#98 愛に時間を……(上)
右足を着水させる。
空気以上の、しかし僅かな水の抵抗。それを最大限に利用して、右足が沈む以前に、残された左足で水面を蹴って一歩前へ踏み出し、着水させる。そして、今度は踏み込んだ左足が沈む前に右足で蹴って一歩前へ。そして、また、足が沈む前に──
言葉にすればそう言ったことを、素早く繰り返し、碇シンジは海面を走っていた。
海面は、波があって揺れている。先刻の戦闘のせいもあり、波は高い。
更に悪い条件としては、お姫様だっこでユウキを抱いている。ユウキの名誉のために付け加えれば、その体重は決して重いわけではない。それでも、人一人分の体重。決して軽くはない。
だから、足はずぶずぶと水に沈んでいく。
沈んだら最後、シンジは金槌である。その恐怖もあって、限界以上の力を絞り出す。
そして、ようやく──
「着いた」
息も絶え絶えに、初号機の腰の辺りに掴まって、シンジは荒い息を吐いた。
「……思い切り揺れましたねえ。乗り心地は最悪です。──そう、例えば、満身創痍で出血多量、意識不明の死刑囚でも、意識を取り戻してしまうほどに」
言葉通り、乗り心地は最悪だったらしい。ユウキが頭をふりながら論評する。
「……何それ?」
変に具体的なユウキの例えに、シンジは首を傾げる。
「さあ?」
ユウキはその疑問に適当に応じると、初号機の背中によじ登った。
「それより、急ぎましょう」
ここまで来てしまえば、今更、自分が乗ることが、シンクロの弊害にしかならず、デメリットだらけで欠片もメリットがないこと、それを言い募っても仕方がない。ならば、何よりも迅速に行動すべきだ。現時点では、艦砲の一発も放たれていない。いないが、戦闘状態継続中であることには、違いないのだから。
ユウキは先陣を切って初号機の背中によじ登り始めた。幸い、やたらと数のあるエヴァンゲリオンの特殊装甲。手足を引っかける場所はいくらでも存在する。よじ登ることは、難しくない。
が、ユウキは僅かに上ったところで足を止めると、僅かに慌てた感じで降りて来て、シンジに並んだ。
「何?」
折角上ったのに、と、シンジが尋ねる。
「いえ、少々不穏な視線を感じましたので。──シンちゃん、お先にどうぞ」
ユウキの恰好は、上はワイシャツ、下はパンツのみである。上はシンジのワイシャツを更に着込み、透けの危険度は減少したが、下の方はそうは行かない。丈の短いワイシャツの裾で、ぎりぎり、隠れる。そんな状態。残念なことに、シンジの背格好はユウキと殆ど違わないため、大きめのシャツをパジャマ代わりに着込む、とか言うような状況よりも、更に際どい状態だ。にゅっと伸びた足はもろに晒されているし、ちょっと下方の視点からのぞき込まれれば、ばっちり見えてしまう。
シンジは苦笑して、先に上り始めた。
「なんだよそれ、ユウキが何を言っているか解らないよ」
等と、言ったところで、一言二言返され、シンジには反論不可能になることは、目に見えていた。口喧嘩では、絶対に勝てない。どうせ、結論は、「シンちゃんはケダモノですからねえ」となり、シンジにはそれ以上の抗弁の術が無くなるのだ。だったら、大人しくしていた方がいい。
既に呼吸を整えたシンジは、しっかりとした足取りで、初号機の背中によじ登っていく。
途中、シンジがユウキを助けたりしながら、二人はエントリープラグへとたどり着く。
外部から操作して、エントリープラグを露出させ、ハッチを開いて内部へ入り込む。
「へ〜」
と、エントリープラグに入るのは初めてのユウキが、興味深そうに視線を巡らせるのをよそに、シンジはインテリアの操縦席に座る。
「ユウキは、どこかに掴まっていて。──さて、こちらシンジ。エントリープラグに入りました」
後半は、通信機を使っての連絡である。
『シンジ君?』
即座に、リツコの言葉が返ってくる。上で、やきもきしながら待っていたのだろう。
「はい、そうです。──ユウキもいますよ」
『……そう』
返答に間が空いたのは、ユウキをエントリープラグに乗せることに対する弊害に頭がいったためだろう。しかし、リツコはそれ以上、何も言わなかった。この状況で、ユウキを外に放り出せと言うのは、殺せと言っているのに等しい。それを、シンジが絶対に許容しないだろうと判断したのだ。。
『それじゃあ、シンクロを開始するわよ』
判断したからには、口にすることもない。無駄な時間は、少しでも減らすべきだから。
「お願いします」
『マヤ、日向君?』
『解りました、先輩』
『了解です』
キャリアーの二人からも返事が返ってきて、即座にシンクロが開始された。
途中、LCL注入で、ユウキが何とも微妙な顔をし、更に味を確かめて顔を顰めたりしたが、問題なく初号機起動は進められていった。多少、勝手が違う。だが、本部で何度も繰り返したことであり、いい加減、慣れても来ていたから。
そして──
『シンクロ成功しました。エヴァンゲリオン初号機、起動!』
『シンクロ率──10.75パーセント。……矢張り、低いです』
予想されていたことだが、シンクロ率は、矢張り下がっていた。起動指数ぎりぎり。
だが、ここは起動しただけ良し、とするべきだろうか?
シンジの方は、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「痛っ、痛たた。特に左手が痛い」
予想されていたことだが、乱暴な着水。問題が存在したらしい。
『左手、折れてますね。他にも、打ち身や捻挫くらいあるかも』
マヤが丁寧に報告してくれるが、この場合、更に痛みを意識してしまうだけの結果になった。
しかし、シンジはそれ以上、痛みに文句を言うよりも先に、緊急に行動しなければならない事情があった。
不思議なモノで、起動した途端、今まで問題なく海面に浮かんでいた初号機が沈み始めたのだ。
「うわ、溺れる!」
悲鳴に近い声をあげて、シンジは初号機を立ち上がらせる。痛みどころではない。沈めば、二度と浮かび上がれないだろうから。
金槌のシンジにとって、それは恐ろしい。恐ろしすぎた。
慌ただしく、初号機が動き始める。右手で海面を思い切り打って、無理矢理上半身を持ち上げる。そうやって稼いだ隙に、右足を持ち上げて海面に着けると、一気に体を持ち上げて、立ち上がる。右足が沈みきるよりも早く、左足を──と、手順は先刻と殆ど同じである。
そのまま、ばしゃばしゃと海面を蹴立てながら、OTRめがけて一直線に駆け出していた。
『……なんだね? EVAはそんなことまで出来るのかね?』
水の上を走るという、出鱈目な機動に、提督が何とも言い難い声で論評を加えてきた。
それに答える余裕はなく、シンジは最後は大きくジャンプして、初号機をOTR甲板に飛び乗らせる。
OTRは右に左にと大揺れしたが、その上に立つ初号機は平然としていた。この程度の揺れなどは、電車やバスで鍛えているシンジには問題ない。取りあえず、しっかりとした足場に立った安堵感に、大きく息を──LCLを吐き出している。
「さて、これからどうするか?」
シンジは、小さく呟く。
未だ、使徒は弐号機をくわえて泳いでいる。そして、矢張り変わらず弐号機にはアンビリカルケーブルが接続されているため、後ろでトウジが小さく呟いた「まるで釣りやな」と言う言葉のような状況である。
「シンちゃん、数字」
その横から、ユウキが指さしする。
差したのは、初号機の残り機動時間。
その数字を見て、シンジは首を傾げる。
既に、数字は4分を割り込んでいる。これまで、精々30秒程度しか経っていないはずなのに。
「無茶をすると、数字が大きく減るみたいですね」
ユウキの言葉に納得する。
「成る程。──となると、遊んでいる余裕はないか」
時間を無駄には出来ない。使徒を倒すためには、無茶もしなければならない。こうして、モノを考えている時間すら、惜しい。
シンジは、左右を見回し──アンビリカルケーブルに目を付けた。
「糞っ」
OTR艦橋で、提督は毒づいた。
「?」
と、副長が首を傾げる。
何に、不機嫌になっているのか。
「子供を矢面に立たせねばならんとは、全く、我々の見事な不甲斐なさ、ぶざまっぷりに腹が立つ!」
提督は、帽子を手に取ると、思い切り力を込めて絞り始めていた。罪のない帽子が、きりきりと軋む。
「何を今更……」
「貴様は、あの少年の体を見て、何ともおもわんのか? アレは断じて、子供の体じゃないぞ!」
副長が首を引っ込めるほどの勢いで、提督は叫ぶ。
通信画面に映し出された、初号機パイロットの裸の上半身。
鍛え上げられた肉体。それは良い。戦士なのだ。鍛えていない方がおかしい。
そして、それ以上に目立つ、全身を彩る傷痕、傷痕、傷痕。フランケンシュタインのモンスターの方が、まだ綺麗な体をしているのではないか、そんな風に思えるほどに、傷だらけだ。それも、ナイフで切られたり、銃で撃たれたとしか見えない傷まで。断じて、真っ当な少年の体ではない。
「……何時命を失うかわからない戦士か」
提督は呟く。
今、その少年の斜め後ろにいる少女の言葉だ。
少年の体を見る限り、その言葉は、全くもって真実としか思えない。
あのような、年端もいかない──提督には、実年齢以上に幼く見えた──少年少女が戦う現実。
腹立たしい。それ以上に、己の無力が。
提督は、基本的に善人である。だから、余計に──
「我々は、我々に出来ることをするぞ! 全力を挙げて、ネルフの人形をバックアップしろ!」
しかし、無力感に沈んでいても、何ら足しにならない。そう考えるだけの理性や知性も、提督は所持していた。言葉通り、我々は我々の出来ることをする。それが、前線で戦わせる少年少女への助けになるはずだ。代わって戦えない以上、それが一番ベストなやり方だと、提督は思った。
……無論、提督の感じた事は全くの誤解で、シンジはシンジの都合で傷痕だらけの体なのだが。
安堵感と、違和感。
エントリープラグ、血の臭いのする液体に包まれたユウキの感じていたモノである。
シンクロが開始されると、この二つの感覚が、ユウキを包み込んだ。どちらも微かなモノ。しかし、確かに感じた。
一つ、前者の安堵感の正体は、即座に知れた。
非常に、慣れた感覚。それは、シンジの気配。
心を委ねてしまうこと、身を委ねてしまうことに、何ら抵抗を感じない、これまでに、慣れ親しんだ感覚。
しかし、心を戒めて、委ねることを止める。これ以上委ねても、依存しても、良いことはない。特に、今の状況では。惣流アスカ・ラングレーという、新たな登場人物がシンジの隣に出現した今では。自分だけが、シンジの横に立つ。そんな事は、最早幻想でしかない。シンジが求めたのは、自分ではないのだ。
そして、もう一つの気配。
これもまた、ユウキがシンジの気配に依存しようとするのを戒める。
なんだろう?
ユウキは、言葉に出さず、首を傾げる。
非道く、なま暖かく、気持ち悪い感覚。そうした気配に、自分が観察されているような気がする。
これは──。
これは、EVA初号機に取り込まれた、シンジの母親、碇ユイ博士の気配だろうか?
母性?
子を見守る、母親の暖かい気配?
その気配が、異物でしかないユウキを、落ち着かない気分にさせているのだろうか?
しかし、どこか違うような気がする。
なんだか、非道く、この気配は危ないような気がする。
上手く言葉に出来ないが、きっぱりと、これは危険だと感じていた。
自分にとって、ではない。
確かに、居たたまれない感覚、どこか心がとげとげしくなるような、それでいて甘い、甘ったるい感覚。まるで、上等な料理に蜂蜜をかけるが如し。──だが、実害はなさそうだと思う。これはただの勘で、理性的な判断では無いが、ユウキ自身の心や体には、殆ど害がないと信じることが出来た。
だが、シンジにとっては、非常に良くない。
これまた勘だが、何故か、そう感じた。
今は良い。今は良いが、いずれ、とんでもないことになってしまうような。
初号機とシンジ、これを、今の内に引き離して置いた方が良いのではないか?
取り返しの着かないことが起きる前、今の内に。
──だが、そんなことが、現状で可能なわけがない。
ネルフの最大戦力。
それが、シンジと初号機のコンビであることは、誰にも異論はないだろう。
使徒はまだ来る。
その状況下で、シンジを初号機から下ろすことには、問題がありすぎる。
綾波レイは、あくまでバックアップ。零号機自体のスペックが低い上、レイのシンクロ率も──シンジほどではないが──低い。現状では、遠距離からの射撃専門。格闘戦は無理。こうした使い方しかできない。そして、エヴァの戦闘で射撃は、今ひとつ決定力に欠ける。
もう一人、弐号機、惣流アスカ・ラングレーの能力の方は未知数だ。カタログスペックは承知している。だが、そのスペックを、実感として感じるまでには至っていない。しかし、今回の様子を見る限りでは──
兎に角、現時点で、シンジ初号機のコンビを崩すことは、得策ではない。
「まあ、アスカには悪いけど、時間がないし、これを使おう」
シンジの呟きが、思考の海に沈んでいたユウキを現実に戻す。
今は、目の前の敵を片付けることを考えろ。
ユウキは自分に命じると、残り時間を示す数字に視線を送る。
数字は、めまぐるしい早さで減少していく。
残り時間は、さほど無かった。
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