#88 椅子一つ分の距離
リツコは、ユウキにこれからどうするのか尋ねたが、現実、する事があるわけではない。
現状取りうる行動オプションは、「待ち」なのだ。
予想されている使徒襲来。それを待つしかない。
太平洋艦隊に対する働きかけも、しばらくは提督に時間を与える必要がある。少なくとも、レポートを読む時間を与えなくてはならない。使徒についての情報をピックアップした方は兎も角、その他、ゼーレの補完計画を含めた詳細版の方は、まだしばらく時間がかかるだろう。
だから、シンジと合流した一行は、そのまま加持の案内で、OTRの食堂に移動していた。
シンジと加持の対面は、表向き、友好的だった。
両者とも、内心では何を考えているか解らないのだが、少なくとも、表向きは。
「やあ、初めまして、俺は加持リョウジ。君が、碇シンジ君だね」
にやにやとした笑みを顔に貼り付け、加持がシンジに自己紹介をする。
「初めまして。加持さん」
シンジの方も、無難に受け答える。
そんな具合に始まった二人のやりとりを、内心、はらはらしながら、リツコは見つめていた。
しかし、二人はそれ以上会話することなく、すんなりと食堂に移動を果たしていた。
もっとも、何とも言い難い、緊張感のような物の存在を感じたが。
食堂に付き、一つのテーブルを占拠して座る。
アスカ、シンジ──そして、リツコ、ユウキの順で。その対面には、加持、トウジ、ケンスケ、青葉。
リツコは、シンジの左隣に座りながら、僅かに首を傾げ、ユウキの方を見た。
ユウキの表情は、常と変わらない。柔らかな微笑を浮かべている。そこに、何かの異変を見いだすことは、リツコは出来なかった。
だが、不審に思う。
ユウキは通常、シンジのすぐ左側に居る。シンジは右利きなので、利き腕でない方をカバーする。そんな事情もあったであろうが、それ以外の事情も。
なのに、常と違い、椅子一つ分、シンジから距離を取っている。
……見た目、変わっていなくとも、内心は?
リツコの視線に気が付いたのか、ユウキがこちらを向く。
矢張り、常と同じ笑顔。
いつぞや考えた事を思い出す。
綾波レイの様な無表情──喜び、悲しみ、怒りと言った感情が殆ど表れない無表情と違って、ユウキは、常に温厚に、楽しそうに微笑んでいる。柔らかな微笑を浮かべている。だから、誰もユウキを無表情であるとは考えない。
──だが、喜んでいるときも、怒ったときも、悲しいときも、常に微笑みを浮かべているのは、無表情と、全く違いがないのではないか? レイの一目でわかる無表情以上に、質が悪い無表情ではないのか?
「……どうかしましたか?」
ユウキが、僅かに首を傾げ、尋ねてくる。
顔は、変わらず笑っている。
「……いえ、何でもないわ」
リツコは、何とも言い難い不安を感じ、言葉を濁した。
下手に口にすれば、ぎりぎりで保たれている何かのバランスが崩れ、取り返しの付かないことになってしまうのではないか?
いや、何も変わらないかも知れない。何しろ、ユウキだ。リツコを煙に巻くくらいは、余裕でするだろう。──矢張り、にこにこと笑いながら。
だが、どこか落ち着かない気分。
それが、質問を躊躇わせた。
「あんまり、私がひっついていると、惣流さんが勘違いをして嫉妬するかも知れないじゃないですか」
リツコの表情だけで、抱いている疑問を理解したらしい。
ユウキがにこやかに答えてくる。
「そうなの?」
本当にそれだけなの?
とは、省略する。
「私は──」
「誰が、誰に嫉妬するって言うのよ!」
ユウキの言葉は、アスカの不機嫌な声によって遮られた。
憤慨している。
それ以外には見えない表情で、苛立たしげに声を高める。
「私は、こんな奴のこと、何とも思っていない。──ううん、大嫌いよ!」
まあ、そりゃそうかも知れない。
と、リツコは納得する。
平たく言ってしまえば、レイプされたのだから。
「またまた、アスカは照れちゃって」
シンジの方は、その辺り、自分に非常に都合良く捉えているようだ。全くの疑問を抱いていない声の調子で、応じる。
それが、ますますアスカの怒りを高めているようだが──
「──?」
リツコは、そこで首を傾げた。考えてみれば、この反応はおかしい。
「やけにアスカが突っかかるわね。どう言うこと?」
自分から離れられなくなるように、こましたのでは無かったのか?
と言外に尋ねる。
「突っかかって当然でしょ! 何で私がこいつに──」
「だって、自分の伴侶ですよ? そんなことしたら、面白く無いじゃないですか。やっぱり、自然な反応を楽しまないと。だから──」
喚くアスカをいなしつつ、シンジが答えてくる。
「誰が伴侶よ!」
「それに、こうやって照れているアスカって、可愛いじゃないですか」
「照れて居るんじゃないわよ!」
叫ぶアスカをシンジはにこにこと見守っている。本心から、「可愛い」と思っているらしい。
「……私には、アスカは本気で怒っているように見えるんだけど」
こめかみの辺りに一粒汗を流しながら、リツコが告げる。
他の者に聞いても、同様に答えるだろう。
これは、間違いなく怒っていると。
まあ、確かに、悪相、凶相の持ち主に囲まれて過ごしてきたらしいから、アスカが如何に怒ろうが、「可愛い」のかも知れないが。
「照れて居るんですよ、間違いありませんよ」
しかし、シンジは、自信たっぷりに応じた。
「──だって、田茂地が照れて居るんだって言ったから、間違いありませんよ」
シンジの自信の根拠は、これらしい。
リツコは、問いかけるような視線で、ユウキを見た。
「みんな、でっかい勘違いをして居るみたいですけど、シンちゃんは非常に鈍いんですよ。朴念仁もここに極まれりというか……」
「はい?」
リツコの声が、裏返って甲高くなってしまう。
「でも、とてもそうは──」
果たして、ネルフの女子職員をどれだけこましたのだろうか?
考えてみる気にもなれない。
そのシンジが、鈍い? 朴念仁?
「シンちゃんは、女性の体の扱いには非常に長けていますけど、心の方は、てんで駄目なんですよ。これまで、たいていの場合は、徹底的にこまして、言うことを聞くようにして──ってやってますから、問題が表に現れなかっただけの話です。体のつきあいですから、こうすれば、こう反応する。ここまでやれば、もう逆らわない。──それは、教育によって叩き込まれていますから、現実とのずれがありません。ですが、そこから外れたつきあいをしようとすると、地金が現れてしまうんですよ」
ユウキが、小声で囁くようにリツコに告げる。
「はあ?」
リツコは、才女に似合わぬ、どこか間の抜けた顔で、首を傾げてしまう。
「結局の所、経験不足の子供なんですよ」
確かに、シンジは14才で、まだまだ子供である。様々な経験を積んできているが、その絶対的な総量は、さほどのモノではない、と言うことらしい。「一つ目国の住人」、ロジックのずれが、それを伺わせなかったと言うことだろうか?
リツコは、シンジの方に視線を移した。
吼えるアスカを、シンジが宥めている。──が、思い切り見当はずれで、アスカをますます怒らせているようにしか見えない。
成る程、とリツコは頷く。
「それ、指摘して上げたら?」
「いいですよ、放っておいても」
ユウキは、にべもなく応じた。
ん?、と首を傾げるリツコから視線をずらし、シンジに向かう。
「シンちゃん、そろそろ、加持さんが焦れ始めたみたいですけど」
「え?」
と、アスカの振り回す手を難なく受け止めていたシンジが、そちらを見ていた加持の方に向き直る。
これはチャンス、とばかりにアスカが一撃を喰わせようとするが、見もしないであっさりといなす。
「……いやはや、二人がこんなに急速に仲良くなるとは、俺の予想外だったよ」
どこか呆れた表情でシンジ、アスカのやりとりを見つめていた加持が、水を向けられ、からかうように告げる。
「そんな、加持さん!」
アスカはその言葉に、悲鳴のような声をあげる。
「私はこんな奴と仲良くなんてありません! 私は、こいつが大嫌いなんですよ!」
「またまた、照れちゃって」
「誰が照れているのよ。私は本気であんたのことが、大嫌いなのよ!」
「──あの時はあんなに可愛かったのに?」
「……」
ぼん、と火を噴きそうな勢いで、アスカの顔が真っ赤になる。頭の上に水を入れた薬缶を載せたら、すぐに沸騰しそうだ。
「ぎゅって僕にしがみついて──」
「ああああんた、何言っているのよ!!」
アスカがシンジの首を掴まえて、がくがくと前後に揺すぶるが、シンジはにこにこと笑っている。普通の人間ならば頭を揺すられて参ってしまいそうなモノだが、シンジは平気なようだ。
「いやはや、本当に仲がいいな」
「ああ〜ん、違うのよ〜! 加持さん、信じて〜!」
「まあ、それは兎も角」
加持は、嘆くアスカを軽くいなして、シンジを正面から見る。顔はにこやかだが、目が笑っていなかった。
「シンジ君、君とは是非に会ってみたかったよ」
「それは、801的な興味を抱いて、と言うことですか?」
ユウキが、緊張を嫌ったのか、横から口を挟む。
「いや、断じて違う!」
加持はあっさり乗せられて、叫ぶように即答した。
「そうですか」
どこか残念そうに首を振るユウキ。もしかしたら、半ば以上真面目に尋ねていたのかも知れない。
ユウキを恐れるように見つめてから、加持は一つわざとらしい咳払いをして仕切り直す。
どうにも、ペースを掴みかねている、そんな加持の表情である。
「何の訓練も無しにEVAを実戦で動かした、サードチルドレンだからだよ」
絶対に、801的な興味ではないことを強調して告げる加持。
「──!」
その言葉を受けて、アスカがシンジを睨み付ける。今までとは、瞳の色が違う。その瞳に浮かぶ感情を分類すれば、同じく嫌悪でも、種類が違った。
EVAにこだわっているか。
リツコは、報告書通りのアスカの反応に、僅かに眉を曇らせる。これは、この先非常に難儀そうだと、頭の芯に痛みを感じる。もっとも、既に充分以上難儀な状況だが。
「別に、大したことじゃないですよ」
心底、そう思っている様子で、シンジがお座なりに応じる。
その言葉を受け、ますますアスカの瞳の嫌悪が深まる。最早、それは憎悪と言っても良いレベルにまで。
「だいたい、加持さんだって、そんなことはどうでもいいと思って居るんでしょう? 僕に動かせるのが当然。そんなことは、加持さんなら当然解っていたはずですし。──加持さんが気にしているのは、僕の「本業」の方じゃないんですか?」
「何のことだい?」
加持は、不思議そうな顔を作って、首を振った。
「俺は、シンジ君の言う「本業」とやらが、何を指しているのか、全く解らないよ」
「そうですか?」
にこにこと、両者共に笑顔をかわす。
リツコは、それをはらはらと見つめた。これは、アスカの反応を観察するどころではない。
私を巻き込まないで頂戴よ。やっぱり、普段通りシンジ君の隣はユウキちゃんに譲るんだった。巻き込まれたら、私は確実に死ぬわね。
リツコの内心に構わず、シンジが更に一歩進める。
「実を言えば、僕も加持さんには会っておきたいと思っていたんですよ。早い内に」
「そうかい?」
ドキドキはらはらのリツコの脇で、あくまでにこやかな会話が続く。
「なんや? えらい空気がちりちりしとる感じせえへんか?」
トウジが不思議そうに首を傾げている。
知らないと言うことは、幸せなことなのね。
どこか羨ましく感じるリツコである。
「それで、どうしますか?」
シンジ、加持だけではなく、ユウキ、青葉の緊張も高まっているようだ。青葉は、これまで会話に参加せず、ユウキから取り戻したギターを弾いていた。そのギターは勿論、リツコが改造した代物。そのネックの先端はさりげなく、しかし、常に加持に向けられている。
「どう、とは?」
惚けるように、加持が聞き返す。
「加持さんのこれからの行動ですよ」
本当にここで始めるつもりですか?
腰を浮かせて、リツコがシンジを見る。
やばい、これは死ぬ。
蒼白になったリツコを、トウジが不思議そうに見つめている。あなたも確実に死ぬわね。でも、知らない分だけ、私よりは幸せかも知れないわね。と、リツコはそちらに視線を送る。
「俺は、アスカの随伴だからね。このまま──」
「サードチルドレン!」
二人の間に高まってきた緊張をリセットするように、ここでアスカが口を挟んだ。
張りつめていた空気が、緩む。
「アスカ、僕のことはシンジって、呼んでよ」
「だ、誰が!」
「アスカって、純情なんだね」
「はあ?」
「照れくさいんでしょ?」
「あんた、バカ?」
「バカって言う子は、自分がバカなんだよ」
「子供か!」
「大人だよ。アスカだって、よく知って──」
「わ〜〜〜〜〜!!」
アスカは大声を出して、シンジの言葉をかき消す。
どうやら、加持の前で、その話題を避けて欲しいらしい。
既に、バレバレであるのだが。
「と、兎に角、私につきあいなさい!」
「勿論、その先も喜んで」
「その先はいらない!」
ちらとリツコが視線を向けると、やれやれ、と言う風な表情をした加持が見えた。
どうやら、ここでの激突は回避されたらしい。
ほっと安堵の息を零すリツコである。
「──で、何処に行くのさ?」
「良いから!」
アスカは、不機嫌にシンジを促した。
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