#89 アダム様がみてる
OTR船室の一つに、田茂地の姿があった。
「ひいふう……これで、ございますか」
田茂地は頬の汗をハンカチで拭いながら、ベッドの上に無造作に投げ出されたトランクを見下ろしていた。
耐圧、耐衝撃──非常に頑丈と見えるトランクである。例えば、シンジが本気でやくざキックを喰らわせても、傷一つ入りそうにないくらいに頑丈に。
ここは、加持リョウジに与えられている船室である。
提督には邪険に扱われている加持であるが、一応は賓客である。また、国連軍の上の方からも、便宜を図るように通達が来ている。重要人物であれば兎も角、多寡が随伴をVIP待遇せよという通達に、提督は憤ったモノだ。とは言え、命令とあれば仕方がないと、士官用の部屋を与えられている。
その加持の部屋で田茂地は、ざっとトランクを見回した。
勿論、トランクに鍵はかけられている。
それ以外にも、セロテープや髪の毛などが貼り付けられており、万が一、誰かがこれを開けたときにはそれと知れるようになっている。
「ひいふう。……間違いございませんね」
その念の入り用から、田茂地はこれが、加持の本来の役割なのだろうと確信する。
如何にセカンドチルドレンが重要人物とは言え、欧州ゼーレ組の切り札である灰が護衛をするというのは、牛刀をもって鶏を裂くようなモノだ。──こう言ったら、アスカは憤慨するだろうが。
このトランクを運ぶ。それこそが、加持の任務なのだ。つまり、それだけの重要なモノが、このトランクの中に収まっていると言うこと。
田茂地は手慣れた仕草で、セロテープや髪の毛を慎重に剥がし、素早く鍵を外す。あっさりと、本当にあっさりと、トランクは開け放たれる。田茂地にすれば、厳重きわまりない鍵も、全く問題ではなかった。
「……これは?」
トランクの中には、赤い半透明の樹脂のようなモノで固められた胎児のようなモノがおさまっていた。赤い半透明の樹脂の様なモノは、硬化ベークライト。EVA零号機暴走を止める際にも使用されたモノ。固まれば、洒落にならない硬度を発揮する。
そのベークライトで固められている。
つまりは、それだけ、重要なモノであるという証明。あるいは、危険なモノか。
その危険なモノに、田茂地は覚えがあった。
「……これは、アダムでございますか?……ひいふう」
田茂地は、頬の汗を拭った。常とは違い、微妙に冷たい汗だった。
「成る程、これの輸送、それこそが、灰の本来の任務でございますか……ひいふう」
納得したように、呟く。
アダム。第一使徒、最初の使徒、アダム。このアダムと、ロンギヌスの槍との接触実験によって、セカンドインパクトが発生したと言う。つまり、それだけの大災害を起こしかねない、危険な存在。それが、アダム。
それから、田茂地は微妙に眉をひそめた。
何かを伺うように、「アダム」を見つめる。
それに対し、ベークライトで固められているというのに、「胎児」はぎょろりとした目を開き、田茂地の方を見返した。
この状況でも、生きているのだ。
「しかし……ひいふう。しかし、欧州ゼーレ組の切り札である灰が、ゲンドウ氏の為に、アダムを持ち出して、輸送する?……ひいふう。おかしな事でございますね……ひいふう」
首を傾げる。
結局の所、ゲンドウは欧州ゼーレ組の潜在的な敵である。現時点では共闘している、あるいは互いに利用しあっているが、決定的な場面──サードインパクト時の、欧州ゼーレ組とゲンドウの思惑は異なり、対決は必至である。
なのに、そのサードインパクトを発生させる為の重要アイテム、「アダム」を、あっさりとゲンドウに渡す理由が解らない。表向きの共闘、そして、その裏では、アドバンテージをせっせと溜め込んでいる状況で、いかにもそれはおかしい。
シンジの存在で実質は異なるモノの、表向きゲンドウはネルフ司令であり、EVAを有し、リリスを有し、近い内には、槍も取りに行くだろう。そこへ、更にアダム。これでは、重要なカードは全て、ゲンドウが所有することになる。
そうなれば、如何に欧州ゼーレ組とて、ゲンドウに配慮する必要も出てくるだろう。
勿論、欧州ゼーレ組には、更に何らかの切り札があるだろう。だが、それでもアダムを運ぶ理由が解らない。
「成る程……ひいふう」
じっと、「アダム」と見つめ合っていた田茂地は、納得がいったという具合に頷く。
「良くできてはいますが、これは偽物、フェイクでございますな……ひいふう」
ゲンドウは、加持の正体を知らないはずだ。精々、好奇心から様々な組織に連なっている、能力はあるモノの信頼の置けないスパイ。その程度に考えているのだろう。
同時に、これは、欧州ゼーレ組以外の加持の雇い主達の共通する認識でもある。
ゲンドウは、加持の好奇心を適当に満たしてやれば、こちらの為にも働く、と軽く考えているのだろう。無論、ゼーレにも関係している事は知っているため、全面的な信頼は不可能。そうでなくとも、元々、信頼の置けない人物。それでも、利用はできると考えたのだ。──そして、いざとなれば、始末すればいいと。
現実には、加持は欧州ゼーレ組の切り札である。加持の行動──ゲンドウが加持に下した依頼、あるいは命令は、全てゼーレに筒抜けで、加持を利用したつもりで、ゲンドウは首に鈴を付けられた恰好である。更には、本物のアダムを得たつもりで、フェイクを掴まされる。これは、非常に良くできたフェイクだから、ゲンドウがそれに気が付くのは決定的な場面。サードインパクト発生の瞬間に、それに気が付き──おそらくは、絶望するだろう。
それを、欧州ゼーレ組の老人達は、楽しそうに笑って見守るつもりだろう。
はっきり言って、趣味が良いとは言えない。だが、ゲンドウを安心させる事は、いろいろと都合がよい。自分のシナリオが上手くいっていると思えば、その為に、必死にもなるだろう。同時に、安堵もするだろう。どうせ上手く行かないのならと、使徒退治に手を抜かれては堪らないし、追いつめられてシナリオを崩壊させるような暴走でもするような事になったら、元も子もないのだから。
加持を使ってゼーレを出し抜いた、そう思わせようと言うのだろう。
「成る程……ひいふう」
田茂地はもう一度、大きく頷いた。
「ならば、これは放っておいた方が良いでしょうな……ひいふう」
本物ならば、ここで横から奪うという手もあるが、これは偽物。そこまでの危険を冒す必要はないだろう。下手をしたら、加持とこの場で全面対決になるかも知れない。それは、もう少し先送りしたい。少なくとも、シンジが素手でATフィールドを破れるくらいに強くなるまでは。
「おや?、……ひいふう」
そう結論付けた田茂地であるが、次の瞬間、首を傾げた。
「どうやら、何か失敗しましたか?、……ひいふう」
呟くと、田茂地は素早くトランクを閉じる。それから、忘れずにセロテープや髪の毛を、元通りに貼り付ける。
そして、次の瞬間、田茂地はその場から消えていた。
ばたんと、大きな音を立てて扉が開いたのは、田茂地が消えた一瞬後だった。
扉を開けて部屋に入り込んできたのは、加持リョウジである。
用心深く、周囲を伺い、異常がないか確かめる。
見たところ、異常はない。
それから、ゆっくりとトランクに近づき、ざっと見回し、貼り付けたモノが貼り付けた場所にあることを手早く確認する。
髪の毛、セロテープ。貼り付けた場所に、貼り付けたように存在する。全く、変化がないように見える。
つまり、トランクは開けられていない?
「……気のせいか?」
顎の無精ひげを撫でつつ、呟く。
しかし、即座に首を振る。
「いや、違うな」
確信を持って加持は結論付けると、トランクを開けて確認する。
「アダム」は、加持の知る恰好のままで、トランクにおさまっている。何も、問題がないように見えた。
ぎょろりと見開かれたアダムの目が、加持を真っ直ぐに見つめてくる。
さあ、一つに。
そんな声が、脳裏に響いたような気がする。
これがフェイクであることを、勿論、加持は承知している。
それでも、惹かれる。惹きつけられる。
フェイクとは言え、それだけの出来なのだ。オリジナルに、非常に近い、コピー。ゲンドウを騙すためには、それだけのモノを用意する必要があった。無論、オリジナルとは究極的な場面で異なるように出来てはいるが。
早く、一つに。
再び、アダムの「声」が聞こえたような気がして、加持は頭を一つ振った。
加持がアダムに惹かれるのは、先天的なモノではなく、後天的な資質。更に、人としての理性があるため、なりふり構わずに──とはならない。
これだけの出来映えのフェイクであれば、本能に忠実な使徒が惹かれる事になるのは、間違いない。これもまた、このフェイクの重要な任務。使徒との戦いは、極東の島国だけで始末を付けねばならない。ゼーレ組の基盤である欧州に、その被害が来ることは絶対に避けたいから。
加持は、全てを思い切るように、トランクを閉ざす。
自分を惹きつける波動は、これでずいぶんおさまった。
一つ息を吐くと、体の奥に残る本能的な欲求の残滓を振り払うかのように頭をふり、加持は口を開いた。
「ゴミ処理係の田茂地は食堂にいなかった。まず、間違いなく、これを見られたな」
思えば、皆で揃って食堂に移動するときには、既に田茂地の姿は見えなかった。その間、どこかで呑気に休んでいるような人間ではない。間違いなく、暗躍していたはずだ。
アダムに全く変化はない。トランクを開けられたような痕跡は皆無。だが、痕跡を残すような可愛げは無いだろう。これくらいは余裕でするだろうと、確信している口調だった。
何しろ、あの碇ムテキの懐刀として活躍した男、田茂地だ。
加持はおかしそうに、心底おかしそうに、顔に笑みを浮かべる。
してやられた?
そう、たぶんしてやられた。
だが、この程度は全く問題ない。充分以上に挽回は可能だ。
いや、逆に、このくらいはやって貰わなくては。
そうした思いも、加持にはあった。
「いやはや、全く、面白くなりそうだな。碇シンジ君といい、あの女の子といい、ギターを持った渡り鳥といい……そして、ゴミ処理係の田茂地。──全く、存外に面白くなりそうだ」
高々、極東の小さな組。それが、碇組の現状。
しかし、この人材の充実度はどうだろう。しかも、それだけでは済まない。いざとなれば、更なる大物──碇ムテキが登場するかも知れないのだ。
あの、碇ムテキが。
ここの所、心が躍るような仕事はなかった。
殆どが、ルーティンワーク。別段、自分でなくとも、充分に達成可能な仕事ばかり。楽しくなるように、火に油を注いでみても、それでもつまらない仕事ばかりが続いた。正直、退屈していたところだ。
そこへ、待ってましたとばかりに、今回の仕事。
今回ばかりは、容易な仕事とならないだろう。
だが、それが面白い。
結果の分かりきった仕事など、つまらない。予想外の事態が起こるからこそ、仕事は面白い。
無論、どんな課程となろうとも、最後に勝利するのが自分であることを、欠片も疑っていないが。
加持はトランクを取り上げると手錠で自分の腕に結びつけ、そのまま、言葉通り楽しそうな、陽気なスキップを始めそうな足取りで部屋から出ていった。
「……ひいふう」
加持が出ていって僅かに経ってから、壁がぺろりとめくれる。その向こうから現れたのは田茂地である。
「やれやれ、難儀なことでございますなあ……ひいふう」
田茂地は、くるくると手早く、壁の模様が描かれた布きれを丸めると、ため息を零した。
加持とは、すぐとは言わないが、対決は必至であるらしい。
「現状のシンジおぼっちゃまでは、少々荷が勝ちすぎますね……ひいふう。さて、どうしますか……ひいふう」
幸いなことに、加持は即座に自分で出張るような事はしないだろう。この仕事を、充分以上に楽しもうと考えている様子だから、いきなりシンジを始末して──と言う手段は採らないだろう。
しかし、その加持の暗躍を凌ぎきれば、二人は間違いなく激突することになる。
その与えられた時間内に、シンジにはレベルアップをして貰わねばならない。
流石に、それは容易ではないだろう。
だが、田茂地は信じていた。
シンジが、いずれ、もっと強くなるであろうと。
そう思ったからこそ、シンジに執事として使える道を選んだのだ。
「取りあえず、時間を稼ぐことが肝要でございますな……ひいふう」
田茂地は考え込むように呟き、今度こそ、この部屋から消えた。
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