#63 握手
葛城ミサトは、不機嫌な表情でテーブルに頬杖をついていた。
ここは、元々は日本の首都のあった土地、旧東京。しかし、現在はすっかりと更地になってしまったそこに、ぽつんと建ったビルの中の一室。JA完成披露パーティ会場。
会場の中でも、ネルフ関係者の席は中央、演壇の真正面に存在した。普通に考えれば、特等席だ。
そして、実際、これ以上ないくらいに特等席だった。
周囲の卓は、ネルフ関係者の席を距離を置いて囲んでいる。
周囲の卓には、これでもかという位の豪勢な食事が並んでいるのに対し、ネルフのためのそれには、中央に申し訳程度にビール瓶が並んでいるだけ。
全く、見事な特等席。
晒されている。そう言う状況だ。
「……」
すっかり座ってしまった目で、ミサトは中央のビール瓶を睨み付けている。
三食の替わりにビールで済ませる。そうとまで思われているほど、ミサトはビール好きである。本来ならば、即座に手を伸ばしたい。しかし、それを出来ないでいる。
仕事中だから。
そんな真面目な理由ではない。
栓抜きがないのだ。
ホールを見回るボーイに頼んでも、無視される。
考えてみれば、コップも見あたらない。
これでは、お預けを喰った様な状況だ。欲しいものが見えているのに、手の届くところにあるのに、決して手に入れることが出来ない。
この状況は、ストレスが堪る。
そうでなくとも、最近のネルフの、ネルフ内での自分の状況とも重ね合う部分があって、腹立たしい。
使徒を倒す、EVAはある。しかし、それは決して、自分のモノにはならない。自分の思うとおりに動いてくれない。
全く、腹が立つ。
しかも、同じ卓に付いている者達が、更にミサトのストレスを煽る。
勿論、シンジ達である。
ミサトの他に、ネルフ関係者の卓には、シンジ、ユウキ、リツコ、そして、ケンスケがいた。
ケンスケは全く関係がないし、招待される言われもないのだが、JAが、日重共の開発した人型兵器だと知った途端、「見たい、見たい、見た過ぎる〜」と狂乱状態に陥り、額を床にこすりつけるようにして、同行させてくれるように懇願してきた。
それを、僅かに考えた後、シンジは許可した。
ケンスケは驚喜して、シンジに付いていくという決意を新たにしたが、シンジは勿論、善意でそうしたわけではない。
きっぱり、旧東京は敵地である。
碇組と敵対している天野連合の支配地域。危険は溢れまくっている。
そこへ出かけていくのに、ミリタリーオタクとは言え、実際の戦闘能力皆無のケンスケは、足手まといにしかなりえない。しかし、壁くらいにはなるだろう。
それが、シンジの判断である。
勿論、それを表には伺わせたりしないで、あくまでシンジはにこやかに、僕って、善意に溢れているから、そんな顔をしている。
「しかし、天野連合のお姫様って言うのは、お尻の穴が小さいですねえ。この程度の低い嫌がらせ」
ユウキが、テーブルを見回して、呆れたような声を出す。その声は、いささか大きすぎ、周囲の者がぎょっとしたような顔をしているのが見えた。
ユウキはそれらを素早く確認し、大多数の人間が、天野連合と何らかの繋がりがあるらしいと判断、困ったように、小さくため息を零す。のこのこ誘いに乗ったシンジを咎めるような嘆息だった。
しかし、確かに、程度の低い嫌がらせだった。一応は招待した相手に、この程度の嫌がらせをして喜ぶとは、こう評されても仕方がないだろう。
「まあ、どのみち、まともな料理を出されても、毒を心配しなくちゃならないから、一緒なんじゃないの?」
シンジは、のほほんとした口調でユウキの呟きに応じる。こちらも、全然声を抑えていない。
「シンちゃんは、少々の毒くらい平気なんじゃないんですか?」
「まあ、鍛えられたからねえ。青酸カリ一瓶くらいなら耐えられるけど……でも、耐えられると言っても、結構辛いんだよ、アレ」
あなたは人間じゃありません。
そう判断されても仕方の無いようなことを、シンジが口走る。
実際、同行しているリツコなどは、興味深そうに、非常に興味深そうにシンジの方を見やる。解剖させて。そんな興味の満ちあふれた視線だ。
「……どういう鍛え方をしたのか、本当に興味があるわね」
しかし、その欲求を何とか放棄して、リツコは呆れたように口にした。
「前にも言いましたけど、無理を通せば道理が引っ込む式の、根性論丸出しの鍛え方ですよ」
ユウキが応える。
リツコは、それを聞いて矢張り前回同様顔を顰める。
「……私は科学に生きる女。……でも、興味はあるし」
ぶつぶつと、科学者としてのプライドと、興味の間で揺れ動く。
「まあ、そんなことは兎も角、我々も食事にしましょう」
ユウキがぽんと手を打って、提案する。
その提案に、リツコは首を傾げた。
食事をとろうと言われても、目の前にあるのは前述の通り、ビールだけ。今更シンジらを、「未成年でしょ」などと咎めるつもりもないが、ビールでは、ミサトでもない限り、食事とは言えないだろう。栓抜きがないのは──まあ、シンジである、歯でも指でも使って開けるだろうと達観している。その程度では、最早驚くつもりもない。
ユウキの方も、手ぶらである。何か、出かける前に料理をしていたようだが、もしかして忘れてきたのだろうか。だとしたら、ユウキらしくない失敗であるが。
「よいしょ」
そんなリツコの視線の先で、立ち上がったユウキはかけ声一つ。スカートの中からバスケットをとしだした。
ちょっとやそっとでは驚かない。
そう思っていたリツコだが、これには驚いてしまった。
ユウキの取り出したバスケット。それは、結構な大きさのモノで、とてもスカートの中にしまっておけるようなモノには見えなかったから。
「ちゃんと、出汁巻き卵に唐揚げ、蛸さんウインナーの三種の神器の入った、スタンダードなお弁当ですよ」
ユウキは、この世の中には不思議なことなどありません、と言う顔で、バスケットの中からお弁当箱を取り出すと、テーブルの上に並べていく。それから思い出したように魔法瓶を、同じく、スカートの中からとりだしてくる。
「……何処にどうやってしまってあったの?」
驚きの表情のまま、リツコは尋ねた。
「敵地に来たわけですからねえ、見た目解らないように、いろいろと武器なんかを仕込んできました。お弁当は、そのついでですね」
と、ユウキは、何でもないことのように応える。それから、ちょっと顔を曇らせた。
「あの、その「解剖させて」って言う目でこちらを見るのは、辞めて貰えませんか?」
「……いやね、そんなこと考えていないわよ」
ちっ、勘のいい。
そんな顔で、リツコが応える。
「……まあ、良いですけど」
ユウキは、半ばは納得していないような顔で、しかし、この話題にこれ以上こだわるのはやばいと、話を打ちきりにする。
「どうぞ、みなさん、召し上がって下さい。ああ、葛城さんも、いかがですか?」
「………………戴くわ」
ミサトは、敵の施しは受けないわ、そんな視線で弁当を眺めていたが、直ぐに我慢するのを辞めて頷いた。
「さあ、シンちゃんも、どうぞ」
お茶を取り出した湯飲みに注ぎながら、ユウキが促す。
しかし、シンジは真面目な表情をして、パーティ会場の入り口の方に視線を向けていた。
「──?」
まだ、開会の時間には間がある。ユウキは首を傾げ、シンジに倣って、そちらを見る。
そして、いつも柔らかく微笑んでいる表情を、心持ち引き締めた。
そちらからは丁度、一人の少女が入室してきていた。
それは、美しい少女だった。
緩やかに波打つ長い黒髪は、腰の辺り程まで。上品な美貌を持つ顔立ちは、ユウキが可愛い系なのに対して、こちらは美人系。夢見るような美貌、なのに、弱々しさは欠片もない。太くはないがくっきりとした眉毛と、僅かに目尻が上がり気味の瞳のせいか。しかし、きつい、とまでは行かない絶妙な位置で止まっている。
恰好の方は、黒と白、くっきりとしたコントラストの組み合わせ。フリルを多用した、いわゆるゴスロリ系の恰好で、それがこの上なく似合っていた。全く、非の付け所のない様な、飾っておきたいような美少女だった。
その美少女が、背後にスーツ姿の、格好良いという印象の怜悧な美貌を持つ妙齢の女性、そして、黒服のごつい男達を従者の如く従えて、まっすぐにシンジらのテーブル目指して歩み進んできた。
そして、シンジの真正面で、少女は足を止める。
「まさか、本当にのこのこでてくるとは、思いませんでしたわ」
美少女の口唇から紡ぎ出された声には、間違えようのない険があった。
「ここは、初めましてかな? 天野ミナカさん」
シンジは、にこやかに挨拶をした。
ユウキの言うところの、ケダモノシンジ。美少女を前にして、にこやかになるのは当然か? シンジにばれたら怖いことになりそうなことをちらと考えたリツコである。しかし、シンジの口に出した少女の名前に思い当たり、顔色を変える。
天野ミナカ。
天野連合の会長。
シンジの、敵。
「初めまして、碇シンジさん」
予想外に、ミナカはにこやかに微笑んだ。友人を迎えるような、柔らかい微笑。
その表情のまま、更に言った。
「そして、さようなら。二度と会うことはないでしょう」
それは、処刑宣告だった。
背後の黒服が、素早く動く──
より早く、ユウキの足下で、幾つかの、何かが床にぶつかる音がした。
「あらあら、失敗失敗」
気楽な声で、完璧に機先を制し、気勢を逸らしたユウキが謝罪する。
そして、皆の注目を受けながら、しゃがみ込んで落としたモノを拾い上げると、テーブルの上に置いた。
それを見て、リツコはぎょっと目を見開く。
ユウキの取り上げたモノ、それは、350ミリリットルのジュース缶のように見えた。
しかし、塗装は殆どされておらず、地の、銀色を多く晒している。
そして、一際目立つ色合いで描かれたマーク。
それは、生物汚染注意のマークだった。
更に、卓に並べる。
今度は、放射能マーク。
更に、も一つ。
ゲヒルン印の付いた、なんだか良く分からない化学記号の付いた缶。
ユイの秘密缶詰、と丸文字で書かれた缶。
手を触れるな、危険、更に、惣流キョウコ・ツェッペリンとサインの入った缶。
どれもこれも、おどろおどろしい記号や文字が書き込まれていた。
「ネルフの地下からこっそりと持ち出した、危険な缶詰を落としてしまいました。もう少しで、この辺り一帯が致命的に汚染されてしまうところでしたねえ」
気楽な口調のままでユウキは言って、ほほほとわざとらしく笑って頭を掻いた。
「この缶詰なんて、ほんの僅かで、人間がどろどろの緑色の泡になって消え失せてしまうような惣流博士謹製の危険な放射能が入っていますから、全く、大惨事直前でした」
そちらを、天野ミナカは冷めた目つきで眺めた。
「下らないブラフですわね。構いません、やってしまいなさい」
きっぱりと、欠片の躊躇いもなく断言すると、ミナカは部下に指図する。
ユウキお得意の脅しも、この少女には通用しない。
そうなれば、数で圧倒されたシンジらの運命は、風前の灯火と見えた。
「お待ち下さい」
しかし、そのミナカは静止させられた。
口を開いてミナカを止めたのは、背後に従っていた女性、彼岸花マリだった。
ミナカは、目に見えて不機嫌な表情になった。しかし、そんな不機嫌な表情になっても、この少女には華があった。
「マリ、私は迂遠な方法はきらいです。下らないブラフにつきあって間抜けを晒すことも」
誰か他の者であれば、ミナカは引き留められたりはしない。しかし、マリの言葉だけは、ミナカを止めた。止めることが出来た。それだけ信頼しているし、近しい存在だ。しかし、不機嫌になるのだけは、堪えようもなかった。
「それは、重々承知しておりますが、ここはお控え下さい」
不機嫌な視線に晒されても、マリは引かず、ミナカの翻意を求めた。
「私も、これは10中8,9まで、ブラフと考えます。しかし、万が一の事があります。我々だけであれば構いませんが、ミナカ様の身を危険に晒すことは出来ません」
マリの頭には、助っ人して雇い、第3新東京市に派遣した亀男、郷田真の事が引っかかっていた。ブラフだと思う。しかし、ゲヒルンの3人の科学者達の名前の入った缶詰が、その判断を躊躇わせた。
天才科学者。しかし、同時にキチガイ科学者。
倫理観など、どこかに置き忘れてきたかのような、あの3人の科学者の逸話の数々。常識を疑うような、間抜けでとんでもない噂の数々。
以前のマリは、それを鼻で笑って切り捨ててきた。
いくら何でも、それはないだろう、と。
しかし、亀と合成された人間、郷田真を見てしまったことで、その噂の大半が真実であるとの確信を抱いてしまった。
だから、躊躇われた。
危険に晒されたのが他の者ならば、構わない。
自分を含め、他の者であれば、碇シンジと差し引き計算で、こちらにメリットが大きいと判断できる。
しかし、ミナカだけはいけない。
ミナカだけは、危険に晒すわけには行かない。
元々、マリはミナカの為だけに働いてきた。ただ、ミナカの為だけに。
だから、万が一の危険でも、この場合は危険を避けるべきだと判断したのだ。
「まあ、ひとまずここは、休戦と行かない?」
そこへ、シンジが口を挟む。ポーカーフェイスか、表面上は平然としている。
そちらを睨み付けるミナカの前に、シンジは左手を差し出した。
「他の政府関係者に被害を与えることも問題だし、ここはひとまず握手をして、休戦と言うことで」
左手なのは、利き腕で握手をするほど、仲良くは出来ないと言うことか。
ミナカは、シンジの差し出した左手を睨み付けた。今しも、乱暴にはね除けそうな目の色。
しかし、直ぐに宛然と微笑んでみせる。
「そうですわね。ここは、一つ休戦としましょう」
言って、ミナカはシンジの腕を取る。
それを、今ひとつ以上危機感のないケンスケが、美少女の手を握れて良いなあ、と、指をくわえて眺めている。
「私を女だと見て、甘く見ると、痛い目にあいますわよ」
小さく、ミナカが囁くように言う。
シンジは、微妙に顔を顰めた。
見れば、ぎりぎりと、ミナカはシンジの手のひらを握り潰さんばかりの勢いで、力を込めているようだ。
その力は、シンジが顔を顰めるくらいだから、相当なモノなのだろう。
シンジが、碇ムテキの後継者と目されているならば、こちらもその最大の敵手と言われた天野ハシダテ、その直系の後継者だった。
「このまま、握り潰して差し上げましょうかしら?」
そう囁いたミナカであったが、次の瞬間、まるで熱いモノに触れたかのように、慌てて手を引っ込めていた。
「──?」
周囲の者の戸惑いの表情。
その中で、ミナカは心持ち顔を赤らめ、怒り心頭の表情でシンジを睨み付けると、不意にくるりと背後を振り返ると、歩き始める。
「行きますわよ!」
不機嫌のにじみ出た声で告げると、従者達を従えて、退場する。
その背中を見送り、ユウキはへなへなと言った恰好で椅子に座り込んだ。
「天野連合のお姫様は伊達じゃありませんねえ。ネルフの保安部員のようには行きませんし」
言って、ずらりと並んだ、危険なマークの入った缶を一つ取り上げると、ぷしゅっと音を立てて、栓を開ける。
ぎょっとしたような顔のリツコ達の目の前で、それを無造作に煽る。
「流石に緊張して喉が渇きました……ああ、これは只のお茶とかですから、心配ありませんよ。まあ、中にはドクターペッパーとか青汁ソーダとか、違う意味で危険なモノも混じっていますけど」
「そ、そう」
リツコは、何とか声を絞り出した。
ユウキが無造作に缶を開けた瞬間、心臓が止まるほどにびっくりしていた。リツコはマリ以上に、自分の母親達の危険性を理解していたから。
「シンジ君は、どうしたの?」
それから、自分の手のひらを見つめているシンジに、声をかける。
「握り潰されるかと思った。あれは、人間の力じゃないよ」
シンジは、リツコにも解るように、自分の手を示して見せた。
シンジの手には、くっきりと赤い手形が残っていた。リツコから見て、人間離れしているシンジがそう言うのだから、相当なモノだろう。
「……正直、天野ミナカを舐めていたね。油断していた。それを、痛感したよ」
「考えてみれば、ムテキのおじさまと唯一対等に戦った、天野ハシダテの一人娘ですからねえ。尋常じゃなくても、当然かも知れませんねえ」
「うん」
と頷く、シンジ。
そちらに、リツコは疑問をぶつけてみた。
「でも、どうして彼女、いきなり手を離したの? シンジ君を押しているように見えたけど」
それに、シンジは答えず、笑って見せた。
代わりに、ユウキが苦笑しながら応えた。
「シンちゃんは、ケダモノですからねえ」
「ミナカ様、大丈夫ですか?」
心配げに声をかけてくるマリを、煩わしそうに振り切って、ミナカは一人トイレの個室に入っていた。
後一息で、碇シンジの手を握り潰すことが出来た。確実に。
しかし、その寸前、ミナカは慌てて手を離していた。
シンジが、軽く親指で、ミナカの手を撫でた。それだけで。
それだけで、ミナカの背筋に、これまで経験したことのない様な震えが走った。
その瞬間、反射的にミナカはシンジの手を振り払っていた。
たった、それだけで──。
「……濡れて」
確かめ、屈辱に震える。
「碇シンジ。必ず、殺してあげますわ」
暗く、ミナカは呟いた。
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