#34 楽園の少女


 円筒のガラス容器の中。赤みを帯びた液体──LCLを満たされたその中に、少女の姿があった。
 少女は、全裸。未だメリハリの乏しい裸体を、余すところ無く晒している。
「……」
 その少女を見つめる中年男が一人。ひげ面、サングラス。非常に胡散臭い。幸いなことに、その髭とサングラスによって、表情を伺うことができない。もし、これでにやけでもしていたら、間違いなく怪しい人物。いや、既に充分怪しいかも知れないが。
 男はネルフ総司令、碇ゲンドウである。
 そして、少女は綾波レイ。ファーストチルドレン。
「……レイ、上がって良いぞ」
 ゲンドウの言葉に、今まで閉じていた少女の瞳が開く。
 レイの瞳を初めて見たモノは、皆一様にぎょっとする。真っ赤な、血の色をした瞳。
 綾波レイは、色素欠乏症、アルビノである。肌の色は透き通るまでに白く、髪の色も白──光の加減によっては、蒼銀にも見える。本来、奇異の視線を向けられる要素だが、顔立ちが整っているせいか、この世のモノならざる、儚げな雰囲気となる。まるで、幻想の中の妖精か何かのように。
 レイは無言。そして、無表情にゲンドウを見つめる。その瞳、表情には羞恥の欠片もない。
 ガラス容器を満たすLCLが排出され、その後、容器がせり上がり、レイは外に出る。
「検査は、全て終了しました。何処も問題ありません、正常です」
 ゲンドウの後ろに、いつの間にやってきたのか、リツコの姿。クリップボード片手に報告する。
「……そうか」
 ゲンドウは、そちらを見もしないで応じる。視線は、レイの裸体に固定されている。
 ゲンドウの背中に厳しい視線を向けつつ、リツコは平静な声を出した。
「レイ、シャワーを浴びて、服を着なさい」
「……」
 綾波レイは、命じられたままに行動する。無表情、無関心。そこに、感情のはいる余地はなかった。
 淡々とした動きで、シャワールームに消えるレイ。
 それを厳しい視線で見送ったリツコは、ゲンドウに向かう。
「そろそろ、表に出しても大丈夫です」
 表向き、起動実験時の怪我が悪化して治療を受けているとされているレイ。その怪我が癒えたとしても、問題の無いだけの時間が経った。それに、零号機の再起動実験も、至近に迫っている。
「……そうか」
 ゲンドウの答えは、短い。
 それから、僅かに考え込む素振りを見せると、付け足す。
「レイの住居は引き払え」
「え?」
 リツコは聞き返した。
 レイの住居。それは、第3新東京市が建設されたとき、建築関係者の単身赴任用のマンションとして建築され、その後、放棄された、半ば廃墟。現在、そこに住居を定めているのは、綾波レイ只一人だけ。希に、住所不定無職の人間が潜り込もうとする事もあるが、そう言った人間には、ネルフ保安部員が丁重に退場願っている。──大抵は、紆余曲折の後に、この世から。元々、生物関係の研究所であったネルフ。いなくなってもどこからも文句のでない人材が非常に貴重なのは、今も昔も変わらず、なのだ。
 兎に角、少女が一人暮らしをするにはふさわしいと言いかねる、レイの住居。
 しかし、レイのためを思っての提案ではないことは、容易に知れた。
 リツコは、ゲンドウの背中を睨み付ける。
「元々、ゼーレに不信感を与えないための処置であったはずです。それを──」
 レイに一人暮らしをさせることを決めたのは、リツコの言葉通り、ゼーレに対処するためである。ファーストチルドレン。EVAの最初のパイロットとして登録した時から、ゲンドウの掌中のみに隠しておくことは不可能になった。その為、わざわざ地上に住居を与え、学校にも通わせた。体裁を整えた。それを、ここに来て、無にしてしまう様なゲンドウの言葉。意味がない。ならば、最初から地下に住まわせておけば良かったのだ。
「……問題ない」
 ゲンドウは、リツコの反論を、あっさりと封じた。
 ここで冬月であれば、「お前はいつもそれだ」などと言いながら、一言二言、反論したであろう。しかし、リツコは冬月ではなかった。
「……シンジのこともある。出来うる限りの接触は避けるようにするべきだ」
 逆に、ゲンドウの方が説明の必要を感じた様子だった。
 しかし、その言葉は、リツコには言い訳臭く感じられた。兎に角、自分の手元に置いておきたい。そんな意志が透けて見えるような気がした。
「……解りました」
 リツコは自分をコントロールすると、平静な声を出した。
 リツコは科学者。冷静な視点で、物事を見つめる必要がある。そして、これまでそうしてきた。しかし、今回、それは非常な努力を必要とした。
 ゲンドウの言う言葉の意味は分かる。
 碇シンジ。ゲンドウの息子にして、ネルフ一番の問題。シンジの行動によっては、今まで準備してきた計画が、全て破綻してしまうかも知れない。そんな危険が存在することは、リツコにも解る。シンジが、何を知っているか。何を求めているか。それを置いて於いても、シンジの行動は危険だった。少なくとも、こちらの都合になど、気を配ったりはしないだろう。
 そして、綾波レイの重要度。綾波レイは、ゲンドウらの計画には必須の人材だ。このまま、何も知らず、何も求めず、ただ、命令に従うのみの人形であることが望ましい。
 その両者の接触を避ける。確かに、必要だと思う。例え、出会っても何もないかも知れない。しかし、何かあっては困る。危険は小さい方が良い。その為に、レイをネルフ施設内に軟禁に近い状態に置いておくと言うのは、それだけであれば納得できる。
 しかし──
 ゲンドウの、レイを見つめる瞳。
 サングラス越しで、見えるわけではない。だが、リツコは確信していた。
 これは、ろくでもない助平オヤジの視線であると。
 文字通り、親子ほどの年齢の開きがある、綾波レイと碇ゲンドウである。いくら何でも、そうした関係になるには問題有りだろう。後ろ指を指されるに決まっている。
 だが、碇ゲンドウは後ろ指を指されることに、今更何の感慨もないだろう。元々、「妻殺し」として後ろ指を指されて来たこれまで。そこに、もう一つ「ロリコン」が加わったとて、大して現状は変わらない。いや、既にその評価は、彼を嫌う者達の間では定説である。それだけ、綾波レイにこだわっているのだ。また、彼を嫌う者はそれこそ、掃いて捨てるほどに存在する。元々、ネルフ総司令としてゲンドウを畏怖している者はいるが、彼の人間性を慕っている者はいない。冬月ですら、目的を同じくする同士であり、友人では決してない。
 そして、綾波レイの容姿。
 これが、リツコに平静を失わせる。
 年を経る毎に、綾波レイの容姿は、あの碇ユイに、似ていく。
 当たり前だ。元々、碇ユイと、使徒のハイブリットコピー。それが、綾波レイなのだ。似ていくのは当然のこと。
 唯一、碇ゲンドウが愛し、愛された女性。
 暗い思いがリツコの瞳に影を落とす。
 最深度施設の水槽に漂う、綾波レイのスペア。アレを全て抹消したい。
 そうすれば、この胸のもやもやも消すことが出来るだろう。後に後悔するかも知れないが、一瞬は快哉を叫べる。
 法律的には、問題ない。
 アレは、元々、存在しないモノ。戸籍もなく、一部の者を除いて、誰も知らない。知っている者にしても、宣伝できるような事ではない。また、魂も、意志もなく、ただ漂うだけの存在。人ではない。只のモノ。
 だから、人殺しとはならない。
 だが──
 それをしたら最後、ゲンドウは自分を絶対に許さないだろう。
 馬鹿らしい。
 自分でも、自分をそう思う。
 この男、ゲンドウの心は自分には向けられていない。最初から、今に至るまで。
 それを承知で、離れられない自分を嗤う。離れられなくなってしまった自分を嗤う。
 恋愛はロジックじゃない。
 だからと言って、この状況はあんまりだった。自分がいかに馬鹿らしい事をしているか。自嘲の思いが浮かぶのは、珍しいことではない。
 なのに、離れられない。
「……それでは、レイの部屋はジオフロント内に用意します」
 リツコは、内心の葛藤を隠し、静かに告げた。


 綾波レイは、ジオフロント内に用意された自室へと向かっていた。
 突然の引っ越し?
 そんな感慨はない。
 元々、気が付いたのはつい先日の3人目である。
 そして、その後はジオフロント内、最深度施設で「教育」を施されてきた。
 かつての住居には、一度たりとも足を踏み入れたことはない。
 踏み入れたとしても、何も感じないだろう。兎に角、あの殺風景な部屋には、何の思い入れもない。元々、そんなものがあったとも思えない。また、今のレイには、以前の、2人目の記憶がないのだから。
 只、冷蔵庫の上にある、壊れたサングラスを見れば、多少は心が動いたかも知れない。しかし、その壊れたサングラスも、ここにはない。
「ああ、ようやく見つけました」
 その綾波レイに、声がかけられる。
 ぱたぱたと軽い足音を立てて、一人の少女がその前に走ってくる。ユウキだ。
「シンちゃん、こっち、こっち」
 などと手を振り、遅れてシンジもやってくる。
「……」
 レイは、当然のように無視をする。 
 挨拶は社会の潤滑油。
 そんな事は知らない。
 レイが教えられたのは、
「碇司令の命令は絶対」
 極言してしまえば、只これだけ。
 社交的であれ。
 そんな命令は下されていない。
 また、レイ自身も、社交的である必要性を感じていない。その他、命令以外のことを何か、積極的に自ら進んでしようと考えるほど、世の中を知っているわけではない。いや、知らされていない。
 シンジ、ユウキを無視して歩き続けるレイ。
 二人は軽く肩をすくめると、それに付いて行く。
「初めまして、綾波さん。僕は、碇シンジ」
「私は、加賀ユウキです。よろしくお願いします」
「……」
 にこやかな二人の挨拶にも、綾波レイは無言で返した。
 碇シンジ。
 加賀ユウキ。
 その名前を、知らないわけではない。
 両者のプロフィールについては、頭の中に入っている。それも、要注意人物として、赤丸付きで教え込まれている。しかし、それは只の記号の羅列と一緒で、殆ど意味のない情報に過ぎない。2人目であれば、碇シンジ──司令の息子と言う点に、反応したかも知れない。しかし、このレイは3人目である。感慨はない。
 ただ、出来うる限り、接触を避けるように。そう、命令されている。だから、それに従おうとする。
 また、現時点での最新の命令は、自室に移動すること。
 そして、それ以外、レイに下された根本的、基本的な命令の一つは、使徒を倒すこと。
 間もなく、一月以内には零号機の再起動実験が行われる。使徒との戦いは、それからが本番となると言う。
 ならば、今は静かに体を休め、待機しているべきだ。
 待機するには、自室が望ましい。
 全てのオーダーを達成するには、このまま無視して自室に移動するべきである。
 レイは、結論付けると、そのまま進む。
 だが、足を早めたりはしない。
 通常、人を無視するとなれば、色々後ろ暗く感じたり、ばつが悪かったり、居心地が悪くなったり、兎に角、足早になったりするモノであるが、レイにそれはない。ばつが悪い、などの、雰囲気を読む能力に徹底的に欠けているのだ。知らないとも言う。
「あらあら、無視ですか?」
 ユウキは、楽しそうに呟いた。
「それも、やっぱり司令の命令ですか?」
「……」
 レイは、無視する。
 揶揄されている。そう考えるほど、知識や経験の蓄積はない。だから、何も感じない。
「──ふう。本当に、司令のお人形さんなんですね。それも、欲望処理にまで役に立つ、便利で都合のいい人形。……●極1号?」
 今度は、きっぱりと悪意に溢れた呟き。
 しかし、やっぱりレイは無視をした。
 二人は煩わしく、レイに向かっていろいろと口にしてきたが、その全てを無視する。
 そして、自室にたどり着くと、レイは挨拶もせずに中に入り、扉を閉ざした。


 こりゃだめだ。
 そんな顔で、ユウキはシンジを見る。
 シンジの方も、苦笑している。
 わざわざ、ユウキが挑発するようなことを口にしたのには、意味がある。
 レイがマインドコントロールを施されていることは、両者にはとっくに承知のことである。
 そのあたりの確認の意味もあり、普通の人間ならば腹を立てそうなことを告げたのだ。どんな反応を示すか。それを見て、対処のとっかかりを得ようと言う試みである。主に、ユウキが非道いことを口にしたのは、反応があれば、例の責め役と、宥め役に別れる予定だったのだ。勿論、シンジが宥める方。ユウキの方が貧乏くじを引いたと言っても良いかも知れない。
 しかし、反応は、この通り。見事なまでに、完璧な無視。それも、表向きだけではなく、内心からのように見えた。
「何というか、予想以上の難物ですねえ」
「そうだね」
 シンジは頷く。
「でも、どっちかというと、命令されているからとか、そう言う以前に、何も知らない、と言う感じだね」
「赤木博士の「教育」とやらも、ずいぶんと偏っているようですねえ」
 ユウキが腕組みして、偉そうな口調で論評する。
「いや、これはこれで正しいと思うけど」
「え?」
 ユウキが、首を傾げる。
「どう見たって、問題有りとしか思えませんけど」
 何も知らない。明らかに、常識知らずと見えるレイ。
 それを正しいと肯定されて、ユウキは理解不能という顔である。
「だってさ。何も知らなければ、不満の持ちようもないでしょ?」
 シンジが説明する。
「エデンの伝説にしてからそうじゃない。何も知らないウチは住んでいられたけど、知恵を身につけてしまったら、追い出されて、もう二度と楽園には戻れない。今の綾波さんは、何も知らない。だから、楽園に住んでいるんだよ。楽園に住む資格があるんだよ。彼女が不幸だと考えるのは、楽園に住むことの出来ない、外の人間達。僕らが「知って」しまっているから。何も知らない綾波さんにとっては、それが当たり前、何も問題のないこと。そう言うものなんだと、納得できる。当人には決して不幸な事じゃない。綾波さんを不幸にするのは──不幸だと感じるのは、周りの人間だよ」
 隣の芝生は青い。
 これも、隣を知っているからこそ起こる不満。
 隣の存在を知らなければ、比較して、不満を抱くこともない。
 レイは、何も知らない。
 だから、世界とはそう言うモノだと思っている。
 自由も知らない。
 だから、自由を欲することもない。
 ゲンドウの命令に従うのは、至極自然で、当然な状態。
 そう言うことである。
「しかし、どうしますか?」
「どうするって、どうにかするしかないでしょ。楽園に住んでいる綾波さんには悪いけど、世間というモノを知って貰うしかない」
 レイを、取り込む。
 これは、必須だった。
 ゲンドウのシナリオにおける、最重要人物。それが、綾波レイ。どうしても、味方にしておきたい。
「ふ〜ん。で、イブを……この場合、リリスを唆す蛇としては、どんな行動を?」
「蛇は非道くない? それって、ステキさんのあだ名だよ」
 シンジは、不満という顔で応じる。
 しかし、ユウキは取り合わない。
「やっぱり、ここは定番の餌付けからですか?」
「何の定番?」
「兎に角、定番なんですよ」
 強引に、ユウキは結論付けた。それから、もう一度尋ねる。
「いや……もっと、手っ取り早くやりたいね」
 そう答えたシンジを、ユウキは曰くありげな視線で凝視した。
「……何?」
 たっぷり見つめ、どうにも居心地が悪そうに尋ねたシンジに、ユウキは呆れきった口調で応じた。
「──やっぱり、シンちゃんはケダモノですねえ」
「なんだよ、それ。僕にはユウキが何を言っているのか、全然わかんないよ」
 と反論するシンジを、ユウキは丁寧に無視して見せた。

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