の自分に向かって言い聞かせるように呟き、マナは、頭を一つ振って弱気を追放する。
大丈夫だ。
そうでなくとも、これから接近する相手は、性別が女性であれば100パーセント守備範囲に入ると評判のケダモノだと言う。自分程度の魅力でも、十分に通用する。そのはずだ。
「それはそれで、貞操の危機だけど……」
大丈夫だ。
今回の大丈夫は、先の大丈夫よりもかなり弱気だった。
とりあえず、それ以上貞操の危機については考えないことにする。
ここでおびえていても仕方がない。
ここは臨機応変に対応しようと心を決め、用意された、今回の任務のための衣類を身につけることにする。
──が。
その最初の一枚で手が止まった。
「……こ、これは」
頬が引きつるのを感じる。
マナが取り上げた最初の一枚は下着。
かなり値段の張る、良いモノなのだろう。少なくとも手触りは、普段身につけている支給品とは格段の違いだ。
しかし、そんなことは問題ではなく、では何が問題かと言えば、そのデザインだった。
「こんなの、身につけるの?」
と、思わず呟いてしまうほど、そのデザインはゴージャスで。それ以上に卑猥きわまりないモノだった。
本当に下着としての効能があるのか不明なほどに、布地が少ない。おしりの辺りなどは殆ど紐と言った状態。フロント部分も生地が薄くてすけすけの代物。
マナも女性である。だから、綺麗な下着、色っぽい下着に対する興味はあった。普段は、戦自で支給される色気も何もないような下着ばかりであるため、余計にそうした思いは強かったかも知れない。
しかし、しかしこれは。
「こ、これは、エッチだ」
目の前に広げ、赤面しながら呆然とする。
誰も、おまえの貞操の危機なんて気にしていない。っていうか、任務達成のためなら、積極的にそう言う行動をしろ。
雄弁にそう語っている下着だった。
「せめて、もう少し、おとなしめのモノから段階を踏みたかった……」
たとえ段階を踏んでも、こうした下着を着用する事には抵抗を覚えそうだったが。
とにかく、素っ裸で立ちつくしていても仕方がないと、マナはその下着に足を通す。
なんだか、大切なモノを失ってしまったような気がした。
その後、鏡で顔色を見て健康状態をチェック。
部屋に戻ってきて、大きな姿見で全身をチェック。
これから、マナが潜入することになっている場所、ネルフの秘匿コード707の一般的な制服。平たく言ってしまえば、第一中学校の制服。その格好に、おかしな場所はないかチェックする。胸の大小がわかりにくいデザインになっているのはありがたいと、洗濯板のマナは思いながら、リボンの曲がりを直す。
お約束にくるりとその場で回り、スカートの裾を翻させる。
一回転してぴたりと止まり、にっこりとほほえんでみる。
「大丈夫、一般的な中学生に見える……よね?」
大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせ、マナは頷いて、ほかの装備の確認に移る。
教科書などの一般的なモノは、夕べのうちに準備をすませてある。
だから、確認するモノは一般的以外のモノだ。
敵地への侵入。
それを考えての装備を選ばなければならない。
いくら腕っ節に自信があるとしても、敵地への侵入。それを考えれば、素手では心細い。また、ケダモノへの接近までしなくてはならないとなれば、ますます素手では不安だ。
「拳銃はどうしようか」
ずらりと机の上に銃を並べて呟く。
「う〜ん。ケダモノって部分に目が行きがちだけど、あちらも「碇ムテキの後継者」って言われている程だし、小型拳銃じゃあ心細いよね。最低でも、アンチマテリアルライフル──って、大きすぎて目立たないように持ち運ぶのは難しいか。じゃあ、銃身切りつめたショットガン。スラッグ弾なら効くよね? っていうか、効いてくれなくちゃヤだ。──あ、でも、金属探知器なんてあると駄目だし…… 銃は止めといた方が無難かなあ」
第一中学校は、ネルフにとって重要施設の一つである。金属探知器くらいはあるかもしれない。いや、きっとある。
一般的な中学生は銃なんて持っていないはずだから、ばれた時のことを考えると、危険度が大きすぎる。
「じゃあ、ナイフ──う〜ん、これくらいだったら、今日日の若者の標準装備……かな?」
今まで、戦自研の研究施設内で暮らし、まともに学校に通ったことのないマナは、よくわからないと首をかしげた。
「あ、でも、ナイフオッケーだったら、ナイフピストルなんかも大丈夫だよね。スペツナズナイフくらいで我慢しておいた方が良いかな? でも、実際に使うことを考えたら、グルカナイフくらい欲しいよねえ」
首を掻き切るのに最適。そんなごついナイフを持ち上げて呟く。
「あ、そう言えば、学生の標準装備のナイフはバタフライナイフだって聞いたことがあったような……って、こんな柔そうなナイフでどうするのよ?」
くりくりくりと器用にバタフライナイフの刃を取り出したりしまったりしながら、マナはうめく。グルカナイフと比べて、バタフライナイフは何とも頼りない刃しかない。人斬りにバタフライナイフは向いていない。
「いやいや、やっぱりナイフも止めた方が無難かなあ。──でも、丸腰ってのも心細いし。──あ、そうだ。護身用のモノなら大丈夫じゃないかな? スタンガンくらいならば大丈夫……かな? スタングレネードは……確かに護身用で売られていたりするけど、この国じゃあ一般的じゃないか。催涙ガスを仕込んだ腕時計くらいなら……」
こんどはずらりと護身用アイテムの数々を並べて、頭をひねる。
「──って、どのみち任務に確実を期すなら、ケダモノに襲われても反撃するわけに行かないし……」
あの下着が、きっぱりとそう告げている。
「って言うか、襲われた時に、下手なモノ持ってたらそれはそれでやばいし」
あくまでも、一般的な女子生徒として、ケダモノに接近せねばならない。
私って不幸かも。
マナは項垂れて呟く。
わざわざ口にするまでもなく、不幸だった。
何しろ、マナの役目は「餌」なのだ。ケダモノをおびき出し、誘導し、罠にはめるための餌。あるいは、犠牲の羊。
「どうせ反撃できないなら、せめてもの防御手段……ゴムとか用意しといた方が良いのかな? ──でも、それもやだなあ」
はあ、とため息をこぼす。
「こんな事なら、先にムサシとやっとけば良かった……って、きゃ〜きゃ〜」
呟き、自分の言葉に真っ赤になって、ぶんぶんと手足を振り回す。
それから我に返り、今の自分を見ている者がいないことを確認する。良しいない。と言うか、いるわけがない。何しろ、この部屋にいるのが自分一人きり。先刻、単独任務であることに不安を感じていたばかりだ。
「独り言がおおくなってる」
ふと、それに気が付く。
「つまり、緊張しているってことか」
ぼそりと呟き、一瞬、気弱気に歪めた表情を引き締める。
「どのみち、私が生きていくためには、この任務をどんなことをしてでも成功させるしかない」
これまでマナが生き延びてこられたのは、戦自研の研究者達の期待に応えてきたからだ。応えられなくなれば、即座に廃棄。あるいは、処分。死体は解剖されて、次の世代の強化人間を作るための資料の一つとされるだろう。天野連合の経済援助を受けるようになったことを考えると、「吊される」危険もある。
言葉にしたように、どのみちやるしかないのだ。それが、自分の体をケダモノに差し出すことになろうとも。
生き延びるためには。
マナは、ぱちんと自分の頬を両側から挟み込むようにして叩き、気合いを入れる。
少々頬が赤くなってしまったのが間抜けだが、鏡の中の自分の表情を確認して、満足げに頷く。
迷いを消した──覚悟を決めた顔。
「とにかく、当たって砕け──砕けないように、がんばるしかない!」
ぐっと力込めて握り拳を作り、マナは宣言する。
ずらりと並べた武器道具類から視線を外す。不安要素となりかねない余計なモノは、全て切り捨てる。大丈夫だ。自分は、素手でも十分に強いのだ。問題ない。
頷き、時計を確認したマナは、悲鳴を上げた。
「嘘、いつの間にこんな時間に?」
武器を前に悶々としているうちに、思わぬ時間が過ぎていた。
「やばい、急がないと時間に間に合わない」
大あわてで部屋から飛び出し、すぐに戻ってくる。
鞄を忘れていたのだ。
鞄をひっつかんで再び部屋から飛び出そうとし、マナは足を止める。
振り返り、壁の方に向き直る。
そこには、幾葉かの写真が止められていた。
集合写真があり、そうでないモノがあり。
それは、仲間達の写真。
戦自研で共に過ごしてきた仲間達の写真。
多くは実験の結果帰らぬ人となり、生き残りの殆ども、昨夜のトライデントによる襲撃作戦に参加し、帰らぬ人となった。
マナは、そちらに向かい、姿勢を正して完璧な敬礼をして見せた。
「みんな、行ってくるよ」
そして、霧島マナは敵地に向かう。
[BACK]
[INDEX]
[NEXT]