#52 女の微笑
「待て!」
ゲンドウは、戦自研の陽電子自走砲に第5使徒のとどめを刺させようとするユウキに向けて叫んだ。
ネルフの優位性を保障するのは、EVAの存在。エヴァンゲリオンだけが、使徒を倒すことが出来る。この事が、周囲に好意的な組織は皆無であり、幾つかの国を傾けるほどの莫大な金額を使いながらも、ネルフの存在を許されている事情である。
しかし、陽電子自走砲で使徒の殲滅がなれば、EVA以外で使徒を倒すことが出来ると言う事になる。そうなれば、ネルフ不要論が巻き起こることは間違いないだろう。
今回の戦いで、EVA、その初号機の活躍がなければ勝利はおぼつかなかった。陽電子自走砲のみでは、とても使徒に勝利は出来なかっただろう。
だが、とどめを刺す、と言うことは重要だ。
人は、キリとなる状況については記憶していても、そうでないものに対しては、簡単に忘却する。
例えば、宇宙パイロット。初めて宇宙に出たガガーリンの名前を知っていても、2人目の名前を知っている人間がどれだけいるだろうか。月に初めて降り立ったアームストロングの名前を知っていても、2人目は? 斯様に、キリとなる重要な事を成したモノのことは覚えていても、そうでないモノは容易く忘却する。
そして、ネルフに対する周囲の組織の感情から考えれば、積極的に忘却を試みるだろう。
第5使徒は、陽電子自走砲によって殲滅された。
その事実のみが強調され、EVAの活躍については、都合良く忘却される。忘却されなくとも、意図的に無視されることは確実だ。そして、その事を盾に、ネルフの既得権を削りにかかるだろう。維持だけで莫大な金額を使用するEVAを運用するくらいならば、もっと安価な──それにしたって充分高価なのだが、比較すれば──陽電子自走砲などの装備を充実した方が良いと言うことになるだろう。ネルフの権力を、既得権を殺ぐ。そして、自分たちにもっと予算を。そこに、躊躇いはない。
人類存亡の危機に勢力争いなど馬鹿らしい限りだが、世の中はそう言うモノ。「人の最大の敵は人」なのだ。また、ネルフにしたところで、周囲の組織と権力争いをしてきているのだから、偉そうに論評する資格はない。
また、ゲンドウ自身の立場の問題もある。
ゼーレに投げ与えられたネルフ司令の椅子。
人類補完計画に、EVAの存在は必須である。その流れ、あくまでも、ネルフ主導で使徒は退治されなければならない。その為に、ゲンドウは絶大な権力を与えられてきた。
しかし、ゲンドウに人類補完計画の遂行をなす事が不可能と判断されれば──無能と烙印されれば──ゼーレは即座に与えたモノの回収にかかるだろう。こちらにも、躊躇いはない。元々、ゲンドウの能力を評価していても、人間性についてはまるで評価されていない。有能でないとなれば、ゲンドウに価値など感じないだろう。であるからして、温情など求める方が間違いだ。一度の失敗で、簡単に見限られるだろう。
ネルフ司令の地位から滑り落ちれば、ゲンドウ自身の計画の遂行も完全に不可能になる。だから、司令職を罷免されるのは、絶対に避けねばならない。
だから絶対に、EVAによってとどめを刺さなければならないのだ。
もともと、ゲンドウの指示から外れ、勝手に戦自と協力体制を取ったと言う事実ですら、許容しがたい。しかし、こちらは使徒殲滅のために必要不可欠であったと強弁できる。だが、使徒殲滅、とどめを刺したという分かり易い手柄だけは、ネルフが手中にしなければならない。
「かまいません、やっちゃって下さい」
しかし、ゲンドウの事情など知ったことではないと、ユウキは簡単に流してしまった。
これを受ける、陽電子自走砲の責任者、時田ゴロウには、勿論躊躇う事情など無い。
これまで、役立たず呼ばわりをされてきた戦自。その一世一代の晴れ舞台である。しかも、自分の開発した陽電子自走砲で。名誉と、実益と。折角のチャンス、自ら進んででも、とどめを刺したい場面。それに許可を貰ったのだから、止まらない。
『発射!』
即座に、時田は陽電子自走砲の発射を告げる。
迸る陽電子。周囲の原子と反応して、まばゆい光を放ちながら、その一撃は使徒へ向かう。
外れろ。
ゲンドウの祈りにも似た思いをあざ笑うかのように、その一撃は使徒に命中した。
既に、半ば死にかけ、必死で自己修復をしている使徒に、それを防ぐ手だてはなかった。
一応、ATフィールドは展開されたようだが、元々、それを貫くだけの威力があるために、使用された武器である。
陽電子砲の一撃は、使徒にとどめを刺した。
使徒を貫き、その生命活動を停止させる。
「パターン、青、消滅」
青葉が、それを確認する。
『──!』
通信機越しに、陽電子自走砲関連のスタッフ達の歓声が聞こえてくる。
いや、ネルフ発令所でも、ゲンドウの内心など知りはしない者達が、そっと安堵の息を零したり、勝利の叫びをあげたりしている。
そこで、ユウキが手を打ち合わせて音を立てると、皆の注目を集める。
「みなさん、ご苦労様でした」
注目を集めてから発したユウキの言葉に併せるかのように、発令所の扉が開き、ごちそうを乗せたワゴンを押した女性達が入ってくる。
「ええと、ささやかながら、食事を準備しておきました。事後処理もあるかと思いますが、手の空いた人からどうぞ」
部外者の立ち入りを咎めようとするゲンドウの声は、無視された。
綺麗所の女性達と、ワゴンの上のごちそうに、男性スタッフは素直に喜びの声をあげている。女性スタッフも、食事の方に異論はない。──尚、この綺麗所は、シンジの経営する店の人材である。
これは、同時に山向こうから砲撃を加えた戦自や、陽電子自走砲の戦自研スタッフ達の方にも派遣されている。
早速、料理に手を伸ばすスタッフ達。
「話せる」
「作戦部長代理補佐心得見習い(仮)万歳」
などと、気楽な声をあげているモノもいる。
ゲンドウは、その言葉ににこやかに受け答えするユウキを睨み付ける。
それから、視線をユウキのそばに立つ、赤木リツコに向けた。
ゲンドウの口元に、暗い笑みが浮かぶ。常のように、顔の前で組まれた手が、その表情変化を隠しているが、そうでなくとも、殆どの者はゲンドウになど注意を向けていないので、全く問題なかっただろう。
笑っているがいい。
周囲をにこやかな表情でねぎらっているユウキに、馬鹿にしたような笑いを向ける。
だが、貴様は、即座に顔を引きつらせることになる。
ゲンドウは、暗い笑いを浮かべたまま、硬い表情でこちらを見つめていたリツコに目配せをした。
この戦いに於いて赤木リツコの様子は、明らかに普段と違った。
科学者の重要な技能の一つに、「説明」と言うモノがある。状況に即し、敵の攻撃について、あるいは味方の状況について蘊蓄を述べる。そうした技能だ。某、花の名前を冠した戦艦のクルー、医療班並びに科学班担当の、矢張りリツコ同様、金髪白衣(こちらの金髪は天然)の科学者が、これを見事に体現している。
その科学者ほど極端ではないとは言え、リツコも当たり前に、この技能を所有している。例えば、使徒が加粒子砲を発射すれば即座に「まさか!」とその正体に思い至り、説明を加えたりする。それが、リツコの発令所における役目である。
しかし、今回の戦闘に限り、リツコは不自然な沈黙守っていた。使徒が新たな能力を見せつけた瞬間も、リツコは無言だった。
これは、きっぱりと異常なことだった。
その原因は、リツコが白衣のポケットの中で握りしめた、小さな機械、赤いボタンが一つだけある、小さなそれに原因が求められる。
自爆装置ではない。これは他爆装置とでも言うべきか、その赤いボタンを押せば、即座に初号機のエントリープラグが、パイロットに致命的な故障をするように設定されている。具体的には、LCLの濃度が生存不可能なレベルに高められ、同時に、致命的な漏電が起こる仕組みだ。
シンジが、如何に強靱な肉体を持っているとは言え、致死的な威力である。
その装置の存在故に、リツコはどこか上の空で、戦闘中に口を挟む余裕を持つことが出来なかった。
この赤いボタンを押せば、シンジは死ぬ。
自分の手で、人の命を左右する。
その重さが、リツコから言葉を奪ってきた。
発令所は、マギの存在もあって、室温が低く設定されている。それでも、全身に嫌な汗をかくことを止められなかった。
装置を握りしめた手には必要以上の力が込められ、細かく震える。下手をしてボタンを押してしまうかも知れないと手放しかけ、そうして今度は、手から放したら最後、今度はどこかにぶつけてスイッチが入ってしまうかも知れないと怯え、再び握りしめると言うことを繰り返し、非常な疲れを感じていた。とてもではないが、使徒とエヴァの戦闘に気を配る余裕はなかった。
出来れば、使いたくない。
シンジには、思うところがある。あるが、殺したいほど、憎んでいるわけではない。
リツコとて、ゲンドウの指示の元、これまで後ろ暗い実験を繰り返してきた。しかし、だからといって、人殺しに慣れているわけではない。また、実験の素材は、多くは地下の水槽に浮かんでいる、魂のない綾波レイのスペア。魂がない。即ち物である。そう、自分を欺瞞することが出来た。
しかし、今回は──
自分の手を汚すことを厭うゲンドウを、憎らしく思う。
ゲンドウは、指示をするだけ。決して、自分で行動するわけではない。あくまで、ゲンドウにとって、人の生き死には書類上の上だけの事で済まされてきている。これまでは。──おそらくは、これからもそうだろう。ゲンドウは命令を下すだけで、実際に手を汚すのは、他の誰かの仕事だ。自身は高みに立ち、配下の者達が手を汚したのを、報告として受けるだけ。それだけだ。
リツコは、指先を赤いボタンの上で彷徨わせた。
出来れば、使いたくない。
これを使っても、リツコが咎められることはない。不幸な事故として処理されるだろう。証拠を残さぬように、細工をする人員には、非常な気を使っている。事後処理をする人間にも、手を回している。真実は、闇から闇へと葬り去られるようになっている。
幸いなことに、初号機は損傷を受けている。その損傷のついでに、エントリープラグに不具合が生じたとしても、決して不思議なことではないだろう。
だから、大丈夫だ。
その場合、証拠のあるなしに関わらずの、ユウキや田茂地の報復については頭から追い出し、リツコは自分の説得を試みる。
ゲンドウが、リツコの方を見ている。
早くやれ。
視線が、そう告げていた。
リツコは、一つ唾を飲み込むと、思い切るように、赤いボタンの上に載せた指に力を込めた。
ボタンは、あっけないくらい簡単に、押し込まれていった。
発令所に、鋭く警報が発せられた。
緊急事態を報せるべく、照明の色が赤に変わる。
「──!」
すっかりくつろぎ始めていた発令所に、緊張が戻る。
「これは?」
戸惑いの声は、日向の物。
リツコは、静かに、しかし、大きく息を吐き出した。
本当に、簡単な仕事。ボタンを押すだけなのだから、当たり前ではあるが。
「……ふう」
そのリツコの脇で、小さな、ため息を零す声。
弾かれたようにそちらを振り向くリツコ。
リツコの脇には、常と同じく、にこやかな微笑を浮かべているユウキがいた。
「何をしているの? 早く、この警報の原因を──」
リツコは、内心を誤魔化すかのように、ユウキに向けて言葉を発する。
ユウキは、軽く首を振って見せた。
「原因は、解っています」
言って、ハニカム状に並べられたモニターを示す。
モニターには、常ならば「危険」の文字が踊っているはずである。
しかし、今回は──
「え?」
リツコは、呆気にとられたような顔をする。
ハニカム状のモニターには、「駄目」「反則」「犯罪」「却下」「不可」などの、様々な、否定的な文字が並んでいた。
「下らない真似をしましたねえ、リツコさん」
「何の話?」
見抜かれている?
そんな不安を感じながら、表向きは、リツコは何も分からないと言う顔で、ユウキに応じた。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。
細工は、細心の注意を持って行われている。
何らかの、リツコの思いもよらない状況になっているようだが、それでも、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
最悪、エントリープラグに、シンジを殺すための仕掛けが見つけられたとしても、それをリツコの仕業だと特定することは出来ないはずだ。
「初号機のエントリープラグに仕掛けをして、シンちゃんを殺そうとするなんて、思い切ったことをしましたねえ」
しかし、ユウキはズバリとリツコに向けて告げる。あなたが犯人です。そう言っていた。疑惑ではなく、確信を抱いていた。
「……何の話? 私には良く分からないわ」
背中に気持ち悪い汗をかいているのを感じる。それでも、リツコは惚けた。
「惚けても、無駄ですよ?」
「だから、何の話?」
ユウキは、視線をリツコから、リツコのそばで、そちらを見つめていたマヤに移した。
「先輩、私は先輩のことを尊敬しています。でも、これは納得できません」
マヤは、リツコの顔をまっすぐに見て、言った。
「……マヤ?」
愕然として、リツコはマヤの顔を見直した。
ネルフのスタッフの中でも、一番目をかけ、そして、自分に一番懐いているはずの、伊吹マヤ。そのマヤが裏切る。それは、リツコの想定外のことだった。これまでも、仕事について、納得していない風ながらも、それでも守秘義務はきちんと守ってきた。それでも、リツコの後をついてきていた。自分に対して、好意以上の物を抱いているように見えた。だから、安心していたというのに。安心して、今回の細工を手伝わせたというのに。
「……どうして?」
白状したも同様の言葉。
しかし、構わずリツコは口にしていた。
それだけ、マヤが裏切った、このことに対する衝撃が大きかった。
「……」
マヤは、両の頬を手で覆うと、どこか照れたように顔を伏せた。
「──?」
「私、先輩のことが好きでした。でも、やっぱり女同士、っていうのは、不自然ですよね。それが、良く分かりました」
「ま、まさか?」
別段、リツコとマヤに肉体関係はない。マヤの方が、いささか不穏当な好意を自分に抱いているのでは、と言う疑惑は感じていたが。
「やっぱり、おつきあいするなら、男性が一番ですよね。それが、良く分かりました」
マヤは言って、笑みを浮かべる。
童顔で、下手をすると高校生に間違われそうなマヤであるが、その微笑は、女の子女の子した幼い物ではなかった。
それは、女の微笑だった。
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