#85 私はあなたが大嫌い
「もう、大丈夫だから」
少女を戒めていた鎖を引きちぎり、そう言って笑った少年の言葉は、大嘘だった。
何処をどう見ても、ちっとも大丈夫じゃない。
少年の体は、血で、真っ赤に染め上げられている。
多くは、返り血。しかし、全てではない。
何しろ、少女の目の前で、二発ほど、弾を喰らっているのだ。それ以前にだって、かなりの怪我をしていることも、疑いようがない。
如何に少年がタフであるか。
それを、少女は承知している。
人間離れしている、と言っても良いくらいに、タフ。毎日、少年に果たされている鍛錬は、普通の人間ならば、即座に死亡、そう言ったモノ。獅子は我が子を、千尋の谷に突き落とす。それを、地で行くような鍛錬。それに耐えられるのだ。タフに決まっている。
だが、同時に、少年にはその育て親ほどの出鱈目な頑健さが無いことも、少女は承知していた。
確かに、タフ。
しかし、それは無敵と言うわけではない。不死身の肉体というわけではない。
撃たれれば傷つくし、血も流す。当たり所が悪ければ、死にもするだろう。
そして、今の少年の様子は、満身創痍。このまま放置すれば、死に向かう。
それだけの怪我を、している。
間違いなく、普段の強さの半分も発揮できないだろう。例えば、少女がちょっとその気になれば、簡単に少年の命を奪えるほどに、消耗している。弱っている。
だから、少年の言葉は大嘘だ。
ちっとも、大丈夫じゃない。
敵の大半は、ここに至るまでに排除しているだろう。
だが、全てではない。
未だ、部屋の外からは、騒ぐ声が聞こえてくる。
いずれ、敵はこの部屋にやってくるだろう。
来なくとも、脱出のために動けば、彼らと出会うことは確実だ。
そして、今の少年では、それに対抗できるとは思えない。
少女自身のことを言えば、今の少年以上に無力だ。戦うような訓練を、してきていないのだから、当然だ。
出会ったら最後、二人に抵抗する術はない。
少年は殺され、少女の方は──例え殺されなくとも、ろくでもない目にあうことは確実だ。実際、この部屋に転がっている男の一人が、にやにや笑いながら、少女がこれからたどる運命を解説してくれたモノだ。嬉々として、撮影機材や怪しげな機具、薬物を用意しながら。
まったく、ちっとも大丈夫じゃない。
少年は颯爽と助けに来たつもりかも知れないが、ここで満足して貰っては困るのだ。
本当に大丈夫になるのは、ここから逃げ出した後だ。
全然、大丈夫じゃないのだ。
そう、全然大丈夫じゃないのに……
なのに、何故か安堵している自分に気が付き、少女は戸惑った。
微笑まれたからと言って、少年の顔の造作は大したモノじゃないから、見惚れたと言う可能性は皆無だ。精々、10人並の顔立ち。確かに、醜悪とは言い難く、中性的な、あるいは女顔は、柔らかい印象を与えるが、今は血でまだらに染め上げられて、とても安堵できるような笑顔じゃない。
だいたい。
だいたい──
少女は、この少年が大嫌いなはずだった。
その大嫌いな少年に微笑まれて、安堵する。
それは非道く理不尽なことのように、少女は感じた。
少女は、少年が大嫌い。
これは基本で、当然のことだった。
好きになれるはずがない。
何しろ、少年は金で自分を買い、少女の意志に反して弄んだのだから。
別段、純潔云々に拘りがあったわけではない。
どうせ、自分の様な者に、好いた相手と結ばれるなどと言う、ハッピーエンドは遠いと少女は理解していたから。
例え、少年に買い与えられなくとも、いずれ、自分の意志で金に換えるか、どこかで無理矢理か──そんな、ろくでもないことになるのは、目に見えていた。
セカンドインパクトの疵痕は、未だに深い。
保護してくれる者もなく、芸もなく。無力な少女が一人で生きて行くには、世間というモノは非常に辛く厳しい。持つ者に優しく、持たない者には冷たい。その程度のことは、子供でも解る。そして、少女は、これ以上ないくらいに、理解していた。させられていた。
そう。
純潔なんて、大騒ぎする必要もないことだ。大したモノじゃない。
とは言え、無理矢理自分を抱いた少年を、好きになる理由など無い。
嫌っても、当たり前の話だ。
無論、表には出さない。幸い、可笑しくなくとも笑うことには慣れていたから、表向きは、にこにことしておく。何しろ少女は、その為に、それ故に生かされているのだから。楽に生きようと思えば、少年の歓心を惹いて置いた方がいいのだ。
いつも笑っている。
でも、少女は少年が大嫌いだった。
しかも、更に嫌う理由もある。
この少年は、何不自由なく暮らしている。暮らしてきた。──きっと、これからも不自由なく暮らしていくのだろう。
暖かい布団で寝られる。
雨風を凌ぐ家もある。それも、非常に大きな。
美味しいご飯を、三食ちゃんと採ることが出来る。
きちんとした、清潔な服を着ることが出来る。
まともな教育も受けられる。
全てが、少女が望んでも得られなかったこと。
妬み。
解っているが、持つ者を持たない者が妬むのは、止めようがない。
そんな、人もうらやむ恵まれた状況にあって、少年は、ひねくれたと言う。
それも、非道く人を馬鹿にした理由で。
親に捨てられた。
只、これだけ。
本当に、人を馬鹿にしている。
しかも、捨てられたと言っても、充分な保護を受けてきているにも関わらずだ。
世の中には、親に捨てられた子供など、嫌と言うほどに溢れている。その多くは、保護なんて受けられないと言うのに。
なのに、ひねくれた。
馬鹿にするな。
初めてその話を聞いたときには、少女はわめき散らしそうになるのを堪えるのに、苦労したモノだ。
「僕は、要らない子供なんだ」
少年の呟きに、少女は苛立った。
自分一人が、不幸だと思うな!
そう怒鳴りつけてやりたかった。
要らない子供など、世の中には嫌と言うほど溢れているのだ。
その多くは、保護など無く、只、捨てられる。いや、捨てられるだけ、ましかも知れない。中には、女郎屋やどこぞの研究機関に、見事なくらいの端金で売り払われたりもする者もいるのだから。
親の居ない子供なんて、珍しくもない。
豪勢なお屋敷から出てみればいい。あちこちの路地に、橋の下に、汚らしい恰好をして、ぎすぎすに痩せた子供を簡単に見つけることが出来るだろう。
そして、アレは、少女のかつての姿。
飢えたこともなく、一晩中雨に打たれて震えて過ごしたこともなく、売られ、無理矢理抱かれたこともない甘ちゃんが、何を巫山戯ているのか。
世の中、舐めている。
全く、少年のひねくれた事情など、少女にとっては馬鹿らしい、馬鹿らしすぎる話だった。
少年にとって当たり前の生活が、少女には、憧れても手に入れることの出来なかった類のモノだと、気が付いていないのか?
毎日三食、きちんと食事が出来、屋根の下で布団で眠ることが出来、理不尽な暴力から守られている。
おまけに、女まで与えられる。
至れり尽くせり、見事なまでのお大尽だ。
玩具のように扱われる代償に、おこぼれ的に与えられるモノを、少女がどれほど喜んでいるのか?
理不尽な扱いを受けながらも──それでも、幸せだと感じられる自分のことを、この少年はどう思っているのか?
そう、無理矢理抱かれることも、我慢できた。
今の生活は、その事をマイナスしても、充分以上に価値が感じられたから。
どんな理不尽な目にあおうとも、襤褸を身に纏い、再び橋の下で膝を抱え、空腹を何とかして紛らわそうと試みる生活には、二度と戻りたくない。
だから、無理矢理抱かれることも、我慢できた。
非道く乱暴に抱かれることも。
玩具のように、扱われることも。
それでも、涙が零れてしまうときもあったが、我慢できた。
全然、大丈夫。問題無しだ。
どういう心境の変化か、何故か、最近優しくしてくれるようになったのも、ありがたい。
どちらにせよ、今更の事だが。
そう、自分は、この少年が大嫌いなのだ。
この少年がいるからこそ、自分は今の生活が出来る。
それは承知しているが、それでも、少女はこの少年が大嫌いだった。
甘ったれで、柔弱で、我が儘一杯に育った少年が、大嫌いだ。
本当に、大嫌いだ。
……
なのに。
なのに、今、少女はほっとしている自分に気が付き、非道く戸惑った。
少年の大嘘に、大嘘だと解っている言葉に、安堵している。
非常に、理不尽だ。
全くもって、理性的な反応じゃない。
自分の心の動きに、納得が出来ない。
何故、こんな大嘘に、安堵してしまうのか。
助けられたから?
馬鹿らしい。
この程度の事くらい、何でもないことだ。
相手が、この少年からその他大勢に変わっただけのこと。
撮影されてばらまかれたからと言って、それに、何の問題があるのか。
その程度のことで嘆いたり、悔やんだりするような、生ぬるい育ちはしていないはずだ。
わざわざご苦労様。
少女は、内心で少年を嘲ってみる。
私が、恩に着ると思ったら、大間違い。
常のように微笑みを浮かべたまま、心の中で、舌を出してみる。
どうせ、少年が自分を助けに来たのだって、要は面子の問題だろう。
少年を含め、こいつらは、面子にこだわることに、生き甲斐を感じているように見える。
馬鹿らしい。
面子では、お腹は膨れないのに。
なのに、こだわる。
つまりは、そう言うことだ。
これが、さらわれたのが少女ではなく、飼い犬のポチだった場合でも、少年は同じように行動するのだろう。
下らない面子の為。
只、それだけのこと。
少女は、まるで自分に言い聞かせて居るみたいだと、ここで気が付いた。
馬鹿な、と、否定しかけ、首を振る。
否定しても、仕方がない。
その通りだ。
ここで、いい気になれば、次の瞬間には、再びどん底に落とされるに決まっているのに。
世の中とは、そう言うモノだと、理解しているはずなのに。
自分は、少年が助けに来てくれたことに安堵し、喜びを感じている。
全く、理不尽だ。
理性的じゃない。
だが、それが事実だった。
「もう、大丈夫だから」
反応のない少女をいぶかったのか、少年が、もう一度大嘘を繰り返す。
そして、顔に笑みを浮かべた。
血塗れ。
おまけに、痛みのせいか、その笑顔は非道く引きつっていた。
非道い笑顔。
少女は、素直にそう感じた。
実際、気の弱い子供なら、これを見て泣き出しそうに、非道い笑顔だ。
そのくせ、非常に理不尽なことに、少女は、自分の胸の鼓動が高まるのを感じた。
見惚れる程の笑顔じゃない。
自分の笑顔の方が、もっと自然で、もっと魅力的なはずだ。
比べても、仕方のないことを比べてしまう。
少年が、手を突きだしてくる。立ち上がるのを助けてくれようと言うのだ。
少女は、顔を逸らして、その手を取った。
何故か、自分の顔が赤らんでいることを、少女は感じていた。
全く、理不尽きわまりない。
気まぐれで助け出されたくらいで、面子で助けられたくらいで、何を勘違いしているのか。
馬鹿らしい。
と、少女は自分を嗤う。
いつも笑顔で居るように、完璧にコントロールした表情が、上手く動かない。
きっと、非道い顔になっているはずだ。
全く、自分は何をしているのか。
何を勘違いしているのか。
高々一度、助けられたくらいで、これまでの少年の行為を、全て許せるはずもないのに。
だいたい、まだ助けられたわけじゃない。
と、冷静に周囲を見回して、思う。
まだ、敵はいるのだ。
油断できるような状況ではない。
安堵できる状況ではない。
それでも、この少年に身を委ねれば、大丈夫だ。
そう考えている自分に、少女は非道く、戸惑っていた。
馬鹿みたいだ。
そう思いながらも、その心の動きを、少女は止めることが出来なかった。
そして、その日から──
少年は、少女にとって、特別になった。
同時に、少女もまた、少年にとって、特別になった。
そう考えていたが──
それは、全くの勘違いだった。
全く、馬鹿らしいことですねえ。
と、ユウキは自分を嗤う。
一度、助け出されたくらいで、調子に乗って、本当に馬鹿みたいですねえ。
勘違いも、甚だしい。
自分は、シンジの道具でしかない。
玩具でしかない。
その事を忘れ、いい気になって。
「──で、これからの予定は」
誰かが、近くで自分に話しかけてきている。
「え?」
ユウキは、戸惑いの声を出した。
「?」
もっと戸惑った表情で、リツコがユウキの方を見ている。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと、よそ事を考えていました」
「そう?」
「すみません、これからの予定でしたよね」
ユウキは言って、いつものように笑顔を浮かべた。
可笑しくもないのに笑う事には、慣れていた。
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